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お兄ちゃん 1
しおりを挟む――朝、それは生ける者に等しく訪れる……嫌だと思っても、訪れる。
チチチチチ……。
鳥の声を聞きながら俺は布団から出られずにいた。
理由は二つある。一つは飲み過ぎによる頭痛のせいだ。そしてもう一つは……玲央に会うのが怖いから、である。
昨晩、いやつい三時間前か。
トイレでのあの騒動後、平然と隣に座る玲央にビビりながら、帰るのが怖くてつい朝まで飲み明かしてしまった。このときばかりはハイテンションの司さんと巴さんが神様に見えたが、終わりというものは何事にも訪れる。
帰りのタクシーでどれだけ俺の肝が冷えたか、玲央には分かるまい。
そうして帰るなり部屋に逃げ込み、どこかへ消え去った眠気を探しながら布団を被り、今に至る。
大体おかしいだろ、なんだアレ。
突っ込みどころが多すぎて逆に突っ込めねぇって、まさにアレだよ。
なんだあの目は、あの行為は、そしてあの理由は。
いやまぁ、なんだ。ちょっと気持ちいいとか思ったけど? ――じゃなくて。
そうじゃなくて、俺と玲央は兄弟だ。家族だ。
あれはダメだ。絶対に、ダメだ。
――と思って目を瞑り、次に開けたとき外はすでに暗くなっていた。
あぁ寝ていたのか。てか寝れたのか。なんて鈍い頭で理解しながら欠伸をひとつ。
「おい、起きてるか?」
「うおっ!?」
そんでいきなりノックもなしに声をかけられ、不審者丸出しの俺である。
恐る恐る扉に視線を向けるが、そこが開かれる気配はない。
「飯作ったけど、お前先に風呂入れよ」
「へ? あ、風呂?」
「入んねぇで寝ただろ」
あぁ、はい。入らないで寝ました。枕とかシーツとか汚れてる気がします。……洗おう。
扉の前に玲央の気配を感じつつも、俺は布団から抜け出した。枕カバーやシーツを剥ぎ取り抱え込む。そのまま勢いで扉へ行き、開けようと試みるも両手が塞がり上手くいかない。と思っていたら扉が開いた。
――あ。と口に出なかっただけ、マシかもしれん。
「……」
「すっげー寝癖」
くしゃり。開口一番そう発し、いつものように俺の頭を撫でる玲央。そのまま背を向けソファーへ歩き出す背中を見つめながら、俺はよく分からない息を吐いた。
そうしてシーツやらを洗濯機にかけ、そのあいだに風呂へ。上がった頃には玲央が料理を温めており、その姿にまた息を吐く。……なんだかなぁ。
「……いただき、ます」
「いただきます」
シーンと静まり返る部屋の中、食器の音がいやに響く。玲央は黙々と食べていたけれど、俺はしょっぱいはずの料理の味がよく分からず、ひたすら皿を見つめていた。
食べ終わり、せめてもと食器を洗う俺のうしろからは、玲央が見ているだろうテレビの音が聞こえている。洗い終わり脱衣所へ行くとシーツやらの乾燥はすでに終わっていた。
ふたたび両手に抱え込み、部屋に戻ってセットする。うん、柔軟剤の良い匂い。だからといって、その匂いにつられて眠るほどの眠気はない。
開け放した扉からリビングを覗くと、冷蔵庫からビールを取り出す玲央の姿を見つけた。
くるりと体を反転し、部屋の壁に背をつける。はぁ~、と深いため息がこぼれたのは一体どんな気持ちからだったのか。
……玲央が昨日のことに触れないのは、多分俺に気を使ってくれているんだと思う。
そういった経験がない俺が下手に気にし過ぎて、余計な溝ができないようにあえて触れないんだと思う。
それは分かる。分かるんだけど、なんつーか、そういうことじゃなくて。でも謝って欲しいとか、そういうことでもなくて。
なんつーか……。
「……れおの、ばぁーか」
「誰が馬鹿だって?」
「!?」
すぐ真横から聞こえた声に体がビクーンと跳ねた。
ギギギ、なんて壊れたロボットのように首を動かすと、そこには細目でこちらを見ながらビールを飲む玲央様が。なんでここに!?
冷や汗を垂らしながら微妙な笑みを浮かべる俺に、そんな玲央がふんっと鼻を鳴らした。
「寝すぎて眠くねーんだろ? なら付き合え」
「……へ? 晩酌、に?」
「それ以外になにがあんだよ」
「え……昨日あんなに飲んでたじゃん」
「あんなマズイ酒、覚えちゃいねー」
マズイ酒って……それは巴さんがいたから、ということだろうか。いや、深くは聞くまい。
部屋を出る玲央にしぶしぶついていくと、テーブルにはケーキがひとつ、ちょこんと置かれていた。なにあれ。
思わずソファーに座る玲央を見つめるが、なにも反応しちゃくれなかった。
「これ、なに」
「褒美」
「……はい?」
なので指をさして聞いてみると、なんだか不釣り合いな単語が玲央の口から出てきた。ほ、褒美……?
「なん、の?」
「さぁ? なんだろうな?」
とても愉快そうに笑いながら、玲央はビールをあおる。
俺はそんな玲央とケーキとを交互に見つめ、ふらふらと床に腰を下ろした。
まったく持って意味は分からないが、眠くもないし美味しそうだし、食べよう。うん。
「いただきます」
「めしあがれ」
と、クツクツ笑う玲央の言葉を聞き、丁寧に添えられたフォークを持ってケーキを頂いてみる。
瞬間、その美味しさに驚いた。見た目はただのショートケーキなのに、ただ甘いだけの代物じゃない。スポンジも適度な柔らかさで、クリームが甘くまろやかなのにしつこくなく、後味はさっぱり系だ。
「これ! 美味しい!」
「そりゃ良かった」
美味しさに感動して玲央のほうへ振り向くと、楽しそうに笑う姿が視界に映る。
なんだか気恥ずかしさと嬉しさで顔がニヤけてしまう俺は、やっぱり現金な奴だなぁ。
「……今日、ごめんな」
「あ?」
「飲み明かしちゃったから、せっかく出かけようとしてくれたのに……ごめん」
そしたら急に頭がすっきりして、俺は素直にそう告げていた。
うしろでソファーに座る玲央が動いたのか、ぎしりと音が鳴る。次の瞬間、頭をぐしゃぐしゃと撫でられた。
「俺こそ悪かった。昔の知り合いとはいえ、お前まで巻き込んじまったな」
「……んーん。楽しかったよ?」
大きな手が無遠慮に撫でまわしてくる温かさに目を細めながら、じっとケーキを見つめる。なんだか頬が熱くなってきたのは、多分気のせい。
「来週、は行けるか分かんないけど、弁当作るからちゃんと食えよな」
「休みのことなら俺から仁に言っといてやる。弁当は残してほしくなきゃ美味いの作るんだな」
「へ? 休み、俺言うよ?」
「今日も休ませたのに来週も休むっつったら仁のやつ、怒んだろうが」
会話の内容にびっくりして振り向くと、思いのほか近くにいた玲央にさらに驚いてしまった。そんな俺を見下ろす玲央の表情は、少し柔らかい。
「でも……俺のことなのに、玲央にまかせんのは嫌だ」
「……じゃあフォローはすっから、頑張って休みとって来い」
「うん、そーする」
頷き再び前を向く。食べている途中だったケーキにフォークを刺し、美味しさに頬が緩む。
てかこれ本当に美味しいなー。なんだろ、材料が違うのはそうだろうけど、混ぜ方の段階で違うのかな? 焼き方? 温度? んー、ケーキとか作らないから分かんないけど、でも本当にこれ、美味しい。
「……美味しい、すごく」
「あ?」
「普通のショートケーキなのに、全然違う」
「そりゃ人気店のだしな」
人気店?
「よく知ってたね、このケーキのお店」
「いいから食え」
ぐしゃり。撫でられた頭が玲央の動きに連動してぐらり、ぐらりと揺れる。
とっても美味しいケーキに、玲央といる穏やかな時間。幸せで仕方がないのに、どうしてか俺の胸はモヤモヤしていた。
月曜日、俺はお粥目当てで来た不良たちにたくさんのおかずを提供した。
みんな美味しい美味しいと喜んでくれたが、その笑顔にちゃんと返せていたか分からない。
おかず、お粥、笑顔、モヤモヤ。嬉しいはずなのに、上手く笑えないもどかしさ。
そんな俺に雄樹は気づいていたようだが、平然とする俺に深く突っ込むことはせず、いつものようにアホ面をさらしてくれる優しさに感謝した。
放課後、いつものようにカシストに訪れると、仁さんが難しい顔をしながら電卓を叩いていた。俺たちに気づくなりテーブルに散らばった書類を片付けていたが、そんな姿を見てますます胸のモヤモヤが増した気がした。
「仁さん、ちょっといいですか」
「あ? どーした?」
店内のモップ掛けを終え、グラスを磨く仁さんに声をかける。
「あの……上手く、まとめられなくて、変なこと言うかもしれないんですけど」
「おう、ゆっくりでいいから言ってみ?」
磨いていたグラスを置き、こちらに体を向ける仁さんを見上げると、彼は穏やかな瞳で俺を見つめていた。
その姿に思わず口を開くが、空気だけ抜けていき、言葉が出ない。一度俯き、強く強く目蓋を閉じ、思いっきり顔を上げて目を開けた。
「俺! モデルの現場にお邪魔したとき、すげー感じたんです! プロってすごいなー、みんな誇り持ってるんだなー、俺、場違いだなぁって……すげー、感じたんです」
「うん」
「でもそれ以上に、俺も頑張ろうって思って、お粥作り頑張ろうって思ったんです」
「うん」
「お、おこがましいとは思うんですけど、俺、ここやデスリカでたくさんの不良たちとか見て、そいつらが美味しい美味しいって食べてくれる姿を見て、少しでも癒せたらなーって思ってて。だからモデルの現場にお邪魔したとき、触発されたっていうか、もっと頑張んなきゃって思って、だからおかずのこと相談したんです、けど」
言いながら焦りを感じて手を握る。そんな俺を、仁さんは優しく微笑んで見つめていた。
「でも……」
「うん?」
「……でも、昨日、玲央がケーキをくれたんです。普通の、ショートケーキ」
「……玲央がケーキ……」
ありえない話に驚いたのか、目を丸くした仁さんが咳払いをして話を促した。
「それ、すげー美味かったんです。ただのショートケーキだけど、スポンジから生クリーム、苺やデコレーション、細部までこだわりが感じられて、味だってしつこくなくて、でも適度な甘さがクセになって、また食べたいって思うくらい、すげー美味かったんです」
はぁっと大きく息を吐いて、ゆっくりと吸う。握った拳が震えていた気がしたけれど、振り払ってもう一度、仁さんを見つめる。
「だからっ、だから俺、分かんなくなったんです。今までのお粥にただおかずを付けるのと、今のお粥をもっと美味しくさせること、なにが本当は大事なのか、俺……分かんなくなって……」
「……」
ぐちゃぐちゃ。頭の中が色んな人の言葉でいっぱいだ。
みんなそれぞれ自分というものがあって、好きも嫌いも、感じ方も全部違う。
「だからお願いします、仁さん。こんな俺に助言をください!」
そのすべてを満足させたいなんてワガママだけど、無謀だけど、俺にだって誇りはある。
美味しいと笑ってくれるみんなの笑顔を、幸せだと感じる俺がここにいる。
深く深く頭を下げた俺に、しばらく黙っていた仁さんが「トラ」と呼んだ。ゆっくり顔を上げると、仁さんはなんだか困ったように笑っていた。
「ありがとな。トラが俺を頼ってくれたこと、すげぇ嬉しい。けどトラ、悪い」
「……え?」
苦笑を浮かべ、頭を掻く仁さんが深く息を吐く。
「涼しい顔してっけどよ、俺もまだまだ手探りなんだわ。だからよ、トラ。一緒に悩んでいかねぇか?」
「……じん、さん……」
「なにが合ってるとか、どうすりゃ客が喜ぶとか、俺も分かねぇけどよ、トラの気持ちには応えてやりてぇ。悪いな、格好悪くてよ」
ブンブン。顔を思いっきり横に振る。だって、すげー嬉しい。こんな気持ちもまとめられない俺の言葉を、仁さんは真摯に受け取ってくれたんだ。一緒に悩もうって、言ってくれたんだ。
「俺も一緒に悩むよ!」
いつのまにか仁さんのうしろから彼に抱き着く雄樹がそう叫べば、俺はますます嬉しくなって笑った。
「正直な、メニュー増やせっつったときは、ここまでトラが真剣になるとは思わなかった」
夜の部の開店時間になり、いつものように仕事をこなす俺の隣で、シェーカーを振る仁さんが呟いた。
「適当、ってわけでもねぇけど、軽い気持ちで指示したことは認める。悪かったな」
「い、いえ! いえ、全然、俺、働くのも初めてで、本当なんにも分かってないから迷惑ばっかかけて、てか言われたことしかしてなくて、謝るのは俺の方です、ほんと、すみません」
慌てて首を横に振りながら謝る俺に、視線だけをこちらに向けた仁さんが微笑む。
「ありがとよ、お前ますます良い男になったな」
「へ!?」
「はははっ!」
なんだか悪戯気に笑う仁さんの言葉に、恥ずかしさと嬉しさがこみ上げる。良い男ってのは無いと思うが、でもそう言ってくれる気持ちが純粋に嬉しいのだ。
そんな俺と仁さんを見た雄樹が「きーっ! 浮気よーっ!」と言いながらエプロンをかじって引っ張っていた。アホめ。
それからいつものようにデスリカへデリバリーしに行くと、カウンターに座って緑のモヒカンよろしく夏輝(なつき)さんと話す巴さんがいた。
俺に気づいた夏輝さんにお粥を渡し、ニヤニヤ笑ってくる巴さんをちらりと見る。目が合った瞬間、すっごくイイ笑顔を向けられたんだが、なんだおい。
「よぉ小虎、本当にデリバリーしてんだなぁ?」
「どうも。仕事ですからね」
「いいねぇ、頑張ってる若者の姿は良い肴になる」
「……はぁ、巴さんも若者ですよね?」
「あ? 俺ぁ22だぞ? お前に比べりゃ年寄りだろ?」
「いやいや、世間ではまだ若者ですよ、それ」
22で年寄りって、世間に喧嘩を売ってるんだろうか、この人は。
とはいえ仕事中で長話をする気はなく、それじゃあと背を向けた。はずなのだが、なぜか腕を掴まれていて動けない。なんなんだ、一体。
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