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覚悟 2
しおりを挟む恐らく翌日、眠っていた俺を叩き起こしたのは大量の冷たい水だった。
どうやらかけられたらしい。そう理解したのは目を開けたとき、目の前でペットボトルを持つ志狼の姿を確認したあとだった。
頬に流れるぶんだけでもと、なんとか舌で舐めとれば、志狼は表情一つ変えずにペットボトルを投げ捨てる。パシャンッと、中にまだ残る水が跳ねる音がした。
「おはよう、気分は?」
「おはよう。最高かな」
「……へぇ?」
おもむろに煙草を吸いだした志狼が、近くにあった錆びついたパイプ椅子を持って来る。
それに座って俺を見下ろせば、その瞳に吸い込まれるかと思った。
「……ありがとな」
「は?」
「最近、ちょっと悩んでたんだよ。けど、志狼がここに連れてきてくれたから、昨日考える時間ができた。ありがとう」
「……うざ」
「ははっ、確かに」
ぐうううう~……。笑ったことで刺激されたのか、腹の虫が鳴く。
申し訳ない気持ちになって志狼を見れば、やつは冷たい目で俺を見ていた。あぁはいはい、すみませんね。
「お腹空いたんだ?」
「そりゃ、なにも食べてないからな」
「そう」
「うん、でもさ、それも心配する必要ねぇなって思ってる」
「……へぇ?」
「俺、そろそろ帰るからさ、帰ったらたくさん食って飲んで風呂入って爆睡して、んでまた、カシストでお粥作んねーと」
「……はぁ?」
まさかそんなことを言うとは思わなかったのだろう。志狼は怪訝な顔をして、思いっきり俺を見下ろした。
その顔に笑えば、ふたたび腹の虫が騒ぐ。
「小虎さぁ、自分の状況分かってんの?」
「分かってるよ。それより、俺のこと殴ってた不良たちどうした? 全然見ないけど」
「さぁね。今頃叩きのめされてんじゃない? 玲央に」
「そっか……志狼は参加しねぇの?」
「するよ。玲央がここに来たらね」
「ふーん……」
それまでつけていた三角巾を外した志狼が、腕に巻かれた包帯を剥いでいく。
「怪我治ってたのか?」
「当たり前。こんなの怪我の内に入らないよ」
「……そっか、良かったな」
「はぁ?」
「だってそうだろ? これで――思いっきり玲央と喧嘩できるだろ?」
「……は?」
さすがに喉の渇きがひどくなって、小さく咽てしまう。
それを見ていた志狼に視線を向ければ、彼は逸らすでもなく見つめ返した。
「ごめん、さっき投げたペットボトル、俺にちょうだい」
「はぁ?」
「まだ中身入ってるじゃん。喉乾いたから、それちょーだい」
「……」
完全に翻弄されている。志狼はしばらく考えたあと、無表情なままペットボトルを拾いに行き、戻ってきた。
そのまま俺の口に突っ込めば、少量の水が口の中を無遠慮に襲ってくる。なんとか飲み込めば当然、空気も一緒に飲んで音が鳴った。
「……けほっ、……はっ、突っ込むなら突っ込むで言えよ。びっくりした」
「それにしてはちゃんと飲んでたけどね」
「や、まぁ。喉乾いてたしな」
「……ふーん」
今度こそ空になったペットボトルが投げ捨てられる。パコンッなんて、まぬけな音が廃屋に響く。
志狼はまた、パイプ椅子に腰を下ろした。
「で? どうやって帰るの?」
「え? ……あぁ、うん。その前にさ、教えてくんねぇかな、あ、いや。別に嫌ならいいんだけど」
「なに?」
怪訝な目を向けられ、思わず頬の筋肉が緩んでしまう。
「なんで怨みもないのに、こんなことしてるのかってこと」
緩んだままの頬が生成する表情は笑顔だ。それを見ている志狼の顔が不快感に歪むのを知ってなお、俺の頬は緩んでいる。
「簡単だよ。俺はね、不良なんてどうでもいいんだ。けど」
静かに、まるで朝日がそっと差し込むような静けさと時間のように、志狼の顔には闇が差す。
「友達ってやつが大っ嫌いなんだ」
ほの暗い闇の中に浮かぶ双眸が、ただただ俺を見下ろした。
「……へぇ、そうなんだ」
「うん。そう、たったそれだけ」
「……」
たった。たったそれだけ。その言葉にどれほどの意味と思いが詰まっているのだろう。
誰かが想像する以上のものがきっとある。けど、
「……たったって、自分でそんなもんって言ってるくせして、ずいぶんと行動してたんじゃねぇ?」
「…………だから?」
「いや、別に」
たったそれだけ。ほんのわずかな。
だけど、ひたすらに。いちずに。
「……俺とさ、はじめて会ったあの日から、このことは計画してたんだろ? いや、計画してたから近づいた、違うか?」
「その通りだよ。小虎が玲央の弟だって分かってたから、わざと近寄った。んで友達になりたいってアピールしてくるもんだから、あぁ、絶望のどん底に落としてあげたい……そう思った」
「だから、俺と友達になろうって言ってくれた」
「うん、そう」
分かっていることとはいえ、やはり堪える。
苦笑を浮かべて志狼を見上げても、やはりその双眸は冷え切っていた。
「そして今、それは全部ウソだったって、俺に言ってるわけだよな」
「そうだよ……てかさ、なに、今頃?」
「や、そうじゃなくて……」
苦笑を抑えるために一度俯く。その姿はもしかしたら悲しんでいるように見えるかもしれないが、そうじゃない。
確かに苦しいさ。友達に友達じゃないって言われたら、そりゃ辛い。けど、やっぱり。
「うん、でも俺はさ、志狼とはダチだって思ってるんだよな」
「…………は?」
「だってそうだろ。俺、志狼のこと人として尊敬してんだよ。同い年なのに大人で、普段はちょっと冷めた感じだけど、接してみると優しくて。俺はそれが全部演技だとは思えない」
「だから、ダチって?」
「うん、まぁ、それもそうなんだけど」
俺はさ、人が思ってるほど、優しくも良い子でもない。
「変に理由なんて挙げなくても、俺は志狼のこと、ダチだって思ってんだよ」
だけど人が思っている以上に、俺は間違いなく馬鹿だ。
「こうして縛ってあるけど、志狼は俺に手ぇ上げないし、水だって言えば飲ませてくれた。それを理由にすることもできるけど、そうじゃねぇんだよ」
「……」
「そうじゃなくて……なんていうか、……あー、そう、あれ」
「……」
「俺がさ、志狼と友達でいたいって思ってんだ。だからさ、お前が今こうして俺を裏切ったとしてもそれ、全然意味ないんだわ」
にへっ。力の入らない頬が緩みきっている。
それを見る志狼の目は頑なに拒絶を訴えていたが、それに怯むことはなかった。
「……本当、馬鹿だね、小虎」
「当たり前だろ。じゃなきゃダチの雄樹とつるむことすらままならねぇよ」
「……」
雄樹。その名前を口にして、ホームシックみたいな感情がふわりと浮きあがる。
でも待っててな、お前が帰ってきたらたくさん癒されるから、今はまだ、もう少しこのままでいさせてくれ。
「……俺はね、ここに来る前、隣県では名門校にいたんだ」
「え? ……うん」
ぽつりと、呟きだした言葉に反応が遅れる。それでも黙っていれば、志狼はまた口を開いた。
「そこには友達って肩書のやつらがたくさんいた。けど、同時に俺を妬むやつもいた。どうせなにもできないと放っていたら、友達ってやつらが俺のデマを流した」
「……」
「当然、大人は俺を信じたよ。けどね、大人と子供は違うんだね。人の悪口を言うのはさ、立場ってもんがまだない子供のほうが口にする」
「……」
「責任って重さが分かってないから、平気で人を傷めつけたり蔑んだり、手と手を取り合って仲良く一人を苛める……まぁ、やられてばかりの俺じゃないけど、つい殴ってやったら、退学」
「……」
「もう分かるでしょ? 俺は友達って肩書のやつらに裏切られて、殴って、不良になって、喧嘩に明け暮れて、親に見放されて、この街に捨てられた」
はっ。なにかを嘲笑った志狼の声が消散する。
たとえばここで俺が、「俺は裏切らないよ」とか「お前は一人じゃないよ」とか「俺と雄樹は違うよ」とか言ったところで、それが意味をもつことはないし、むしろ志狼自身望んではいないだろう。
だから言える言葉を探しているが、どうも上手い言葉が見つからない。そこまで考えてハッとする。
相手に伝えたい気持ちに、上手いも下手もあんのかよ。
「……」
「……どっかのテレビドラマみたいな、ありきたりな話でしょ? でもね、そんなありきたりな話でも、言葉で簡潔に伝えられることでも、俺には十分なんだ」
「……」
「十分、辛いことなんだ」
そう言って、志狼が笑った。
自分か、友達ってやつか、世間か、大人か、子供か。
一体なにに対して笑ったのか、それともその全てに笑ったのか。
それでも俺が言えることは、同じように簡潔でいて簡単なことなんだろう。
「……なぁ、俺のお粥さ、どうだった?」
「…………はぁ?」
「だから、美味しかったかって聞いてんだよ」
話の流れをぶった切る発言に、当然志狼の眉間にしわが寄る。
それでも目を逸らさずにいる俺に観念したのか、ため息をついてから口を開いた。
「別に、普通」
「それって不味くないってことだろ?」
「……まぁ、そうだね」
「うん、じゃあさ」
俺には分からないよ。志狼がどんなに辛いって、悲しいって、苦しいって、一人嘆いていたって、俺には分からない。
分かち合おうってこともまた、できたところで表面だけの偽善になろう。
だから、俺が言えるのは、やれるのは一つなんだ。
「俺、カシストでお粥作ってるから、いつでも食いに来いよ」
お前が辛いって感じたとき、一人になるのが嫌なとき、ちょっと疲れたときでもいい。
そんなときにフラッと足を運びたくなる、そんな存在でいたいんだ。
にこりと笑ってみれば、志狼は目を丸くして俺を見た。
かと思えば慌てて逸らし、疲れたように息を吐く。
「……本当、馬鹿だね」
「そうなんだよなぁ、俺、馬鹿なんだよ」
「……うん、馬鹿だ。小虎は、大馬鹿だ」
「ちょ、おい。そこまで言われると普通に堪えるぞ」
背を向ける志狼の肩が微かに揺れている。泣いているのだろうか、それとも笑いを我慢しているのだろうか。
正直な話、どちらでもいい。呆れてもいいし、馬鹿だなって蔑んでもいい。
ははっ。笑い声がして、志狼が振り返る。清々しいほど晴れた顔が、そこにはあった。
「……気が向いたら……――行くよ」
「おう、いつでも来い」
若干震える口元は見なかったことにしてやる。そう顔に書いたまま、俺は笑った。
その瞬間――ガァアアンンッ! と強烈な音が響き、廃屋の入り口がぶっ飛んだ。
俺は動けないので目だけをそちらに向けたが、志狼は体制を整えるようにして構える。
カラッ、カラァアン……。
金属音がする。鉄パイプが床に投げ捨てられていた。
明るい日の光を背にして入り口に立つのは――紛れもない、金の獅子だった。
「……れお?」
ポツリと、声が漏れる。
それが聞こえていたとでもいうのか、金の獅子は――玲央は口角をつり上げた。
「おせぇから迎えにきたぜ、馬鹿トラ」
「……はっ」
うわ、なに、それ。
ちょっと嬉しいとか思っちゃう。
そんな表情が露骨に出ていたのだろう、志狼が舌打ちをして駆け出した。
慌てて前のめりになった体がクンッと後ろに引かれる。ロープの存在を思い出して舌打ちをこぼす。
玲央の後ろには隆二さん、そして豹牙先輩がいる。
さらにその後ろには、なぜかボロボロになった不良たちまでいる。
志狼の仲間だろう不良は今いない。明らかに志狼が不利だ。
「志狼! 止めろ!」
叫ばずにはいられない。俺の声が廃屋に響き渡るが、志狼の体は玲央のすぐ近くまで行ってしまった。
すかさず飛んだ拳を玲央が避ける。次の瞬間、玲央は志狼の腹に拳を入れた。
ふたたびあの惨劇が繰り返されるのか、そう思って暴れる体がロープに擦れて、手首が濡れていく。きっと血でも出ているのだろう。
「れ……っ」
玲央、止めてくれ。
そう叫ぶはずだった俺が見たのは、床に膝をつく志狼の前で、なにもせずに立つ玲央の姿だった。
「おい銀狼、仲直りは済んだか?」
「……あ?」
「俺の馬鹿な弟と仲直りは済んだんだろ? なら、てめぇはさっさと消えな。喧嘩ならまた違う日にでもしてやる」
「…………は?」
志狼のまぬけな声がする。だけど俺もだ。俺も同じように、もしかしたらそれ以上にまぬけな顔をしているかもしれない。
なぜって、玲央の発言からすればそれはまるで――。
「……アンタ、いつ、から?」
「てめぇが人の弟に水ぶっかけるとこからだな」
「……な、」
慌てて立ち上がる志狼の横を、なんてことない顔して玲央が通り過ぎる。
そんな玲央を止めようと志狼が手を伸ばすが、それが触れることはなかった。後ろにいた隆二さんが止めたからである。
それを視界で確認しながら、俺はただまっすぐにこちらへ歩み寄る、なぜかコンビニの袋を持った玲央から目が逸らせない。
広くはない廃屋の入り口から俺のいる鉄骨まで、わずかな距離を縮めた玲央が俺の前に立ちふさがる。
長いその足を地につけて、獣が不敵に微笑んだ。
「ずいぶんな恰好だな」
「……れお……」
「はっ、なっさけねぇ声出してんじゃねぇよ。ほら、食え」
「んぐっ!?」
そしてなにを思ったのか、急にしゃがんだ玲央は俺の口に焼きそばパンを突っ込んだ。なぜ。
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