ある王様の話

篠瀬白子

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それからのこと

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忘れられない人がいる、と言うとロマンチックな響きだが、そんな甘酸っぱいものではない。


「え~、一年後。一年後この中の何人が残っているか分かりませんが、とりあえず就職困難なこのご時世、とりあえず正社員として受かったのだから適度に頑張って生き残ってください。はい、じゃーかんぱーい」
「先輩、それ乾杯したくないです」


あはははは。と、すでに酔っ払い気味の部長が笑った。俺の音頭が不満だと口を尖らせる後輩は、苦笑気味の新入社員たちに向き直り「まぁなんとかなるから! 俺なんかチャラチャラしてても今まだここいるから!」なんて恐らく励ましだろう言葉を投げかける。

俺は首を回して席についた。隣でグラスを持っていた嬢がニコニコと「お疲れ様」と声をかけるので、にこりと笑みを返しておく。
そもそも、なぜ三次会の席(しかもキャバクラ)で乾杯の音頭を取らせるのか。まぁいいのだけど。


「先輩、はいかんぱーい」
「ん? あぁうん、かんぱいかんぱい」
「なんですかその投げやりな態度ー。ほーんと、基先輩って王様ですよね~」


あはは。笑う後輩の言葉に苦笑する。
王様、ね。その響きに似合う人物を知っている、と言ったらどれだけの人が信じてくれるだろうか。


「王様?」


不慣れな単語に首を傾げる嬢に、後輩は何度も頷きながら俺を指す。


「この人ね、俺の先輩なんだけど王原(おうはら)基って言うの。横暴な態度と自分主義な性格からついたあだ名が王様!」
「あはは。ひどーい」


きゃっきゃっ。俺を挟んで笑う後輩と嬢に遠目でシカト。
とりあえずあとで後輩をしばいておこう。


「あれ? 先輩拗ねちゃった? ねーせんぱーい」


まさか自分が王様と呼ばれる日がくるなどと、あの時の俺は思ってもいなかっただろうな。なんて後輩のウザさをスルーしながら、ドリンクのおかわりを要求する嬢に頷く。

と、そんなとき、店の出入り口が騒々しくなった。なんだなんだと視線を向け、絶句する。


「さぁ御崎さん、どうぞこちらへ。ちょっと店長、可愛い子つけてよ?」
「はい、心得ております」


なぜ、どうして、いやまさか、夢……ではないが、どういうことだ。
どうしてこんな広い街のキャバクラで、なぜ俺はあのミサキを見ているんだ?
茫然とする俺の耳に「うお、ちょーイケメン。しかもあのスーツめちゃくちゃお高いブランドもんじゃん、すげー場違い」という後輩の声が届いた。


「基さん?」


固まったままの自分の体はすぐさま姿勢を低くし隠れていたらしい。そんな俺の挙動不審な行動に、隣の嬢が首を傾げてきた。が、今はそれどころじゃない。
そもそもなぜあのミサキがこんなところにいるのだ。あの町から出てきたのか? しかもあのブランドスーツ、後輩じゃないが確かにこんなキャバクラに接待されにくる野郎が着るには勿体なさすぎる。つーか接待する側、高級クラブに連れてけよアホか。

と、手に汗握っていた自分に失笑する。
いくらなんでもないだろ、ないない。俺はこんな歳にもなって、まだあの王様にビビってんのか、だっせぇなオイ。


「わー、キャバクラってこんな感じなんですねぇ。俺、来るの初めてですよー。接待なんていっつも高級クラブでちょっと肩凝るし、今日はハメはずせますねー。ね、御崎さん」
「勝手にやってろ」


広く一番煌びやかな席へと腰掛けるミサキの隣に座る、少し無邪気そうな青年が微笑むも、彼は酷くつまらなさそうに煙草を咥えた。すかさず嬢が火を取り出すも、当たり前のようにシカトして自分で点けている姿は以前のように横暴だ。
などと観察する自分も大概だなぁと再び失笑し、俺の様子を訝しんだ後輩に「なに見てんだよ」と笑う。


「わ、先輩が笑った。ちょうレア。見た? 今の見た? 俺に笑ったんだけど、あの先輩が。マジ泣きそう」
「じゃあはい、かんぱーい!」
「かんぱーい!」


などと馬鹿なことをしている後輩に苦笑して、嬢と会話を楽しんでいた上司に告げてから席を立つ。「基せんぱーい? 帰るんですかー?」と無駄に大声で叫ぶ後輩に「うっせぇ酔っ払い」と口パクをして店の外へ。
ガヤガヤと人通りの多い道でしばらく立ったまま、思いつくように背伸びをする。さて、と。


「じゃ、うどん食いに行きますか」
「うおっ!? おま……部長たち置いて来たのかよ」
「大丈夫ですよ、今日の主役である新入社員くんたちはちゃーんと置いてきましたもん」
「あぁ、そー」


いつものように飲みの席から抜け出した俺に着いて来た後輩に肩を落とす。こいつも、もう先輩って立場になったっつーのに俺にくっついてきてアホだな。ま、いーけど。


「先輩、あのブルジョアと知り合いなんですか」
「ブルジョアってお前……」


どうしてその単語をチョイスしたんだろうか、この後輩は。呆れる俺を余所に、後輩の目は真剣そのものである。


「……あれな、多分同級生だった奴……だと思う」
「だと思う?」
「ま、とりあえず歩くぞ。目的地は染谷な。今日はあそこの納豆そばを食う」
「うどんじゃないんですか」
「俺、そばのほうが好きだけど?」


と、ジト目を向けると後輩は「うそ!? だっていつも食堂でうどん食ってたじゃん!」と叫ぶので、うるさいという意味と、敬語を使えというダブルの意味を込めて、奴のすねを蹴った。


「で、あのブルジョアとはどういう関係なんですか」
「お前、そのブルジョアっての止めた方がいいぞ」


染谷という蕎麦屋にて、座敷で向かい合わせに座る後輩がズイっと近寄る。
俺は自分の納豆そばをかき混ぜながら、後輩の質問にどう答えるかを迷った。
別にイジメられていたわけではない。あの四日間に出来上がってしまった関係をなんと言うかはこの年になっても微妙だが、あえて名づけるとするのなら。


「思春期特有の、気の迷いってやつかな」
「……な、」


うん、多分それがぴったりだ。

俺もミサキも子供で、特にミサキは家の権力と自分の影響力をよく理解した上で、あえて周りを煽っていた節もあったと思う。だからこそ従順な周りの中で、町を出ることで気が強くなっていた俺を新しい玩具かなにかと勘違いしていたのだろう。
だけど今、あの日からもう八年も経った今のミサキは分かっているはずだ。
あの町で特別だった王様も、けして格別ではないことを。

成長の過程で、彼に反発する要素は俺だけではなかったはずだ。
まるで自分が無敵であるかのような学生から、世間の厳しさを知る社会人になった今のミサキになら、だからこそあの四日間がなにも特別ではないことが分かるだろう。


「なんですか、その、すげー意味深な発言」
「はぁ? どこがだよ」
「だって思春期特有って、なんかちょっとそういうの、すげー意味深じゃないですか」


だから、一体どこがどう意味深だと言うのだ。げんなりした顔でそばをすする俺に、後輩は若干イラだった様子で煙草を咥える。


「つーかさ、あれが本当に同級生だったかどうか、分かんねーし」
「とか言って、すげー動揺してたじゃん」
「てめー、敬語使えやコラ、潰すぞ」


え、どこをですか。なんて素で聞くので、タマと答えてやると、奴は無言で煙草を消した。

正直な話、あれが本当にあのミサキであるかどうかは分からない。八年経ったとはいえ、当時もイケメンという部類に属していたミサキの名残が無かったという訳でもない。
切れ長の瞳は世間を知ったように落ち着いていたし、高い鼻筋も生意気そうに結ばれた口元も、大人の色香が漂っていた。すらりと伸びた手足が動くさまは、以前よりも無駄のない洗練された動きを伴い、唯一あの日と同じまま黒く短めに切られた髪は、それでも彼がもう子供でないことを示すかのように、シックなそれを匂わせる。

無意識とはいえ、そんな彼をあのミサキだと直結してしまうのは、些か仕方のない容姿ではあった。


「ま、でも関係ねーけどな、今さら。つーかさっきは動揺したけど、今の今まで忘れてたし」
「その同級生をですか?」
「そう、その同級生を」


ずるる、と不躾ながら納豆の交じる汁をすする。そんな俺を見ていた後輩は、結局最後までウザかった。

とかく理由をつけて後輩に奢らせたあと、店の外で伸びをする。もーひどいですよ先輩、普通奢るのそっちでしょ、本当に王様なんだからー。なんて暖簾を潜りながら出てて来た後輩のほうへ振り返った瞬間、体の芯がブレた。

ガチャン、と懐かしい音がする。

フラッシュバック。聞き慣れた訳ではない、だけど聞き覚えのある音と感触。つま先から追い詰めてくるような、金属の冷たさ。女物の香水が交じった、酒と煙草の匂い。


「捕まえた」


と、後ろから聞こえる柔らかで色気を孕む、少し掠れた声。

振り返りそうになった俺を、動じていた後輩が咎めるように抱きしめた。瞬間、手首に繋がるそれが思いっきり引かれて、俺は抱きしめられた。王様に、抱きしめられた。


「……みさ、き……」
「またねって言っただろ?」
「…………お前、」


なんだ、これ。夢か。そんなわけない。じゃあなんだ、これ。
つーかどういうことだ、これは、なんなんだ、一体。


「てめぇ、先輩に触んな」


と、後輩の声が聞こえるが、ミサキはそんな存在を無視してゆっくりと俺から体を離す。そんなミサキと俺の手首には、最初の罰ゲームと同じように手錠が嵌められていた。


「もっと早くこうすることもできた。お前の親の転勤、止めることもできた。でもなんで今、俺が会いに来たか分かる?」
「おい、聞いてんのかてめぇ」


まるでヤンキーのような口調で怒鳴る後輩の声が耳から耳へと流れていくが、呆然とする俺をよそに、ミサキは後輩を一瞥する。たった、たったそれだけで後輩は黙った。
ゆったりと俺に視線を戻したミサキは、腰が抜けるような甘い笑みを浮かべて、言った。


「偶然再会できたら、お前を俺のもんにするって決めてたからだよ」
「なに、を……」
「それなら逃げられないだろ?」
「どういう……」


どういう意味だ、そう問うはずだった俺の唇が塞がれる。後輩が一段とヤンキー口調で罵声を放っていたが、俺は口内に広がるべっ甲飴の味に足が震えてしまった。

鼻の奥がツンとして、俺の口内へ侵入してきた厚い舌が粘液をまとって撫でる様をただ感じ入る。ゆったりと離れていく端正なその顔は、外気の熱さとは違うなにかが熱気を立てて、その姿を抵抗もせずに見ている自分はもうあの日の自分とは違うことを飲み込んだ。


「お前は、追いかければ逃げるだろ?」


微笑むミサキの言葉に無意識に頷くと、痺れを切らした後輩がミサキの肩を掴んだ。突然のことに手首を繋がれた俺はバランスを崩して倒れ込む。しかし地面に膝をつけることはなく、俺はミサキに抱き込まれていた。
そんな俺の様子を見ていた後輩は、まるで信じられないと言いたげな顔をしていたが、その目がミサキに向くと、後輩から表情が消える。


「ミサ、キ……」


思わず王様を呼んでしまうと、ミサキは無邪気さが覗く笑顔を惜しむことなく俺に向け、嬉しそうに手錠のついた手を繋いできた。


「あの店でお前を見て、正直驚いた。あんな偶然、本当にあるんだってつい笑った」
「……偶然」
「あぁ、偶然」


もし、それが本当に偶然だと言うのなら。もし、ミサキが本当にあの日俺を町に留めていられたのなら。
今ここで出会ったこの瞬間を偶然だと言うのなら、それはもう逃げも隠れもできない奇跡なんて陳腐で幼稚で、それでいて至極ロマンチックな乙女思考そのものじゃないか。


「そんなの、あるわけ……」
「でも、もう逃がさねぇよ」


偶然でも奇跡でも、ましてや運命なんてものでもない。きっとありえない。
だけどあの日、俺の目から止めどなく流れ落ちたミサキの涙は、きっと俺のものでもあった。

あの日を思い出して、彼女を作ってもキスしては萎えてしまう、そのくせべっこう飴を舐めただけで一人盛ってしまうようなクソ野郎の俺がとっくの昔に捨ててきた逃げ口上。
それをいともたやすく壊してしまうような、砂糖よりもべっこう飴よりも甘くて仕様もない運命なんて有り触れた言葉は、しかしそれだけで十分だった。


「基……」


俺を抱きしめながら甘く囁く可愛い王様。
きっと、この男の心に俺は居座っていた。どれだけの美女を抱いても、どれだけの快楽に身を委ねても、憎々しく言葉を吐き捨てては自分を見つめている俺を忘れることができなかったのだ。

あぁ、もしそうだとしたなら、俺はこの男を解放してやる言葉を口にしなくてはならない。
突きつけるような、胸の内を犯していくような、ドロドロに溶けてしまうような甘い甘い、淫靡な言葉。


「……俺は、逃げねぇよ」


自分に媚びるような言葉を嫌っていたあの子供だったミサキだからこそ、偶然なんて不確かな要素を突きつけてくることを噛み砕いて吐き出した俺の言葉を、しかし大人になった王様は鼻で笑う。


「あぁ……やっぱり俺、お前の嫌がる顔すっげぇ好き」
「……おまえ、」
「なぁ、逃がさねぇって言っただろ?」


奇跡だなんて少女漫画のような言葉を盾に、俺を捕えたつもりでいるミサキは人目も気にせず再び俺に食らいつく。広がるクソ甘いべっこう飴の味に唾液が零れて、吸われる。
ぐっと詰まるような言葉を飲み込んで、俺はそっと目を伏せた。

あぁ、やはりミサキは横暴だ。ロマンチックな再会を偶然だと言い張り、あの日よりも荒々しく、だけど余裕のあるキスで俺を貪りながら手錠で繋いでしまうほど、やはりミサキは横暴な王様だ。

あの日から随分と歳を重ねてしまった俺は、そんな王様を可愛いなぁと思いながら今だけは甘んじてやろうと目を開く。
ぱちりと、かち合った視線と視線の延長線上にあるものは、決して甘酸っぱい感情なんかではないのだけれど。ただ一つ、大人になった今の俺があの頃の自分になにか言葉を送れるのなら、忠告だけはしておこう。

好きと嫌いは表裏一体、紙一重。


「お前だけは名前で呼べよ」
「はぁ? てめーの名前なんて覚えてねぇよ」


憎々しい言葉がするりと出て行く。それを耳にした御崎は至極幸せそうに微笑むと、好奇の視線を向ける周りを一瞥してからほくそ笑んだ。
キスだけは甘いこの関係を、あと何年したら俺は素直に認めることができるのだろうか。などと、そんなことを思う俺は一体何様なのだ。


◇◇◇◇◇


自慢じゃないが二日酔いになったことはない。なぜならそこまで飲まないからだ。酔って醜態を晒すのはごめんだし、なにより酔っ払った上司や後輩をタクシーに押しこめる役割もある。だが今の、今朝の俺は頭がひどく痛かった。


「おはよ」
「……」


シンプルだけれど高級そうなマグカップをこちらに差し出しながら、穏やかに微笑むこの男が原因であることは明白である。
男――御崎は、シャツにパンツ一丁という情けない格好をしながらベッドに沈む俺の近くに腰を下ろし、コーヒーは苦いから飲めねぇ? などと聞いてきた。飲めるけど、そう答えた唇がヒリヒリして痛い。

昨夜、偶然を謳った再会を果たしたらしい俺は、あのあと御崎に繋がれたまま彼の家まで連れて来られた。そこからはもう語るだけでも砂を吐きそうになるが、べっこう飴を口に含んではキスをされ、溶けてはまたべっ甲飴を口に含まされキスをされ、などという行為をひたすらに繰り返した。いや、繰り返されたのである。
おかげで唇はヒリヒリと痛み、なぜか腰が抜けた俺に気を良くした御崎に手錠を繋がれたまま一夜を共にしたのであった。あぁ、今日が休みで本当に良かった、本当に。


「……苦い」
「やっぱり苦いんだ?」
「うっせー。でも美味いよ」
「そう」


昨夜、いくども唇に食らいつく御崎に偶然ではないだろうと咎めた俺に、彼はただうっすらと笑みを浮かべるだけだった。その笑みがなによりの証拠になることを分かり切った顔をして、言い訳もせず口内を犯す御崎が、それでも手錠を外そうとしない姿が可愛く見えたなどと。


「あの店で会ったのは偶然。これだけは本当」


受け取ったコーヒーをすする俺を見ずに、御崎がぽつりと呟いた。
呆気に取られて反応が遅れたが、なにを言っていいかも分からず「ふーん」と相槌を打つ。


「転勤のこと知ってたのは?」
「あぁ、それも本当」
「……」


もはやどれが本当で、なにが嘘なのか分からない。けれど、あの日より遥かに歳を重ねた今の俺たちが、こうして馬鹿げた恰好をしてコーヒーをすする今だけは、多分本当なのだ。


「それから明後日の商談相手が俺だってことも本当」
「ぶふっ!?」


したり顔で微笑む御崎の爆弾発言に、肌触りのいいシーツをコーヒーで汚してしまう。けれど御崎は怒るでもなく、呆れるでもなく、ただただ楽しそうに、まるで子供のような無邪気な笑みを浮かべるのだった。

あの日、あの町に置き忘れたなにかを取り戻すかのように、哀れで孤独な迷子で小さな、俺だけが知っている可愛い王様は、そうして笑みを浮かべるのだった。

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