ある王様の話

篠瀬白子

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あと4日

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ミサキの動作や口調は独特な遅れを伴っている。
その長い手足がゆっくりと動くさまはどこか優雅に映り、ゆったりと話す口調は質の良い余裕に映る。男女問わずほぅ、とため息が漏れ出すほどに麗しげな姿は、まるで大ステージで行われる奇術を見ているようだ。


――朝五時に目が覚めた。それからトイレに篭ること、すでに三時間が経過している。


「ちょっと基、大丈夫ー? 座りっぱなしもダメってテレビで言ってたわよー?」
「んー、たまに立ってみたりしてっから大丈夫ー。でも出るほど落ち着かないんだよ……って、いてて……」
「あぁ、そう? んー、昨日のおはぎダメだったのかしらねぇ?」


扉の向こうで心配してくれる母に思わず涙が出そうになった。小一時間前まで騒いでいた姉とは大違いだ。母さん、愛してる! とは言い過ぎかもしれない。


「まぁ、学校には連絡しといたから、たまには出てきて動きなさいよ。そのほうが一気に出ちゃうかもしれないし」
「うん、朝からごめん」
「いいわよ、別に。休んで困るのは基だもーん」


母さん、その歳で「もん」は止めたほうがいいと思う。とは言わずに口を閉ざす。痛みを堪えていると勘違いしたのか、母はけらけらと笑いながら何度も謝った。


「とにかくお母さん、これからママ友のお別れ会だから、あとは自分でなんとかしなさいよ? あ、そうそう、お父さんがテーブルに胃腸薬置いてたから、帰ってきたらお礼言うのよ?」
「んー、母さん帰り遅くなるんだっけ?」
「まぁね、夕飯は出前取ってね。じゃ、いってきまーす」
「いってらっさーい」


ゴロゴロゴロ。お腹の奥から響く不快な音に顔をしかめながら、今朝から何度目かの力みに足がぷるぷると震えた。
それから何分、いや何十分、下手したら何時間後に俺はトイレから出ることができた。母は昨日の夜に食べたおはぎのせいかと疑っているようだが、姉は昨日の朝に食べた饅頭が賞味期限切れであることを怒鳴っていたので、多分原因はそれだと思う。

のろのろとリビングにやってくると、放置していたスマホのランプが小さく点灯していた。


『ついに不登校ですかい? ……助けてやれずにごめんな』
「……ははっ、お人好しだなぁ、あいつ」


スマホが知らせていたのは受信メールだったらしい。それを開くと友人からのなんとも言えないメールの内容に、俺は思わず笑ってしまう。

王様に目をつけられてから、周りの行動は早かった。まず、俺の友人らは一斉に距離を取り、教師陣は俺を無き者として扱った。それは正しい。以前までの俺も同じように被害者を無視していた。だから、今さら誰かを責めることはしないし、言うつもりもない。
さすがに取り巻きたちからはミサキに見えないように蹴られてはいたが、意外なことに王様自身が俺に暴力を奮うことはなかった。うら若き思春期真っ盛りの男子高生に首輪をつけ、俺では永遠に手の届かない美女との性行為を見せつけることをなんというかは一先ず置いといて、ミサキが俺にすることと言えば、なぜか飴を寄こせの一点張りである。


「朝飯どーしよ……」


父さんが用意してくれた胃腸薬の隣にスマホを置き、冷蔵庫の中を漁ってみる。普段ならば真っ先に手を伸ばすだろうハムやウィンナーは正直お断りだ。もっと軽くてお腹に優しい食べ物がいいんだが……姉ちゃんのヨーグルト、食ったら怒られるよな?

――ピンポーン。

と、そんなとき、インターホンの音がリビンクに響く。なんとなく嫌な予感がして時計を見ると、時刻は九時四十五分。結構篭ってたな、俺。
どうせなにかのセールスだろうと、居留守をしてやる気満々で冷蔵庫を閉める。さすがに姉ちゃんのヨーグルトは怖かったので、結局パンにした。

ピリリ、とスマホが鳴く。袋から取り出した食パンを咥えた直後だった故か、驚く俺の振動で食パンの耳が千切れて落ちてしまった。最悪。だけど大丈夫、三秒ルール、三秒ルール。


「げっ」


スマホ画面に映る相手の名前に顔が歪む。こんな朝っぱら、というか明らかに授業中であろう今の時間、電話をかけている相手は正真正銘の馬鹿に違いない。画面には「王様」の二文字が、空々しく映っていた。

落ちた食パンを咀嚼しながら呆然と眺める。昨日の放課後、空き教室にてわざと飴を落とした俺に、クツクツと笑いつづける王様はなぜか俺の連絡先を聞いて来た。もちろん丁重にお断りしたのだが、どうしてかスマホは奪われてしまい、勝手に彼の名前が登録されていた。あまりの身勝手な行動にむしゃくしゃして、ミサキという文字を王様に登録し直したことを、きっと彼は知らない。

さて、どうするか。出ても出なくとも結果は同じような気がしないでもないが、まさか相手も俺が馬鹿正直に出るとは思っていないだろうし、やっぱりここは無視しよう。

そうと決まれば次の問題は玄関にいるどこぞのセールスだ。テレビをつけるにはまだ早すぎるし、ゲームでもするか。DSどこやったっけ……。

ふと鳴いていたスマホが止まった。ついに諦めたのかと見つけ出したDSの電源を入れると、すぐさまスマホが再び鳴いた。今度はどうやらメールらしい。


『居留守』


たった三文字の言葉に失笑する。あぁ嫌な予感はしてたんだ。なんとなーくしてたんだ。こういうときだけ総動員する俺の第六感が今は憎いぜコンチクショー。


「おはよ」
「……どうも」


本当に出たくない一心が顔に出ていることだろう。それでも分かり切った相手に顔を合わせるため、玄関扉を開けた俺に全世界が泣くべきだ。そして同情しろ。
今にも舌打ちをこぼしそうなそんな俺に、しかし王様は玄関先で笑っている。気持ちが悪い。


「なんの用ですか、サボりですか」
「見舞い?」


なぜ疑問形? あからさま過ぎる態度にイラッとするが、あえて笑みを貼りつけておく。そんな俺に王様は果物かごを押し付けてきた。これにはさすがに驚きを隠せず、果物かごとミサキとを交互に見る。


「やるよ、それ」
「……あぁ、そう……」


素直に驚いてしまった自分が悔しい。そしてちょっとだけ食べ物に喜ぶ自分が卑しい。
驚きに動けない俺を見るミサキの視線が痛い。別に鋭いわけではないが、そう凝視されるとさすがに辛いのだが。


「仮病?」
「……昨日食べた饅頭にあたって、さっきまでトイレに篭ってた」
「へぇ、汚ねぇな」
「じゃあ帰れば。つか帰れよ」


いやむしろぜひとも帰ってください。そんな気持ちが全面的に出てしまっているのだろう、それでも王様は嫌な顔一つせず微笑む。そしておもむろに、なぜか俺の首に手を伸ばした。


「首輪、あるほうがいいよ、お前」
「……」


貶してんのかコイツ。カチンとくる発言にますます俺の笑みが深くなる。口の端が吊りそうだが、笑顔を止めたら負けてしまう気がして、止めるに止められない。そんな俺を、やはり王様は笑って見つめるのだった。


「明日は来いよ」
「……あー、もしかして俺が登校拒否したとでも思った? 大丈夫、あんなの全然よゆーだし」
「へぇ、そりゃ良かった」


互いにニッコリ微笑む男子高校生。とは果たして一体どんな図なのだろうか。そもそも相手はあのミサキだ。近所の奥さま達が遠巻きに、だけど色っぽい瞳で王様を見ていやがる。


「じゃあ、帰るわ」
「へ?」
「またね」


去り際、二回ほど俺の首筋を撫でた王様が背を向ける。あまりにも呆気のない行動に、無意識に体が前のめりになった。気がつくと、俺の手はミサキの制服の裾をしかと握っていた。

そんな俺の行動にはさすがの王様も驚いているようで、幾度となく見た目を見開く姿を俺なんかの前に晒している。しかしそんな表情は一瞬で消え失せ、なぜかつまらなさそうにこちらを見下ろした。


「ミサキ、お前さぁ……煙草と酒と、多分女物の香水で、正直くさいよ」


しかし俺がそう言った瞬間、今度は満面な笑みを浮かべ、こちらへぐっと近寄ってくる。


「外で煙草吸っても、お前が止めてくんねーからじゃん」
「……そう思うなら、止めれば?」
「やだ」


まるで子供のように無邪気に微笑む。この顔に女子は騙されるんだろうな、と。


「まぁ、俺には関係ないことなんだけど、とりあえずこれだけは言っとく」
「なに?」


どうしてか笑みを浮かべつづけるミサキに一瞥くれてやる。そのまま勢いにまかせ、手にあった果物かごを王様へと突き返した。


「口寂しいならそれでも食ってろ、ばぁーか」


極めつけに鼻を鳴らして笑ってやると、呆気に取られていた王様はしかし、すぐに肩を震わせ笑うのだった。そんな姿に嫌悪感丸出しで顔をしかめていると、しばらくそうしていたミサキはこちらを見て、やはり笑う。


「お前の嫌がる顔、すげぇ好き」
「……うわ、気持ち悪い」


思わず声に出してしまうほど、本当にこの王様は気持ちが悪い。一見ドSに見えて、実はドMとかそんなオチはいらないし、そもそも興味がない。しかしそんな俺の態度は王様を喜ばせるしかなく、ここで微笑んでやるほど俺も大人ではなかった。けれど一つだけ、今この瞬間だけそんな王様が嫌う行動を取ることが、俺にできることをミサキは知らないはずだ。


「……果物かご、気持ちだけは嬉しかったよ。ありがと、じゃあね」


それは素直にお礼を言ってやる。たったそれだけである。案の定、王様は笑みを止めてこちらを見ているし、ほんの少し不本意そうだ。ざまぁみろ。俺は今にも笑い出しそうな感情を抑えつけ、さっさと玄関扉を閉めてやった。
それからゲームをしては適当にパンを食べ、帰ってきた姉にどやされながら関節技を決められ、そろそろ落ちるという頃に父さんが特上寿司を持って帰ってきた。マグロうめぇ、とか言いながら咀嚼する俺のスマホが鳴く。つつっと指で開いたメールには、


『どういたしまして』


なんて言葉が映っており、せっかくのマグロがとても不味くなったのだった。

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