とら×とら

篠瀬白子

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悪い、食欲ねぇわ。と豹牙先輩が言う。それに俺はそうですか、とだけ呟く。あの動画を見てからもう六回目のやり取りに、新山さんですらため息をついた。

はじめはトマトスープだった。動画を見た翌日、朝食に並んだそれを見た途端、豹牙先輩はこみ上げてきたものを吐き出した。次は魚だった。当然肉なんて見ただけで拒絶反応が出る。野菜も果物も駄目だった。いつしか、彼の体はすかすかのパンしか受け付けなくなった。


――ガシャンッ!

「あ……」


本日三回目の音に、隣に立つ仁さんがため息をついた。とっさに片づけようとした俺に代わり、まだこの街に滞在している志狼が破片を拾い集める。それを茫然と見つめる豹牙先輩が、ハッとしてしゃがみ込む。


「豹牙、帰って休め」
「すみません、仁さん。でも」
「二度言わせるな」
「……はい」


明らかな栄養不足と精神的疲労で倒れそうな豹牙先輩に、強く言いつけてこちらを見る仁さんに頷く。けれど、このままあの部屋に彼を連れて帰りたくはなかった。だからと言って俺にどうすることもできず、ふらつく豹牙先輩を支えるように仁さんたちへ頭を下げた。

豹牙先輩とは対照的に、今日も元気な非行少年、少女たちが夜の街をうろついている。その顔に浮かぶ楽しげな表情をぼんやりと眺めながら、ショーウィンドウに映る彼の姿と比較して、思わず立ち竦みそうになった。
……とにかく、豹牙先輩の心労を取り除かなきゃ。それからじゃないと、きっとすべてがダメになる。


「小虎」


立ち止まった俺を豹牙先輩が呼ぶ。そちらに顔を向けると、なぜか今にも泣きだしそうな彼がじっとこちらを見つめていた。そんな豹牙先輩に微笑む。次の瞬間、彼は目を逸らした。


「お、珍しい組み合わせだなー」


どっと肩を組まれて体がふらつく。おいおい、なんて後ろの人物がすかさず俺を支えてくれたが、声の主をちらりと見れば、彼は豹牙先輩を見て顔をしかめた。


「お前どうした、死んだ魚みてーな顔してんぞ」
「西さん……」


未だ俺に伸しかかる西さんの名を呼ぶ。か細い俺の声を聞いた西さんは、なにかを考え込んでいたと思ったら、いつのまにやら俺と豹牙先輩の肩を組み、歩き出すのであった。


「ほら見ろガキ共、この街一番の絶景スポットだぞ。ご利益あっから拝んどけ」


あれから鼻唄交じりの西さんに無理やり連れて来られた場所は、彼いわくこの街一番の絶景スポットらしい。とはいえ廃墟ビルの屋上だがな。
はじめは抵抗していた豹牙先輩も、さすがにもう諦めて俺の隣に立っている。一人拝んでいる西さんをちらりと見て、すぐに広がる景色へ視線を戻した。


「どうせあれだろ? 司がまたなんか仕出かしたんだろ?」


つい先ほどまで拝んでいた西さんがそう言いながら、俺と豹牙先輩に缶コーヒーを手渡す。いつ買ったんだろうか。


「あいつガキん頃から変わんねぇからなー。で? 今回はなにしたの、アイツ」
「アンタに関係ねぇだろ……」
「お、江藤弟。それはやきもちかなー? 冷めないうちに俺が食ってやろーか?」
「近寄んな」


ニヤニヤしながら歩み寄る西さんに、豹牙先輩が舌打ちをこぼす。俺はそんな二人を呆然と眺めながら、そっとビルの下を覗き込む。


「あんまり身ぃ乗り出すなよ。あぶねぇだろ」


いらぬ心配をしたのか、西さんが俺の腕を引く。意外にも力が強くて驚いた。


「なぁ小虎、お前なんでお粥作ってんの?」
「え?」
「カシストでさ、お粥作ってんだろお前」


唐突な話題に思わず面食らっていると、ニヤニヤと微笑んでいた西さんの表情が真剣なものへと変わる。たじろぐ俺に、彼は煙草を咥えて深く、息を吐く。


「あー……こっからは俺の、まぁ、独り言な?」


頭を掻き、缶コーヒーを一気にあおった西さんは、今にも崩れそうな柵に肘をつける。


「俺、昔はまぁやんちゃしてまして、悪友が作ったチームなんぞにいましたよ。で、そこで俺は喧嘩するでもなくただ見てた。悪友二人が人を殴っていく様をただ見てた。悪友いわく、それが俺の役目なんだとよ。なんじゃそりゃーって最初はまぁ思わないでもないが、次第に見ることに変な充足感を持ち始めた。同時に使命感も持った。この瞬間をどうにかして形にできねぇかなーって、毎日毎日そんなことを思ってた。だってよー、人が人を殴る、ただそれだけのことなのに、なんでか泣きそうな面してる奴とかいてよー。かと思えば鬼みてぇな奴もいて、とにかく形にしねぇとダメだ! って思ったわけ」


そこまで言って、どこから取り出したのか分からない小型のデジカメをこちらに向ける。
カシャッ、と小気味良い音が廃墟ビルの屋上に響いた。


「で、辿り着いたのがカメラだったわけ。写真ならその瞬間を形に残すことができんじゃん? そしたらもーハマったハマった。毎日誰かの喧嘩を撮りまくった。時には殴られた。あ、もちろんやり返したが。なんだろうなぁー……、なんかさぁ、一生懸命? なんだよな。もがいて苦しんでいっぱいいっぱいな不良どもがさ、すげぇ可哀想に見えたのかもな? ま、余計なお世話だろーけど?
でもさ、同時に好きだったねぇ。がむしゃらな不良が可愛くも見えてさ。もっと多くの人にこいつらの馬鹿で幼稚な姿を見せなきゃって思って売り込んだ。したらヒットして、今や俺はプロカメラマン? みたいな?」


あははっ! 笑う西さんの振動で柵が揺れる。ギシッと嫌な音がして、ボルトが一つ外れた。


「図らずしも、俺は悪友のおかげで不良の可愛い一面を知れたわけだが、きっとそういうことだったんだろうな。司が俺に見てるだけって役目を押しつけたのは、証人が欲しかったんだろうな……だってそうじゃなきゃ、誰にも知られず終わっちまう人生なんて、寂しいもんな」
「……」


見てるだけ。それは恐らくブラックマリアにおけるスペードのエースを指しているのだろう。現在のエースである豹牙先輩が、ただ黙ったまま、しかし必死に西さんを見つめている。


「見てるだけってのは楽だよ。でも時には当事者以上に残酷だ。でも見てなきゃいけない、見てやんなきゃいけない。その意味が分からないままなら、いっそ司から離れたほうがいいぞ豹牙」
「……うっせぇよ」


あははっ! またも笑う西さんの振動で、ついに柵が曲がった。慌ててこちら側に引く西さんに、俺は苦笑したのだった。

それから西さんが語る武勇伝を聞き流しながら、豹牙先輩の煙草が空になった頃、背伸びをした西さんが「帰るかー」と言い出した。
廃墟ビルの屋上から望む世界はすっかり夜へ染まっているが、星の明りを受け付けないほどに、地上は眩しい。


「俺とお前ってさ、ちょっと似てると思うんだよなー」


そんな景色を見つめていた俺の頭を、ポンッと叩いて西さんが肩を組んできた。思わず視線をずらして見る豹牙先輩は、恐らく新山さんと電話しているのだろう。


「西さんに似ているだなんて不服です」
「可愛くねぇなー。ちゅーしちゃうぞー」
「止めてください変態が」
「あはは。今度は可愛くなりやがったなー? やっぱりチューしたる」


近づく顔を避けて、思わず威嚇する。そんな俺に西さんは肩を震わせて笑っていた。


「ま、なんにせよ? みっともなく生きてるもんなんだよな、人間様ってのはさ。そんな可愛くてどうしようもない被写体がさ、俺は大好きだよ。そいつらの一瞬を形に残してやりたいって、いっつもシャッター押してるつもり」
「……上から目線ですね」
「ばか、それでいいんだよ。してやるって意気込みでぶつかっていかねぇと、こっちが呑まれちまう」
「のまれる……?」


首を傾げる俺に、西さんはフッと微笑む。


「みっともねぇ奴にはそれ以上みっともねぇ自分じゃなきゃ、なにしたって意味ねぇってこと」


言葉の全てを理解することはできない。それでもほんの少し、本当に少しだけ分かるような部分が心を突いてくるものだから、俺は思わず頷いた。そんな俺を認めた西さんはまた笑いだし、もう一度俺の肩を組んでくるのであった。

あれから無事帰宅した俺と豹牙先輩は、付き添っていた西さんも一緒になって仙堂さんに叱られた。新山さんは後ろで笑っていたけれど、そのウザさにキレた仙堂さんが彼を殴った隙を見計らい、西さんはとっとと帰っていった。

不覚にも、ほんの少しだけ気持ちが軽くなったと思う。それを素直に認めてやるのは癪だが、いい加減甘んじるのは辞めにしよう。


「豹牙先輩、今日はお粥にしてみました」
「……や、わりぃけど俺は」
「ダメです、俺は今日から心を鬼にします」
「は?」
「豹牙先輩が食べないなら、俺だって新山さんだって仙堂さんだって食べません!」
「はぁ?」


おいおい小虎くーん? 俺たち関係なくなーい? なんてぼやく新山さんをキッと睨む。


「関係なくなんてありません。いい大人が寄って集ってなんですか、みっともない」
「えぇ? ちょ、仙堂、小虎くんがおこだ。激おこだ」
「新山さん、今は真面目に聞いたほうが良いと思いますよ」


怒る俺を冷やかす新山さんに、仙堂さんが頬を殴る。少しだけ気分がすっとしたことは言わないでおこう。くるりと豹牙先輩に向き直ると、彼は唖然とこちらを見上げていた。


「豹牙先輩も豹牙先輩です。あんな動画一つ見たくらいでなんですか。あんなスプラッタ映像、豹牙先輩ならリアルで見てるでしょ?」
「……や、さすがに爪を剥ぐのは俺も……」
「人を殴るのも爪を剥ぐのも似たようなもんです」
「いや、違うだろ……」
「いいえ、違いません。人が人を傷つけてることに違いはありません」


ピシッと言い放つ。論点がずれていることに俺自身突っ込みたかったが、誰一人として口を開こうとはしなかった。


「いいですか、豹牙先輩。あの日、俺が新山さんなんかに連行されたあの日、豹牙先輩は俺に今回のことを話してくれるといいましたね? 俺、ずっと待ってたんですよ? なのに先輩は日に日に弱っていって……俺、聞く勇気が出ないじゃないですか。ずるいです、先輩はずるいですよ」
「小虎……」


立ち上がろうとした彼の肩を、しかし俺はグッと抑え込む。


「みっともないですよ、格好悪いですよ。今の豹牙先輩は格好悪いです」
「……」
「でも、そんな先輩のことも、俺は好きですよ」
「……小虎」
「司さんだって、そんな豹牙先輩のことが大好きですよ」
「……っ」


豹牙先輩と俺の共通点、それは弟であるということ。俺が玲央に暴力を奮われ、冷たくされていたとき悲しかったように、豹牙先輩だって司さんに冷たくされれば悲しいはずなのだ。それをきっと、他の誰より司さんは知っているはずなのだ。


「だから豹牙先輩、俺、司さんに会ってきます」
「は?」
「色々と思うことはありますが、個人的にちょっと言ってやりたいことがありまして。だから、行ってきます」
「ばっ、おま……っ」


再び立ち上がろうとする彼の肩を、倍の力で抑え込む。そんな俺の手に触れた豹牙先輩の手は、いつもよりちょっとだけ頼りない。


「ダメと言いました。もし俺を止めたいのであれば、まずはこのお粥を食べてください」
「……」
「まぁ、とはいえ食べ終わるのを待つほど、俺は優しくなんてありませんけど」
「っ!?」


驚く豹牙先輩に微笑み、大人しくこちらを見ていた仙堂さんに目配せする。なにか言いたげな彼だが、俺の意図を汲みとってくれたのか、代わりに豹牙先輩の肩を抑えつけた。


「別に食べずに捨てても構いません。新山さんや仙堂さんにあげても構いません。俺に言わなきゃバレませんからね。先輩の気が済むのなら、どうとでもしてください。じゃあ、行ってきます」
「こと……っ」


なにか言われるその前に、俺はリビングの扉を閉めた。その場で一度深呼吸をして、事前に用意していたお粥を持って隣へ赴く。インターホンを鳴らして数秒後、顔を見せたのは意外にも巴さんだった。

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