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別れ 1
しおりを挟む目の前の状況を、一体どこから説明すべきなのか。
……俺は頭が良いほうではない。自覚しているからこそ、今はただ苦笑を浮かべる他なかった。
「小虎くん、聞いてるのぉ?」
「もちろん聞いてるよ――泉ちゃん」
完全に酔っ払いと化した泉ちゃんに、ただ苦笑を浮かべる他なかったのである。
ことのはじまりは志狼と病院に行った今日、その夜だった。
俺は玲央に言われた通り、せっせと荷造りに励んでいたわけだが、最初にこの土地を訪れたとき使っていた旅行鞄のヒモが途中で切れたのだ。
縁起が悪いと思いつつ、直すにも鞄自体、相当古かったことから、新しいものをバイト代で購入しようと考えていたそのとき――ピンポーン……インターホンが鳴ったのだった。
シャワーを浴びていた玲央に代わって出ようとすると、ちょうど上がったらしい玲央が下だけ穿いて玄関に出た(それはそれでどうかと思うのだが)
扉を開けた先には、目を真っ赤に腫らした泉ちゃん……そして、なにを思ったのか、彼女は振り上げた片手を目標めがけて振り下ろし――。
パァアンッ!
玲央の右頬に見事なビンタをかました彼女は、なにも言わずに俺を連れ去ったのである。
そして彼女に連れられるまま、俺は休みを貰っていたはずのカシストで、今日も今日とてお粥を作っていたのであった。
普段と違うことと言ったら、来店した客が泉ちゃんの気迫に押され、そのまま帰ってしまうということだろうか。
「おい泉、そんな顔してここに居ていいのかよ」
「いいんです。仁さんおかわり」
営業の邪魔になっている泉ちゃんに、少しだけ怖い顔をした仁さんが話しかけた。
それでも彼女はものともせず、来てから何杯目かも分からなくなったグラスをテーブルに置く。
……吐いても知らねぇぞ。呟く仁さんの顔には諦めが浮かんでいた。
「おいトラぁ……どうしたんだよ、あれ」
「いや、俺も詳しくは……」
「どうせまた玲央がなにかしたんだろ? どこに居るんだよ、玲央のやつは」
「それが……ええと、一応…家には居るんですけど」
そう、家には居る。そんでビンタを食らっていた。
……が、そんなことを伝えていいのかも分からず、俺はタイマーの確認をして、ちらりと泉ちゃんを見た。ら、なぜか睨まれていた。
「……どうかした? 泉ちゃん」
「……トラくん、なんにも聞かないの?」
「え? えー……いや、知りたいけど、聞いちゃいけない気がして」
あはは。また苦笑を浮かべてみるが、口の端が釣りそうだった。
泉ちゃんは据わった目でこちらを凝視していたかと思えば、おかわりのカルアミルクに口をつけると、その半分を一気に飲み干した。
……本当はお酒、強いんだなぁ。
「トラくんってさぁ、好きな人いる?」
カタン。グラスをテーブルに置いた彼女が呟く。
あまりにも唐突なそれに思わずパックごと、味噌を鍋に落としそうになった。
「いないよ」
「……じゃあさ、今まで好きになった子は?」
「それもいない。俺、まだないんだよねぇ、そういうの」
「……そうなんだぁ」
つまらなさそうに口を尖らせた彼女が、残りの半分を飲み干した。
仁さんはなにも言わず、またカルアミルクを作り始める。
「私ねぇ、玲央と寝たことないの」
ボチャンッ!
また唐突にそんなことを言うものだから、今度こそパックごと、味噌が鍋に落下した。
もちろん、補充の味噌があるからなんとかなるものの、無駄になったこの味噌の代金は俺の給料から引かれてしまう。
あれ……なんかデジャブだなぁ。
「それどころか、キスもないの。手もねぇ、繋いだことなんかないんだよぉ」
「えーと……」
どこから突っ込めばいいのだろうか。
泉ちゃんに怖じけついて客の数は少ないものの、まったくゼロというわけではない。
その中には当然、玲央と泉ちゃんが恋人同士だと騙されている人間もいることだろう。
困った俺が仁さんに目配せをすると、彼は一つため息をこぼしたかと思えば、客席一つ一つに自ら赴き頭を下げて回りはじめる。
驚いたことに、誰一人として文句も言わずに店を出て行くと、カウンターに戻ってきた仁さんは煙草を吸いはじめた。
「おい雄樹、お前も帰っていいぞ」
「えー? なにそれ冗談でしょ~? 俺も付き合うよー、泉ちゃん」
気を利かせた仁さんの言葉に、それはわざとらしく返事をする雄樹は泉ちゃんの隣に腰を下ろし、いつの間にか用意したジョッキをあおった。
俺もコンロの火を止めて、コップに水を注ぐ。
「……玲央ってあんなんだから、私、抱いてもらえるって思ったことあるんだよね」
「……」
正直、生半可な気持ちで聞いているわけではないのだが、いかせん未知な話題にリアルを感じていると、仁さんが注いでくれたらしいジョッキを俺に手渡した。――酔えってことか?
「そもそもさぁ~、泉ちゃんと玲央さんってどうやって知り合ったのー?」
屈託のない(ように見えるけど、あれは絶対ワザとだ)笑顔で雄樹が質問すると、泉ちゃんは考え込むように目を瞑る。
そんな泉ちゃんに近づいた仁さんが、緊張したような面持ちで呟いた。
「泉、言わなくてもいい」
「……んー…」
だけど泉ちゃんは口角を微かに上げるだけで、不穏な空気を察した俺と雄樹は黙ることしかできなかった。
「私、レイプされたんだよね。高校1年生のとき、知らない男の人……3人くらい、だったかな?」
目を瞑り、微笑を浮かべたままの彼女が呟いた瞬間、空気が冷たくなったのを肌で感じた。
さすがに雄樹も驚きに目を丸くしていたが、目を瞑ったままの彼女は、そんな俺たちの様子を知ることはない。
「それで、テレビドラマとかでもほら、あるじゃない? その場で呆然としちゃってさぁ……。でもあれ、本当にあぁなっちゃうんだよね。
指先一つ動かせないの。逃げ出したくてしょうがないのに、全然、体は言うことを聞いてくれないんだ」
「……泉」
自棄になっているかのような告白に、見かねた仁さんが口を開く。
それでも彼女は続けた。
「幽体離脱……してるみたいな感じなのかなぁ……アレ。自分のことなのに、まるで他人事のように思えてさ。
でもふと我に返ると、あぁどうしよーって、私こんなに汚れちゃったーって、もう人生終わったんだーって、次から次へと浮かんできてさぁ」
俺たちには分からない痛みを語る彼女の口角が少しずつ上がっていく。
それと同時に、彼女のなにかが削れていくような気がした。
「それで……呆然としてたら、そこに玲央が通りかかって。一瞬の出来事だったなぁ……あっという間に男たちを殴り飛ばして、震えてる私に自分の上着を着せてさ。でも、男の人の匂いが嫌で、私、その上着を放り投げたの。
突然、糸が切れたみたいだった。急に力が湧いてきて……私、玲央相手に暴れたんだよ?
でも玲央は……今は我慢しろって、怒るでもなく、呆れるわけでもなく、ただあやすようにそう言った」
そっと、頑なに伏せられた両目が開いていく。
涙がこぼれているわけではないのに、濡れた瞳からは今にも大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちてきそうだった。
「それからタクシーで家まで送ってくれた玲央は、自分が悪いわけでもないのにお母さんに頭を下げてくれたの……。
私、多分そのときなんだと思うんだよね。――玲央が、助けてくれるって思っちゃったのは」
目元にくしゃりとしわができる。無理に笑う彼女の頬が、はたから見ても分かるほどに震えていた。
「意外と開き直ったんだよね、私。だから引きこもるよりも玲央を探しに出歩くほうが多かった。見つけてからは、玲央がいくら家に送ろうとしてもくっついてた。離れるもんか、離れるもんかって。
その頃はたびたびここにも顔出してから、仁さんは知ってるもんね?」
「……まぁな」
ふいに泉ちゃんが仁さんを見上げるが、彼はばつが悪そうに視線をそらす。
「もちろん、玲央にくっついてれば男も寄ってきてさ。そのたび、玲央は私に自分の上着を貸してくれたの。……私、それに甘えたの。
玲央は私のこと、彼女扱いしなかった。ただ上着を貸すだけで、優しい言葉をかけるわけでもなくて、彼女だって宣言したわけでもない。
上着で守られた気になって、特別なんだって勘違いして、そのうち誰かが恋人同士だって言いふらすまで、私は玲央にくっついてた」
口元から笑みが消えていく。最終的に表情が無になったとき、そのあまりの姿にゾッとした。
「……その頃になると、私は玲央に抱いて欲しいって思うようになってた。けど、玲央はそんなこと、絶対しなかったの。ううん、多分玲央はね、私のこと……女として見てなかったんだと思う。
だから私、知らない男の子が告白してきたとき、もういいやーって抱かれた。
犬みたいに腰ふっちゃってさぁ……気持ち悪いなぁ、馬鹿だなぁ……この人、私にこんなに腰ふっちゃってさぁ……みじめだなぁって、思ったんだぁ……」
誰も口を開くことはできなかった。
その空気に触れて良いのは、ここにいる俺たちじゃない。俺たちなんかじゃない。
「……それからは知ってのとおり、私は玲央の彼女面して童貞ばっか食いモンにしてるってわけ。
なのにさ、玲央……別れるって言ってきたの」
「……」
「なに、それって思うじゃない? 付き合ってもないのに、別れるってなによ。
突然そんなこと言われて、じゃあ私、どうすればいいのって、もう頭の中、卑しいことしか考えられなくなって、それでっ。
――……それで私、玲央のこと叩きに行った」
固まっていた雄樹がギョッとしていた。
泉ちゃんの話もそうだが、なにより玲央が叩かれたことに驚愕を覚えたのだろう。
事の顛末を語った彼女は、語りはじめてから口もつけずにいたカルアミルクを一気に飲み干した。
心なしか、どこかスッキリしているように見えるのは、気のせいであって欲しくはない。
「……いつかはさ、こんな日が来るって分かってた。だから正直、ぐちゃぐちゃにはなったけど、意外と平気なんだ。
ただ、ただね。なんか別れるって言われたとき、それじゃあ私が捨てられたみたいだなって思って。
最初から最後まで、私が玲央に溺れてたみたいだなって思ったら、居ても立ってもいられなくて……まぁ事実、私が玲央に溺れてたんだけど」
あはは。こぼれた笑みの正体が、さきほどとは打って変わって別物になったことを認識したとき、やっと俺たちも息をすることを許されたような気がした。
「私はね、あるかも分からないプライドのために玲央を叩いて、あるかも分からない見栄のためにトラくんに聞いてもらったの。それだけ……それだけなんだよ」
やっと顔を上げた泉ちゃんが、いつものように、いや、いつも以上に綺麗な笑みを向けてくれた。
口を挟むこともままならなかった俺は、そこでようやく素直に微笑み返すことができた。
何杯目かも分からないカルアミルクを飲み干した彼女は、来たときとはまるで別人のような足取りで、ネオン街へと消えて行ったのであった。
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