スブロサ

一花みえる

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4.グランデアモーレ

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4.グランデアモーレ
 その日は、朝からどうにも浮かれていたように思える。昨晩「明日は一緒に夕飯が食べられますね」とエリザベス様が仰った時、明らかにディヴィッド様の目の色が変わったのだ。最近何かとお忙しくなかなか食事の席に現れなかったエリザベス様だったが、ようやく落ち着いたのか、一ヶ月ぶりにともに食事を囲むという。その時のディヴィッド様の顔と言ったら、もう嬉しさを隠しきれないと言わんばかりに目を輝かせていた。それほどまでにエリザベス様のことを敬愛していらっしゃるのかと微笑ましく見ていた。
 そういうこともあって、今日はずっと「良い子」を体現したかの様にきちんと授業を受け、身なりもきちんとし、俺に対しても授業後に「ありがとうございました」と挨拶もした。もう本当に、天地がひっくり返るんじゃあないのかと驚いたほどだ。これほどまでに効果があるのならもう毎日食事の席に来ていただきたい。そんなこと、きっとディヴィッド様が一番強く思っているだろうに。
 そんなわけで普段は一人きりで座っている大きなテーブルに、今日は二人分の食事が並んだ。テーブルクロスはシミひとつなく真っ白で、カトラリーだってピカピカに磨き上げられている。アリーチェが腕によりをかけて作った料理が乗せられている皿も来客用の豪華なものだった。
 平野部のためなかなか手に入らない真鱈はアクアパッツァにされ、季節の野菜とともに柔らかく煮込まれていた。真っ赤なトマト、青々としたアスパラガス、肉厚で色あざやかなパプリカ。それから旨味を蓄えたアサリからは濃厚なスープが滲み出て、その香りに生唾が滲んできそうだ。仔羊の肉は赤ワインでしっかりと煮込まれ、焼きたてのパンにソースがじわりと絡んでいた。とれたての野菜は果物と一緒にサラダにされ、みずみずしいレモンの香りがふわりと舞っている。給餌をしている間、俺は何度も空腹で悲鳴を上げそうな腹を抱えなくてはいけなかった。
「リズおばあちゃん、それでね、僕、今日はギリシャ語を勉強したんだ」
「それはまあ。頑張りましたね」
「そうでしょう? ちゃんと読めたんだよ! 難しかったのに、辞書も使わずに! すごいでしょう?」
「ええ。さあディヴィッド。早くお食べなさい。お話はその後に聞きましょうね」
 話したいことが次から次へと溢れてくるのか、ディヴィッド様はずっと口を動かしていた。ナイフとフォークを持つ手はずっとそのままで、思い出したように肉を切るがそのまま口には運ばれない。最初はほこほこと湯気を上げていた料理たちは、少しずつ冷めていっていた。
 待ちに待ったエリザベス様とのお食事だ。嬉しくて嬉しくて仕方がないのだろう。適度なおしゃべりは食事のスパイスとはいうけれど、これはさすがに話しすぎだ。それに前のめりになっているせいで今にもシャツが汚れてしまいそうだ。
「ディヴィッド様、お食事が冷めてしまいますよ」
「大丈夫だよ、ねえ、それでね」
 話しすぎて口が渇いたのか、空っぽになったグラスにレモン水を注ぎながら優しく促す。普段、一人でお食事をされている時は誰とも会話をしないからあっという間に夕食の時間は過ぎてしまう。いつもならもう食べ終わっている時間だというのに、今日はまだ皿の上にほとんど残ったままだった。
 ああ、このままではまずい。エリザベス様は優しくも厳しいお方だ。特にこういう、礼儀やマナーにすこぶる厳しい。いくらディヴィッド様のことを大切に思っていたとしても、いや、大切に思っているからこそ、きっとこのままだと彼女はき厳しく躾けをなさるだろう。そうなった時、俺には何もできることはない。ただ彼女の仰ることに従うまでだ。
 だから早く食べてしまえと、そう言っていたのに。
「ディヴィッド」
「……っ、はい」
 すぐ隣で、ヒュッと息を飲む音がした。カシャンとシルバーが皿に当たる大きな音が響く。かろうじてグラスは倒さなかったけれど、それでも明らかに場の空気は明らかに変わった。誰にも、何も言わせないような鋭い重みが落ちてくる。何もしていない俺さえも背筋がぐんと伸びるような気持ちがした。
 エリザベス様が手にしていたカトラリーを置く。物音一つさせず、流れるような動きだ。俺はそれに、つい見とれてしまう。その細い腕に鈍く光るシルバーは重たいだろう。それなのに、その重さを感じさせないような軽やかな動きは、これまで生きてきた中で身につけた品性なのだろう。
 そっと目を閉じて、俺はこれから起こることを静かに受け止める準備をした。
「ディヴィッド。席を立ちなさい」
「えっ、でも」
「先ほどからずっと私は言いましたね。早く食べなさい、と。それなのにあなたはそれを聞かず、料理は覚めてしまいました」
「そ、れは……」
 彼女の言葉通り、テーブルに乗った料理はすべて冷めきってしまい、きっとこれをアリーチェが見たら胸を痛めるだろうというくらい中途半端に食べられただけだった。いつもならこんなことはない。「美味しい」とまでは言わないけれど、それでもちゃんと感謝をして食べていた。ただ今日は、本当に嬉しかったのだろう。目の前に大好きなエリザベス様がいらっしゃって、それどころではなかったのだろう。だから少しくらい、という気持ちも、俺の中にないわけではなかった。
 だがそれらはすべて程のいい言い訳だ。ディヴィッド様を甘やかすだけの都合のいい言葉だ。そんなことを繰り返していたら、きっと彼は駄目になる。その場は心地いいかもしれないが、後々彼を苦しめるだろう。俺だってまだ二十歳の若造だけど、それくらいはなんとなくわかる。みんながみんな、優しいわけではないのだ。特にノールズ家という名前を背負うなら余計に。
「この食事は誰が作ってくれたのですか」
「……アリーチェ、です」
「そうですね。彼女がこのために、どれくらい前から準備をしていたか知っていますか」
 ディヴィッド様は、答えられない。それもそのはず。だって彼は、目の前のことに精一杯だからだ。彼が逃げ込んで乱してしまった中庭をトトとマッテオがどんな気持ちで手入れしているか、彼が走り回って汚した服を洗濯女中がどれほどの労力で洗っているか、彼が何も言わず口に押し込む食事をアリーチェがどれほど時間をかけて作っているか。彼は、何も知らないのだ。
 知らなくてもいい。本当なら、そんなこと仕えられる側は気に留めなくてもいい。むしろ気づかれないよう、さりげなく奉仕することが執事としての役目だと父親には言われてきた。それでも俺は、俺たちは、人間だ。どんなにそれが仕事だと言われてもやはり体は疲れるし心は疲弊する。そういう時に、不意に与えられる心遣いに俺たちは生かされているのだ。
 エリザベス様はそれがお分かりになっている方だ。俺の様な若輩者にでも声をかけてくれる。「ディヴィッドを頼みましたよ」とわざわざ言ってくださる心優しいお方だ。だからこそ、ディヴィッド様には時に厳しくされることがある。特にこういう、礼儀の面に関しては。
「それにヴィンチェンツォが先ほどから何度も注意をしていましたね。それをあなたは聞きましたか?」
「いいえ……」
「いいですか、ディヴィッド。あなたはノールズ家の次期当主の前に、一人の人間です。人が、人を慈しまずどうするのですか」
 そうしてエリザベス様は立ち上がり、テーブルの真ん中に手を伸ばした。そこには、小さなグラスに活けられた小さな花があった。
「こんなに小さくとも、人は花を愛でます。それならばなおのこと、人は人を愛でるのです。そうでなくては生きていけない。人も、花も、同じことです」
 その花は、先日ディヴィッド様が逃げ込んだ中庭でしおれていたベルフラワーだった。薄紫のその花は、細い茎がポキリと折れてしまったがトトたちが懸命に世話をしてなんとか持ちこたえたものだ。きっと明日になったらしおれてしまうだろう。それでも、今日のこの日のためにと二人が育てていたものだった。
 ベルフラワーという名前さえ俺は知らなかったけれど、二人に「なぜこの花なんだ」と、食事の合間に昨夜聞いてみた。ごつくていかつい見た目のくせに趣味は花言葉を覚える事だというマッテオが、自慢げに押してくれたその意味は。
「楽しいおしゃべり、という意味があるのだそうですね。この花には」
「えっ」
「きっとこの食事の時間が楽しいものになるようにと、あの二人が選んでくれたのでしょう。それだというのにあなたは、この花にさえ見向きもせず」
「そんな……僕……」
 それにこの花は、ディヴィッド様の目に良く似ていた。とても鮮やかで明るい紫色。それはまるで、彼をそのまま花にしたようにも思えた。エリザベス様は、何も使用人に遜れと言っているわけではない。ただ、相手も同じ人間なんだからと、そう言っているのだ。
 そしてそれができないのであれば、相応の罰を与える。そういうお方だった。
「席をお立ちなさい、ディヴィッド」
 有無を言わせない言葉に、ディヴィッド様はのろのろと立ち上がった。うつむいたままじっとテーブルを見つめる瞳は、わずかに潤んでいる。その場で泣き出さなかったのは彼にとって最後の矜持だったのだろう。
 食べてもらえなかった肉の塊がポツンと取り残されて、そのまま湯気は消えていった。隣でずっと唇を噛み締めていた俺を軽く一瞥して、それからディヴィッド様は食堂から立ち去っていった。重たい足取りは今にも絡んで転んでしまいそうだ。
「ディヴィッド様……!」
「ヴィンチェンツォ、おやめなさい」
「しかし!」
 それは、あまりにひどい仕打ちだと思った。確かにディヴィッド様の態度はよくなかったかもしれない。ノールズ家の嫡男としてはあるまじき姿だったかもしれない。だが、それには訳があるのだ。言い訳にはならないかもしれない。何を言っても見苦しいものだろうし、かえってディヴィッド様のことを貶めてしまうかもしれない。
 それでも、俺は口を開かずにはいられなかった。
「ディヴィッド様は、エリザベス様と久しぶりにお食事ができることを楽しみにしていて……それで、今日の授業も頑張っておられたのです。褒めてもらいたいから、と」
「私に褒められるために、ギリシャ語を学ぶのですか」
「それは……っ」
 違う。そうじゃあ、ないのだ。俺が言いたいことは。ディヴィッド様の気持ちを全てわかるわけではない。もしかしたら、俺がこうすることを彼は疎ましく思うかもしれない。何、わかった気でいるんだ。そう言われるかもしれない。
 だが、それでも、俺は。
「あの子がここで学ぶのは、ノールズ家の当主として恥ずかしくない知性を身につけるためです。私が褒めようと、そうじゃないと。貴方もそれはわかっていますね?」
「はい……」
「気持ちはわかりますよ。貴方は、本当にディヴィッドによくしてくれている」
 彼女も、苦しいのだ。そのことに気がついたのは、エリザベス様の眉間に悲しそうな皺が寄っていることを見つけたからだ。ただ頭ごなしに厳しい言葉を言ったわけではない。本当なら、これがなんてことない家庭なら、きっと膝に乗せて頭を撫でて、とことんまで褒めちぎっただろう。
 よく頑張ったわね、いい子ね、可愛い可愛い、私のディヴィッド。
 そう言って、惜しみないほどの愛情を注いだのだろう。でもそれは、彼女の立場ではできなかった。ノールズ家の先代当主夫人として、時期当主を育て上げるためにあえて厳しい言葉を言ったのだ。
 俺は、そんなことにも気づかず。
「申し訳ありませんでした……出すぎた真似をいたしました」
「いいえ、いいのよ。……困ったものよね。可愛くて可愛くて仕方がないのに、こんなことを言わないといけないんですもの」
「はい……心中お察しいたします」
 珍しく吐いた弱音に小さく答えると、エリザベス様は笑って「違うわよ」と言った。
「貴方が」
「私が、ですか」
 一体どういうことなのか訳が分からず、思わず聞き返す。確かに授業をサボったり、逃げ出したり、逃亡に加担したりとなかなかに苦労は多い。しかしそれは今に始まった事ではない。それに可愛い、なんて。俺は別にそんなこと、思ったことは。
 ない、とも言えないのが悲しいけれど。
 一応、ないはずだ。
「私はただ、ディヴィッド様の家庭教師としてやるべきことをおこなっているだけです」
「あら、だとしたら私に反抗するかしら」
「それは……大変失礼を」
「ううん。いいのよ。正直言うとですね、少し嬉しかったのですよ」
 エリザベス様は、そう言ってレモンの浮いた水をごくりと飲む。その動作一つとっても洗練されており、まるでバレェを見ているかのようだった。淵についた口紅をそっとナプキンで拭って、それから満足そうに笑った。
 この方はこんなにも笑う女性だったろうか。いつも厳しい表情をされて、怒っているわけではないけれどぎゅっと前を見据えている方だと思っていた。
 でも今日のエリザベス様は、コロコロと表情を変えられる。まるで俺と同じくらいの少女のように。
「貴方がそこまでディヴィッドのことを大事にしてくれることが。ただの主従関係だけではない、それ以上の気持ちを持って接してくださることが本当に嬉しいんですよ」
「それは……私は、差し出がましいのでしょうか」
「まさか。あの子はどうにも疑り深いところがありますからね。貴方の前であそこまで感情を出せると言うのは……それほどまでに大切に接してくれたのですね」
「そうだと、いいのですが」
 なんだか、途端に気恥ずかしくなった。まさか自分が、他人から見てそこまで思われていたなんて。確かにディヴィッド様のことは大切だ。なんせ一日のほとんどは彼のことを考えている。朝起きて、夜眠るまで。いつも彼のことを考えている。
 だがそれは、あくまで家庭教師としてだ。それ以上でも、それ以下でもない。きっとそう。そのはずだ。そうじゃないと困る。
「これからも、あの子のことをよろしくお願いしますね」
「はい。もちろんです」
 深々と頭を下げて、俺は食堂を後にした。ディヴィッド様付きの家庭教師兼執事だから、彼がいないのであればもうここにいる理由はない。エリザベス様もそれがわかっているのか、また明日と言って俺を見送ってくださった。
 さて、一体どこにいるのだろう。あの様子だと直接部屋には戻ってはいまい。図書館か、それとも中庭か。おそらくそのどちらかだろう。こういうとき、すぐに彼がどこにいるかわかればいいのに。それは別に、探す手間を省きたいからとかではない。
 ただ、早く駆けつけたかった。一人どこかで座り込み、落ち込んでいるのだとしたら。一刻も早く隣に行きたかった。行ったところで何かできるわけではない。でも、こんな悲しい夜にディヴィッド様を一人ぼっちにはさせたくなかった。
「あ、ちょっと、ヴィンス!」
 早足で廊下を歩いていると、厨房からアリーチェが声をかけてきた。正直、今はそれどころではないのだけれど。でも彼女を無視するのは失礼な気もして、慌てて足を止めた。
「どうした」
「さっきディヴィッド様がここを通ったのだけど、どうしちゃったのかしら」
「ああ……ちょっと、な。それで今探しているんだ」
「そうだったのね。嫌だわ、私、何か美味しくないものを作っちゃったのかしら」
 日々の食事は全てアリーチェが作っている。それを毎日食べているのだから、今更美味しいとか美味しくないとか、そんなことでとやかく言ったりはしない。彼女がストライキでも起こした日には、ここに住む人間は皆餓死してしまうだろう。
 ある意味この屋敷で一番恐ろしいのは、アリーチェなのかもしれない。そんなことは今どうでもよくて。
「マッテオとトトが、新鮮な野菜が採れたからってたくさん持ってきてくれたのよ。それでいっぱい使ったからお口に合わなかったのかしら」
「そういうわけじゃあないんだ。アリーチェは何も悪くない。今日も、どれも美味しそうだったよ」
「だったらいいのだけれど……」
 安心したような、まだ不安そうなアリーチェの後ろからは美味しそうな香りがしてきた。そうだ、そろそろ俺たち使用人の食事時間だ。エリザベス様たちと同じものではないけれど、こういうときは少しだけ豪華なメニューになるのだ。
 それで、今日は朝からみんな浮かれていた。見るからに仕事のスピードが違ったし、トトなんかは気持ち悪いくらい上機嫌で鼻歌なんか歌っていた。
「そうだ、アリーチェ」
「なあに?」
「一つ、頼みがあるんだ」
 ふと、思いついたことがあった。本当は早くディヴィッド様のところに行きたかったけれど、きっとこのまま行ったら後悔するだろう。手土産もなしで会いに行くなんて。それは全く、気の利かない執事だ。せっかくの豪華な夕食だが、これで少しでもディヴィッド様の心が和らいでくれたら安いものだ。
 それから数分後、アリーチェが手渡してくれたバスケットを大切に抱えて、今度こそ俺は中庭に続く廊下を駆け抜けた。

***

 想像していた通り、ディヴィッド様はバラ園に居た。静かに音を立てて噴水から水が流れ出ている。こんな時間だから彼以外には誰も居ない。真っ暗な、影に隠れてしまうようなベンチに一人で座るディヴィッド様は、普段よりももっと小さく見えた。
 見るからに落ち込んでいる。それも致し方ない。敬愛するエリザベス様に厳しく叱られてしまったのだ。おまけに食事は中途半端にしか食べられないままだったから、きっとお腹も減っているはずだ。
 厨房に忍び込んでこっそり盗み食いをする、なんてことはきっと考え付かないだろう。やんちゃでいたずら好きだけど、そこまでのことはきっと思いつかない。それほどまでに根は純粋で、純朴なのだ。
 そう思って、俺はアリーチェに頼み事をした。余計なお世話だと言われてもいい。それでも俺は、自分がしたいことをやろうと思った。
「ディヴィッド様」
「……なんだよ」
「探しましたよ」
 ベンチの上に両膝をあげて抱きかかえている。その間に顔を埋めてじっと俯いていた。怒られ慣れていないわけではない。毎日俺が叱っている。トトやマッテオも、容赦無く怒っている。ひどいときは足を掴んでぶら下げたりもする。さすがにそれは止めるけれど、案外俺たちから絞られているのだ。
 ただ、今回は相手が相手だ。ここまで落ち込むのも仕方がない。
「お腹が空いたでしょう。私のですが、よかったら」
 差し出したバスケットの中には、大きなサンドイッチが入っていた。ふわふわのパンには色鮮やかな野菜と、分厚いローストビーフが挟まっている。ソースが垂れないようにとナプキンで巻かれていた。
 本来なら、これらは全て俺の夕食になるはずだった。それをアリーチェに頼んで食べやすい形にしてもらったのだ。本当だったらスープもあったけれど、流石にそれを持って来ることはできない。代わりに眠る前のミルクティーは少し熱めにしようと思い、ここまで走って来たのだ。
「いい……お腹空いてない」
「そうですか? 勿体無い。せっかくアリーチェが作ってくれたのに」
「でも」
「こんなに肉厚なローストビーフ、久しぶりに見たなぁ。野菜も今日採ったばかりで新鮮だし、きっと甘いんだろうなぁ」
「うう……」
 よし、もうひと押し。
「このパンも。さっき焼きあがったからふわふわだし、ソースはじっくり煮込まれてるし、一緒に食べると最高なんだろうなぁ……でもディヴィッド様はお腹が空いていないなんて。勿体無い」
「べ、別に! 空いてないとか! 言ってないだろ!」
 いや言いましたよ。つい数分前に。はっきり言っていますからね。でもそれを指摘するとまた拗ねてしまうだろう。全く、どこまでも素直になれないお方だ。不器用で、素直じゃなくて、でも寂しがりや。手はかかるしすぐに脱走するけれど、嫌いになれない。
 サンドイッチを一つ差し出すと、恐る恐る手を伸ばして受け取った。紙に包まれたパンの塊は、まだほんのりと暖かい。少し奮発して多めに作ってもらったから、もしいくつか食べたいと言っても大丈夫だ。余れば俺が食べればいいし。
「明日、アリーチェにお礼を言いましょうね」
「うん……あと、謝らないと」
「今日のことですか?」
「そう。せっかく作ってくれたのに、残しちゃった」
 しょんぼりしながら俯く横顔を眺めていると、つい手を
伸ばして髪を撫でたくなってくる。妹たちに昔やったように、ぐしゃぐしゃとかき混ぜたくなる。でもそんなことはできない。相手はディヴィッド様だ。どんなに幼くて、どんなに大切に思っていてもそれは許されない。
「偉いですね、ディヴィッド様」
 代わりに言葉だけで褒めると、ほんの少しだけ安心したように表情を緩めた。ああ、やっぱり撫でてあげたい。思い切り撫でて、抱きしめて、ついでに頰にキスをしてあげたい。俺にとって最大の賛辞は、幾度も重ねられる言葉よりも、そういう体全部を使ったものだったのだ。
 だがそんなこと、彼にできるはずもない。本当は、誰よりもたくさんの愛情を注いであげたいというのに。どうして俺はこの手を彼に伸ばせないのだろうか。
 触れたい、と。この時、どうしてだかわからないけれど、それでも確かに、俺は強く願った。
「これ、本当に食べていいのか?」
「もちろん。そのために持って来たのですから」
「そっか……ごめん」
「そういう時は、違うでしょう?」
 強く握りしめてぐしゃぐしゃになってしまったサンドイッチを見つめているディヴィッド様を見つめる。その視線は、きっとどこまでも優しいんだろうなと自分で思った。
「ありがとう、と言うのですよ」
「……ヴィンチェンツォ」
 何かを施してもらったら、ありがとうと言えばいい。悪いことをしたら謝ればいい。俺がサンドイッチを作ってもらったのは、ただ単に俺のエゴだ。俺がしたいからしただけだ。それに対してディヴィッド様が謝る必要はない。
 闇に溶けいりそうな小さい声で、ありがとう、と言うディヴィッド様の耳はほんのりと赤く染まっていた。

***

 二人でサンドイッチを食べて、美味しいですね、なんて話をしていると幾分かディヴィッド様の表情は柔らかくなっていた。口の端に付いていたソースを拭ってあげると、今度はちゃんと「ありがとう」と言ってくれる。
 そういえば飲み物を忘れていたから、先ほど取りに行こうかと言った。しかし、ディヴィッド様は俺の袖を掴んで「ここにいて」と言った。なんだ、それ。なんだその可愛い顔。頼むから上目遣いはやめてくれ! 何か変な気分になる!
 そんな、自分でもよくわからない感情を持て余しつつ、空っぽになったバスケットに紙ゴミを入れた。食べ終わると取り立ててすることがない。いつまでもここに居ても時間の無駄だし、俺は俺でやるべきことがある。それは、きっとディヴィッド様もわかっているのか、手持ち無沙汰に足をプラプラさせていた。
 でも、どちらも屋敷に戻ろうとは言わなかった。そう言ってしまったら、もうおしまいになってしまうからだ。二人きりで夜空を眺める時間が。その一言で終わってしまう。俺にはそれが勿体無いと思ったし、ディヴィッド様も同じだといいなと願っていた。どうしよう。何か話を振ればいいのだけれど、そんなの寝る支度をしながらでもいい。ああ、困った。俺は、思ったよりも彼との時間を望んでいるなんて。
 他愛ない話ほど難しいものはない。意味のない会話なんて俺は今まで学んだことがなかった。俺にはそんなもの必要なかったからだ。アリーチェとか、マッテオとかトトとか、彼らとなら話すことはできる。だって俺たちは皆同じ立場だからだ。
 でもディヴィッド様は違う。俺とは立場の違う、俺が仕えるべき相手だ。そんな人と無駄とも言えるような話をするなんて。家庭教師で、執事でもある俺にそんなことは許されていなかった。
「なあ」
「なんですか?」
 何か言いたそうに声を出したディヴィッド様は、そこから先の言葉を悩んでいるかのようだった。いつまでここに居るのかとか、戻らなくていいのかとか、そういうことを考えているのだろう。
 俺も同じことを考えている。そして、答えは出ないままだ。
「あの……そうだ、薔薇が」
「薔薇?」
 何か言わなければと思ったのだろう、とっさに彼が口走ったのはあまりにささやかで、あまりに可愛らしいものだった。
「ここの薔薇、綺麗なんだ。えっと……案内してあげる」
 いくら俺が最近ここに来たからとはいえ、もう何度もこの薔薇園には来ている。それこそディヴィッド様が逃亡するたびにこの薔薇園を訪れていた。だから、ここがどれほど美しいかはよく知っているし、ディヴィッド様のお気に入りの場所ということもわかっている。
 でも、そうでもしないと一緒にいる口実が作れなかったのだろう。これが俺のうぬぼれであってもいい。ただそう思って、彼からの親愛に溺れてしまってもいい。少なくとも俺にとっては天から降って来た僥倖だった。
「ええ、お願いします」
 そういえば二人でここをゆっくり歩いたことはなかった。大体いつもディヴィッド様を探すために走り抜けているだけだったからだ。季節によって変わる花の色なんて楽しむ余裕はなかったし、うっかり踏みつぶさないよう神経を払うことに必死になっていたからだ。
 ベンチから立ち上がって俺の手をディヴィッド様が掴む。小さな手だ。まだ柔らかくて、純真で、無垢な手だ。その温もりに胸の奥がぞわりと震えたつ。彼は何も考えていないだろうし、ただ戯れで触れただけのその手のひらに、俺はなぜだか興奮してしまう。
 ああ、なんて浅ましい。彼の好意を、俺は。こんなにも汚いものに変えてしまう。
「ディヴィッド様……」
「ん? なに?」
 もっと強く握ってください。俺の熱が、貴方に伝わるように。その熱から、触れた肌から、この言葉にできない感情が貴方に伝わるように。
 そんなこと言えるはずもなく、俺はただぎゅっと指先に力を入れるだけだった。
「いろいろ教えてください。今日は貴方が先生ですね」
「まっかせて! 僕、結構詳しいよ」
「頼もしいですね」
 上機嫌で細い道を歩くディヴィッド様の背中を眺める。スキップでもしそうなほどに彼は楽しそうだ。
「そうだ、ねえ。ヴィンチェンツォ」
「なんですか?」
 ふと思いついたように声を上げる。声変わりもしていない、やや掠れた声。喉仏もない、まっさらな塊。その小さな背中から、俺は目を離せなかった。
 くるりとこちらを振り返った彼の表情は、ほんの少しだけ緊張していた。
「ヴィンス、って。呼んでもいい?」
「えっ」
「だってほら、みんなそう言ってるだろう? アリーチェもマッテオも、トトも」
「それは……」
「それなら僕もそう呼びたい。駄目?」
 確かに俺の名前は少しだけ長い。それにこの国の名前ではないから呼びにくいのも事実だ。だからみんな俺のことを、親しみを込めて「ヴィンス」という愛称で呼ぶ。
 ただディヴィッド様やエリザベス様は、やはりご自身の立場というのがあるからだろうか、決してその愛称で呼ぶことはない。そのことに寂しさなどは感じたことなどない。好きに呼んでもらって構わないし、主従関係というものを考えると愛称で呼ぶことの方が不自然だった。
 だから、まさか彼からそんな申し出が来るとは思っていなかったのだ。ディヴィッド様もまだ幼いながらご自身がノールズ家の次期当主であるという自覚はあるし、俺は彼の家庭教師であり、執事でしかないということもわかっている。だから親しくなる必要はどこにもないと、そう考えていると思っていた。
「やっぱり駄目?」
「駄目、では、ありませんが」
「本当?」
「ええ」
「よかった! ありがとう、ヴィンス」
 たったその短い言葉に、俺の足はふわりと浮いた。そんな心地がした。羽が生えたように、わかりやすく舞い上がってしまう。ぶわりと首が熱くなって、頰に血が駆け上って来た。こんなにもわかりやすく自分が喜ぶなんて。
 どれだけ好きなんだ、俺は。
「あともう一つあるんだけど」
「次はなんですか」
 まだあるのか。一体次はなんだろう。内容によってはこれ以上心臓が保たない。今でさえバクバクいって痛いほどなのに。もしもこれが自分一人だったらみっともなく床で転げ回っているところだ。
 今必死に冷静を装えているだけでも十分すごいと思う。褒められてもいい。誰にかはわからないけれど。自分の中にいるなけなしの自尊心が、きっとそうさせていた。
「普段話してる感じで話して欲しいんだけど」
「普段? 今だって普段どうりでしょう?」
「ううん、そうじゃなくて。僕の前で話すのはなんというかほら、堅苦しいだろう? そういうのじゃなくて」
「もしかして……」
 彼の言う「普段」と言うのは、もしかしたらもしかしなくとも、俺がアリーチェたちの前で使うような言葉遣いのことを言っているのだろうか。
 それだけは絶対に駄目だ。何があっても許されない。ディヴィッド様が俺のことを愛称で呼ぶのはまだいい。主人が執事のことを親しみ込めて名前を呼ぶことは、その関係上まだ許される。むしろそれほどまでに信頼されているのかと嬉しくさえ思える。
 だがその逆は。俺がディヴィッド様に親しい言葉を使うことは。絶対に駄目だ。どんなに信頼して、心からの敬愛を払ったとしてもそれはあくまで「主従関係」という枠組みの中でのみ成立するものなのだ。それをはみ出してはいけない。敬愛や尊敬を、友愛と履き違えてはいけない。
 決して、勘違いしてはいけない。
 彼が俺に向ける感情は、主人が執事に向ける好意的なものに過ぎないということを。
「僕、知ってるんだ。ヴィンスがみんなの前では自分のことを『俺』って言ってること。口調もすごく砕けてて……なんだろう、素が出てるっていうか」
「だからそれは……貴方は私の主人であって、そんな方に砕けた口調なんて」
「だったら二人きりの時だけでいいから」
「そういう問題ではありません! いついかなる時でも私は貴方に仕える者であり、貴方は私の仕えるべきお方なんです」
「そんなの分かってるよ! 分かってて言ってるんじゃあないか!」
「なぜ……!」
 繋いでいた手に、ぎゅっと力がこもった。小さくて柔らかな爪が皮膚に刺さる。甘く伝わるその痛みは、まるで薔薇の淡い棘のようだった。
 貴方は勘違いをしている。いつもそばにいるから、つい俺のことを友人か何かと思っているだけなんだ。屋敷で一番年が近いからと、ただそれだけで兄か何かと勘違いしているだけなんだ。だから目を覚まして欲しい。これ以上、戻れないほどの深みにはまってしまう前に。
「嫌なんだよ」
「えっ?」
 泣き出しそうな声で、ディヴィッド様は小さく言葉を漏らした。目の前でブルネットの髪が揺れる。ああ、頼むから。お願いだからそんな悲しそうな顔をしないでくれ。俺は貴方の、ただ笑っている顔が見ていたのに。
「僕の知らないヴィンスが居るっていうのが。それがなんだか、嫌なんだ」
「ディヴィッド様……」
 何がそんなに嫌なんだ。俺のことを知って、何になるんだ。俺のことなんて、そんな。貴方が気にかけることじゃあないというのに。俺は何かを持っている訳じゃあない。何かができるわけでもない。アリーチェのように料理を作れるわけではない。トトやマッテオのように薔薇を育てられるわけではない。俺ができることなんてたかが知れている。
 しかもそれは、全てこの仕事に必要だから仕込んだものだ。ギリシャ語も、ラテン語も、ちょっとした所作も。自分の才能を引き伸ばしたわけではない。できることをただこなしてきただけだ。
 だというのに。そんな俺の何が欲しいというのだ。欲しいのであればなんでも差し出そう。こんなものでよければなんだって手わたそう。俺にできることはただ、彼の欲しがるものを差し出すだけだ。
 だが。それは本当に「執事」として、もしくは「家庭教師」として正しいものだろうか。人間としては不可思議ではなくとも、自分の立場で考えるとおかしなところが出てくるかもしれない。
 どうしよう。わからない。自分のことなのに。したいことと、しなければならないことが、あまりにも大きくかけ離れている。
「前にさ。ヴィンスが僕に言ってくれたこと、覚えてる?」
「前に、ですか」
 俺がずっと黙っていると、しびれを切らしたのかディヴィッド様は何かを懐かしむように口を開いた。その声にふと視線をあげる。月の光がちょうど雲の切れ目からさし漏れて、少しだけ眩しかった。
「僕が僕でいるから、だから好きって」
「言いましたね……」
「それは、僕も同じだよ」
「ディヴィッド様……」
 名前が何だというの? バラと呼ばれるあの花は、ほかの名前で呼ぼうとも、甘い香りは変わらない
 そう言ったのは確かに俺だ。ディヴィッド様がもしノールズという名前を持たず、俺と同じような庶民だったとしても彼は彼のままだ。名前が変わろうと、その瞳の色が違おうと、その魂は何も変わらない。
 それを伝えるために俺はこの言葉を選んだけれど、なるほど確かに、同じことを言われるとなんだか気恥ずかし。というかこれは、もはや愛の告白ではないか。俺は一体なんてことを言ってしまったんだろう。
「それで天然タラシか……」
「意味、わかった?」
「わかりました、ええ、とても!」
 気づいてしまうとここまで恥ずかしいものはない。なんだ、結局俺はあの時から自分の立場を超えた感情を抱いていたのか。だったらもう今更だ。罰せられるのであればもう俺はとっくの昔に裁かれているだろう。
「ねえ、ヴィンス」
「……はい」
「はい、じゃなくて」
「ああ……なんだ」
「ふふ、ううん。なんでもない」
「なんだそれ」
 一度言葉を発したらするりと何か重たいものが抜け落ちていったような気分だった。なんだ、こんな簡単なことだったのか。俺が彼に抱いている感情を形にすることは。堅苦しくて面倒臭い言葉を剥ぎ取るだけで、ここまで気持ちは変わる。目には見えないけれど分厚くて高い壁が一気に崩れていく。
 なんだ。簡単なことだったじゃあないか。
「二人きりの時だけだからな」
「うん! 二人だけの秘密だね」
「ああ。秘密だ」
 こんなことがバレたら大変なことになる。仲がいいからでは済まされることではない。でも、こうすることが俺たちにとって最も自然だということも、同じほど変わらない事実なのだ。
 心なしか肩と肩の距離が近い。半歩でも寄ってしまえばぶつかってしまいそうだ。
「ずっと、ヴィンスに聞きたかったことがあるんだ」
「俺に?」
「うん……僕に前言ったこと、覚えてる?」
 前に、とはどれほど前のことだろうか。これほど毎日一緒に居たら自分が何を言ったか明確には覚えていられない。授業中に逃げるなとか、ふてくされるなとか、そういうことしか覚えていないけれど。
 他に何かあっただろうか。
「僕の目が好き、って」
「ああ」
「あの後、やっぱり能力のことを言ってるんじゃないかって思ったんだ。……お前のこと疑ってるわけじゃないんだけど。どうしても、そう思っちゃって」
「わかってる。しょうがないだろ、ずっとそうやって言われてきたんだろうし」
「そう……」
 この国には、昔からそういう風習があった。瞳の色が濃くて、また澄んでいればいるほどその人は高い能力を持つ、と。俺たちの祖父の代でもそれはまだ残っていたようで、ノールズ家ほどとなればいくら科学的根拠がないと言われても考えの根本にそれは根強く残っている。
 そんな家に生まれ、周りからの期待を一人で背負ってきたのだ。そりゃ俺の言葉をすぐに信じられないことだってあるだろう。だからそれを咎めるつもりはない。そんな権利もない。
「でもな」
「うん?」
 立ち止まって、そっと頰に手を伸ばす。目の下を指先でなぞる。暗い闇の中でもその双眼はどこまでも明るく、美しかった。
「俺は、好きだよ」
「……っ!」
 難しい言葉をいくつも重ねるより、シンプルな方がいいだろう。
 綺麗だ、美しい、だから、好きだ。
 それ以上の何が必要だろう。
「ほんと、天然タラシ」
「何がだよ」
「ずるいよね、ヴィンスは」
「はぁ?」
 耳まで真っ赤にして、頰を膨らませている。なんなんだ、全く。でも本当に、好きなのは事実だ。その言葉の裏に邪心はない。
「それにさ。よくもまあ、僕のことを見捨てないよね……僕が言うのも変だけど」
「なんで俺が見捨てないといけないんだよ」
「だって! その……今日だって、迷惑かけたし」
「今日? ああ。別にいいよ。それが仕事だからな」
 エリザベス様に対してのことだろうか。それとも食事を持って行ったことだろうか。なんにしてもそれは執事としての仕事であって、彼が気にやむことではない。
 おかげでこうして一緒に居られるわけだし。俺としては得たものの方が多い。普段なら絶対に聞けないような話もできた。自分の抱く感情についても、少しだけわかった気がする。
「でも」
「俺が好きでやってんだよ」
「それが分かんないんだ」
「え?」
 突然揺らいだ声にふと隣を見ると、ボロボロとこぼれだした涙に気がついて俺は慌ててその場にしゃがみこんだ。え、なに、俺何かした!? というかエリザベス様に怒られてもなかなかったのに、なんで俺の前では泣くんだよ!
 どうしよう、泣き止ませるって何したらいいんだ。妹はいるけれど適当にあやしていたら泣き止んでいた気がする。いや、どうだっけ。かなり昔のことで忘れてしまった。
「え、ちょ……!」
「なんで、僕のこと、そんな……っ、ヒック、ヴィンスが、うえぇ、っ……、好きとか、そんな」
「あーもう、泣くなって! なんだよ、俺がなんだって?」
 ずるりと鼻水を啜り上げる音がした。急いでハンカチで拭いてあげる。目尻が真っ赤になっていて、大きな瞳からは次から次へと大粒の涙が溢れていた。
 一体何がどうしたというのだろう。誰に怒られても決して泣かないというのに。今の流れのどこにそこまで涙腺を崩壊させるものがあったろうか。
「落ち着けって、ほら。よしよし」
「うぅ……っ」
 背中を軽く叩いてやると、少しだけ落ち着いたのかしやくり上げる声は小さくなった。それでも顔はドロドロになっているし、相変わらず目は真っ赤だ。これは寝る前に冷やさないと明日まで残ってしまうだろう。
 抱きしめるような形で背中を撫でていると、俺の肩口に顔を押し付けてきた。今までずっと溜め込んできたからだろうか、そう簡単に泣き止みそうにない。まあ、これはこれでいいか。落ち着くまでしばらくかかりそうだ。
「まったく、何がそんなに不安なんだか」
「だって、僕はお父様や、お祖父様とは違うし」
「そりゃ違って当然だろ」
「でも……」
 歴代の中で最も優秀かもしれないと期待され、自分の知らないところで勝手に持ち上げられて、何かできるたびに「やっぱりノールズ家だから」と言われる。努力をすればするほど、その成果は軽んじられる。確かに努力できることはある種の才能だ。でも、それは誰にも理解されないし、褒められることもない。
 褒められるために努力をするわけではないだろうが、でもやはり認められたいだろう。ノールズ家という肩書きを全て取り外して、そこにいる生身の彼自身を手放しで褒めてくれる誰かを。ずっと、きっと、望んでいたのだろう。
「僕は……」
「ん?」
 耳元で、ぽつりと小さな言葉がこぼれ落ちた。
「ただ、愛されたいだけなのに。何かができるからとか、そういうのじゃなくて……」
「うん」
「でもみんな、僕のことを違う目で見てくる。何かができないと愛してもらえない。何もしなければ呆れられるし、興味も失っていく……そんなの、おかしいって、思うのに」
 言葉と一緒に涙も溢れてきた。まだほんの十二歳だというのに。あそこまで他人に期待をしない、愛情を受け取ろうとしない、欺瞞の目でしか人を見られない。その様々な理由がようやくわかった気がする。
 結局は怖いのだ。自分に向けられる愛情や興味が、自分自身にではなくそこに付随するその他の要因にしか向いていないのではないか、と。だから授業中に逃げ出して俺を試していたのだ。いつまで興味を持ってくれるか。いつまで叱ってくれるか。いつまで根気よく、相手をしてくれるか。
 ああ、なんて下手くそなんだろう。そんなことをしなくても、俺は、いつだって。
「ちゃんと見てるよ」
「う、……っん」
「今日だって見つけたろ? ほら、ちゃんと見てる」
「うん……うん。ありがと、ヴィンス」
 せめて俺だけは、と思う。でもこの関係だって期間が決まっているのだ。いつまでも隣に居られるわけじゃあない。いつか彼は結婚をして、子供を作るだろう。そうしたらおそらく奥方が彼の理解者になるだろう。俺の仕事はきっと、そこまでだ。そうしたらまた、執事としての役目を全うしよう。
 だからそれまでは、せめてそれまでの短い間だけでも、俺は彼の隣に居たい。泣きたい時に泣けて、笑いたい時に笑えて、そうして心の思うままに生きていけるように。それが許される存在として、俺は彼の隣に居たい。
「なあ……ディヴィッド」
「っ、なに」
 初めて、彼の名前を呼んだ。いつもみたいに様をつけることなく、呼び捨てで。それまで意図的に呼ばないようにして居たけれど、今はなぜだろう、どうしても呼んでみたくなった。
 もう一度名前を呼んで、今度は髪を撫でる。ふわふわとした手触りが心地よい。ギュ、と俺のシャツを握る手に力がこもった。
「愛とか、情とか、多分人それぞれで、溢れるほど存在すると思うんだ」
「うん……?」
 綺麗な形をしたつむじを見下ろして、そこを人差し指でくすぐる。むずがるように身じろいだのを可愛いと思って、もうそういう感情を抱く自分に何の疑問を抱いていないことに驚いた。
 ただ言葉遣いと、呼び方が変わっただけなのに。不思議なものだ、人間というのは。
「多分、エリザベス様もアリーチェもマッテオもトトも、お前のことが大好きだよ。そりゃ確かにノールズ家の次期当主ってのも、考えにあるかもしれない。でも」
 ただそれだけで、あそこまで親身になれるだろうか。そこまで俺たちは暇じゃあない。日々の仕事に追われ、夜には疲れ切ってぐったりと眠ってしまう。それでも彼を見捨てないのは。
「ディヴィッド、お前はちゃんと愛されてるよ」
「な、んだよ……それ」
「そのままだっての」
「ヴィンスは……やっぱりラブロマンスの読みすぎだ。ニーチェでも読んでみれば!?」
「お前なぁ、人がせっかくいいこと言ってんのに!」
 それでも、ようやく笑った表情を見て心なしか安心する。しおらしい姿よりも、やはり反抗的であっても前を向いている方が彼らしい。きっとまた悩むこともあるだろう。落ち込むこともあるだろう。その時にはまた思い出して欲しい。
 人が人を思うというのはどういうことなのか。そして、その感情の根元には何があるのか。それをきちんと見つけて、大切にできるように。
(俺も、ちゃんと考えないとな)
 自分が彼に、ディヴィッドに向ける感情が一体どういうものなのか。明確な名前を今はまだつけられないけれど、でもいつか、ちゃんと形にできればいい。
 甘い薔薇の香りを嗅ぎながら、もう一度ブルネットの髪を撫でた。
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