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一緒に死んではくれまいか。
一緒に死ぬ約束だろう。
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激しい頭痛がしていた。それはそれは、酷いもので、まともな思考などできやしないほどの頭痛だ。しかし、それは事実ではない。一人の男がある時の状況を覆したいがために抱いた幻想だ。市郎太は後悔をしていた。昨日のことだ。光樹に将来への希望やら絆やらを含んだ眼差しを向け、とある約束をした。
——『一緒に死んではくれないか?』
市郎太は体を強張らせて奥歯から音を鳴らした。頭を抱えて羞恥に耐える。市郎太にとってはこの言葉だけでなく、直前の光樹との会話やあの友愛めかした空気感までもが恥の対象である。それから、何よりもこの誘いをした自分が許せそうになかった。パソコンに数行分の文章を打ち込んでは、大きく息を吐き出しながら真下を向く。
「うう、寒気がする」
そして、上着を着込んで着脹れした姿の市郎太は、身震いしながらそう呟いた。
書斎の扉を叩く音がした。光樹だ。市郎太は返事をしなかった。しかし、立ち上がって扉を開き、そのうんざりしたような顔を覗かせた。
「ご飯できましたよ。市郎太さん」
光樹は持参した橙色のエプロンを身につけて、そこに立っている。
「ああ、君、私はあの時頭が痛かったんだ」
「何の話ですか?」
首を傾げる光樹に、市郎太に説明ができるほどの余裕はなく、胸の奥に強い圧迫感を感じながら部屋を出ることにした。
居間に着けば、そこには光樹お手製の昼食が二人分置かれている。今日のメニューは焼きそばだ。米櫃の満たされ具合は相変わらずだが、市郎太のリクエストで今回は麺料理にした。座布団の上に腰を下ろした市郎太は、ひとまず卓上に置かれた茶を一口飲んだ。手を合わせて、挨拶をしたら、早速二人は麺を口に運ぶ。光樹は控えめながら音を立てて麺をすすっている。市郎太は箸で垂れた麺を掬い上げながら、不器用に麺を吸っていた。
しばらく、食事に集中していた二人だったが、ふと、光樹の食べ進める速さが著しく失速していることに市郎太は気づく。料理の味はいつも通り上等。いったい何が気掛かりなのか。市郎太は光樹に小刻みに視線を寄越しつつ、やはり不器用に麺を吸っては、箸で掬っていた。
「もうすぐ冬休みに入ります。ので、ここへ来る頻度が高くなると思います」
市郎太は何も特別なことでないかのように、素っ気ない相槌を返した。光樹はまだ何か伝えたいことがあるようで、麺を箸の先に軽く巻きつけるようにしながら、目線を泳がせている。それから、小さく溢れるような声量で言った。
「いつ、死にますか」
市郎太はなお、食事を続けている。
「計画、立てましょうね。僕、良さそうな死に場所、探しておきますし」
市郎太は飲み込み難さを感じていた。
「僕たち、一緒に死ぬ約束でしょう?」
光樹の縋り付くような目を、市郎太はやっと見た。
「なぜ、死に急ぐ」
市郎太に問われて、光樹は軽く唇を噛んだ。市郎太に光樹を責めるような気持ちはない。しかし、これははっきりさせる必要のある問いであった。そのため、市郎太の口調に少々の厳しさが見えるのも仕方のないことだった。
カーテンの隙間から差し込む陽の光が、卓上に一筋の線を引いていた。
「僕は、そうですね。強いて今、答えるとするならば、それは、生きる理由がないからだと思います」
光樹は言葉を探しながら続ける。
「生きづらさについては以前、お話ししたことと重なるので省きます。それで、生きる理由についてですが、やはり人生という長い時間を過ごさなければならない限り、理由がなければ生きていくことの前向きな活力が湧かないように思えるんです。それどころか、理由なく生き続けることは苦痛だとも思うんです」
市郎太は口に入れた野菜を咀嚼している。小気味良い葉物の音を鳴らして、飲み込んだ。
「君には、生きる目的や目標はあるのかね」
突然の問いかけに、光樹は呆然とした。理由と目的と目標。市郎太の中でこの三つに明確な違いがあることは確かだが、光樹にはどう答えるべきかの判断がすぐにはつかない。市郎太は箸を置いた。
「生きていく中で目指す先、ひとまずの終着点、解決したい課題、やり遂げたいこと、何か一つでも良い」
考える光樹を市郎太は待った。その時間は僅かなものだった。
「市郎太さんと、心中をすること」
光樹の答えに市郎太は頷く。
「結構だ。今の君にはそれで十分だと私は思う。そもそも、生きる理由など物好きの嗜みだからな」
光樹は呆気に取られた。と、同時に胸の高鳴りを感じ始めていた。今に市郎太の言葉で、自分に新しい考えが加わる。それを予感させられたからだ。市郎太は光樹から向けられた期待のこもった瞳を見て、その無邪気さに少しだけ辟易しながらも話し始めた。
「私は生きる目的や目標はいくら抱いても良いと思うが、生きる理由は抱いてはならないと思う。生きる理由というものは、同時に死ぬ理由になり得るからだ」
次に市郎太は、放つ湯気が少なくなった昼食を見て、その口調をやや早めた。
「それに反した時、または、自己の中で矛盾が生まれた時、失った時、人は死を考えるだろう。それは大元を辿れば、生きる理由を大事に抱えていたからこそだ。つまり、生きる理由とは、死ぬ理由の卵のようなものだと私は考えている」
話し終えた市郎太は、光樹の反応を待たずに箸を掴んで麺を食らった。この話題の終わりを強制するかのように。しかし、光樹はこの話題を終えるつもりはないようで、今度は光樹が箸を置いてしまった。
「何となく理解はできましたが、僕達にこそ、生きる理由はあった方が良くないですか? 死にたさの後押しになるのなら、利用できそうだと思うのですが」
市郎太はぬるくなった昼食を頬張ったまま、流し込むように茶を飲んだ。
「利用したいのならば勝手にしたまえ。ただ、私の生きる理由は死ぬ理由の卵としての役目を全うし終えている」
光樹は「あー」と、残念そうな声をあげた。それが、市郎太は腹立たしかった。日差しが強くなって、卓上の一線もよりその存在を際立てている。市郎太は釈然としない思いを抱えていた。
「君は、死を前向きに考えている」
光樹は聞き返そうとした。
「しかし私は、死を後ろ向きに考えている」
だが、その言葉が聞こえると、光樹は何も言わず、ただ寂しそうに市郎太から視線を逸らした。それから、光樹がありきたりな相槌を呟くと、その後二人は黙々と食事を終えるために箸を進めるだけだった。
その日以来、光樹が市郎太の自宅を訪ねる頻度は激減した。それどころか、光樹は来る度に必ず以前より疲れている。市郎太もそのことに気づいていて、様々なことを考える羽目になった。まだ、確信には至らないものの、自分に非があるような気もしていた。そして、反省しかける自分が嫌だった。
市郎太は光樹から疲れている理由を、それとなく聞き出そうとしたこともあった。しかし、市郎太はそんなに器用なことができる人間ではない。結局、会話の入り口でつまづいてはぎこちない空気になるばかりだ。そうして、最後には光樹から申し訳なさそうに切り出されるのだ。
「すみません。今日はもう帰ります」
暗い顔の光樹は今にも死にそうだ。立ち上がるのも、リュックを背負う動作も、全てが重たく見える。
「死ぬなら誘いたまえよ」
市郎太にとって、今かけられる精一杯の言葉はそれだけであった。
ある日の午後、市郎太は食事と考え事のためにとある喫茶店へと足を運んでいた。そこは「メルシー」という名の店で、市郎太のお気に入りの場所の一つである。扉を開ければ入店を知らせるベルが揺れて、耳心地の良い音を響かせた。カウンターの向こうに顔馴染みの店主がいて、軽く挨拶を交わした市郎太は、迷わず二人がけのテーブル席を選んで座った。上着を脱いでいると、そこへ、小柄で可愛らしいウェイトレスの少女がメニューを持ってやって来た。
「いらっしゃいませ、那挫さん!」
彼女はこの店のアルバイトだ。店主と同じく市郎太とは顔馴染みで、彼女の対人能力の高さゆえにそこそこに親しい。彼女の綺麗に磨かれた名札には「小鳩」と書かれている。人も少なく、静かな店内では、彼女の高く澄んだ声は少々目立つが、不快に思う人間はいなかった。
「メニューは結構。フレンチトーストとクリームソーダを頼む」
「はい!」
満点の笑顔で了承した小鳩は、店主に注文を伝えると、市郎太の席へと戻り、向かい側の空いた椅子へ当然のように座った。市郎太も当たり前のようにそれを受け入れ、雑談を始める。
近況、体調、仕事の話、それから、小鳩は学校の話をした。市郎太は淡々と言葉を返すが、つまらないと感じているわけではない。自分とは全く違うと感じる小鳩の話はいつでも新鮮で、市郎太にとっては有意義なものなのだ。
しばらく小鳩も笑顔で会話を楽しんでいたが、そこへ店主が料理を運んでくると、しまったというような顔をした。
「仕事はしてくださいね。小鳩さん」
「すみません。森河さん」
慌てて立ちあがろうとした小鳩だが、それを店主である森河は柔い手つきで制止した。そして、市郎太を少し見やると、何やら含みのある笑みを浮かべた。その笑みを、市郎太はあまり心地よく思わなかった。
「どうやら、那挫さんは悩みがあるようですね」
それだけ言うと、森河は持ち場へ戻って行く。そうしてまた、カウンターの向こうで仕事をこなしていた。市郎太は何事もなかったかのようにフォークとナイフを手に取った。
「えっ、悩み事があるなら、小鳩、聴きます!」
しかし、小鳩はそれを聞いて、立ち去れるような人間ではなく、すぐに座り直した。背筋を伸ばし、手を膝について、まるで今から面接でも受けるかのようだ。
「君はいい子だな。模範的な人間で、私とは大違いだ」
フレンチトーストを切り分け、口に運ぶ市郎太。小鳩は手を口元に当てて、市郎太をじっと見た。
「たぶん、そういうところがダメなんだと思います」
「まだ何も相談していないが」
ナイフを入れたフレンチトーストは、じゅわりと蜜をこぼしながら、ほろりと解けるように分離した。
「強いて言えば、相談事をできる相手がいないことが悩みかもしれないな」
フォークで突き刺し、添えられたバニラアイスを少量乗せて頬張る。その様子を小鳩は両手で頬杖をついて眺めた。
「那挫さんって、素直じゃないですよね」
それがどうした。と言わんばかりの表情で、市郎太はストローを咥えてクリームソーダを堪能している。簡潔に言えば、無視をした。
「小鳩、ビビッときました。ずばり、那挫さんのお悩みは人間関係ですね」
「君はやんわりと失礼だな」
苦言を言っても否定を言わない市郎太に、小鳩は自分の推理が正しかったと確信する。こうなれば、小鳩はなかなか引き下がらない。それを知っている市郎太は、クリームソーダに乗せられている真っ赤なさくらんぼを、フレンチトーストの皿の端に除けながらどう話したものかと考えた。
「まあ、君の言うとおり、私の悩みはとある人物との関係だ。ある日を境に、疎遠になった」
溶け始めたバニラアイスが染みたフレンチトーストは、余計に柔くなって、市郎太は切り分けるのに少々苦戦した。
「その『ある日』に原因がありそうですね。喧嘩とか?」
「そんな大層なことはしていない。ただ、私と相手の関係の要となる考えに、相違があったことが明らかになっただけだ」
小鳩は大きく頷きながら話を聴いていた。
「じゃあ、話し合いが必要ですね。もしかしたら、喧嘩だって必要かもです」
クリームソーダのアイスをストローで馴染ませる。パチパチと弾ける炭酸の音が、市郎太の胸の奥にまで響いていた。
「その考えの相違は、覆せないものですか?」
「そうだな。少なくとも私には覆す気は全くないし、相手もそう簡単には変わらないだろう」
一口、クリームソーダを飲み込めば、刺激と甘みの主張を目一杯感じる。
「つまり、落とし所は一つですね」
小鳩はさながら探偵のように人さし指を額に当てて、気取った仕草をしてみせた。
「受け入れるんです。譲るんじゃなくて」
市郎太は途端に人間関係の難しさをより一層感じ始めた。市郎太にとって、自分と真逆の考えを受け入れることは、異物を飲み込むのと同じような苦しみがある。あからさまに嫌そうな顔をした市郎太を小鳩は見つめた。
「平穏で良好な人間関係は、自分を失っても、相手に自分を失わせても良くないですからね」
市郎太は小鳩の道理を理解はできたが、素直に受け入れることができなかった。そして、それこそが自分の難点であると市郎太は改めて気付かされる。もう一口頬張ったフレンチトーストの甘さが、どこまでも染み渡るような感覚がしていた。
「まさか、十七歳の若者に諭されるとはな」
小鳩は嬉しそうに笑った。
「年齢なんて関係ありませんよ。人間として誰しも考えの持ち合わせは違いますし、それを共有したり変化させていくことで、日々内面の更新をする生き物だと思いますから」
皿の端に佇んでいたさくらんぼを小鳩は摘んで、その実を口に含んだ。表情と肩を上げる動作で味覚から得た喜びを表現する。そこで、客の呼ぶ声がした。小鳩は返事をして、さくらんぼの柄を口から覗かせたまま市郎太の席を離れて行った。
市郎太にとって、これは初めての困難だった。今までの人間関係において、来る者を拒み、去る者を追わなかった市郎太にとって光樹という存在は異質なのだ。拒み切れず、かといって去ることをどこか恐れてしまう。そこにある原因とは、考えればすぐに分かった。命だ。命がかかっているからだ。奇妙なことに、心中の約束をしたことが市郎太と光樹の命を繋いでいる。つまり、市郎太が光樹との縁を切ればそこで、互いを繋ぐ命綱も切れてしまうというわけだ。
市郎太は、はっとする。いつの間にか皿の上に乗っていた煌めく好物を食べ終えていた。市郎太は役目を終えたカトラリーを、別れを惜しむように置く。物思いに耽って、しかも、他人のことを考えて好物を味わうことを疎かにしたことが、少々癪だった。せめてもと、溶け出したアイスで濁ったクリームソーダを最大限丁寧に味わった市郎太は、会計を済ませてメルシーを後にした。
作業効率の低下。それを、戯柵こと市郎太の自称・一番のファンが見逃すことはなかった。あれから数日が経っても市郎太と光樹の関係にかかったもやは晴れることがなく、市郎太は仕事の進捗にも影響を及ぼしていた。
そのことについて、現在、市郎太は自宅にやって来た慎二と問答中であった。原因を探ろうとする慎二に、市郎太は悟られまいとはぐらかす。しかし、ここ最近での大きな変化といえば一つしかなかった。
「光樹くんと何かあったんじゃないのか」
市郎太は「違う」と堂々と言い放った。それでも、慎二の怪訝な態度は変わらない。
「そもそも、あの子とはどういう関係なんだ。急に知り合いができるなんて、お前にしては珍しい」
市郎太は言葉に詰まった。光樹との関係は簡単に説明できるものではないし、説明できたとして、それを聞いた慎二の反応が思わしいものではないことなど想像に容易だからだ。慎二は市郎太の抱える死への欲求を知らない。当然、光樹と心中の約束を交わしたことも。
「どういう関係も何も、ただの知り合いだ。それで、まあ、何があったわけでもない」
慎二を納得させるためには、市郎太は多少の真実を話す必要があった。
「ただ、少し疎遠になっただけだ」
慎二は黙った。口を少し開けて、戸惑いと驚きの表情で固まっている。知り合い程度の人間と少し疎遠になったことを気にするなど、慎二の知る市郎太ではないからだ。一言、二言意味のない相槌をこぼした慎二を見て、市郎太は格段に気が重くなった。
「じゃ、じゃあ、そうだな。連絡先とか、知らないのか?」
慎二の尤もな問いかけに、市郎太は軽く指組みをして気怠げに首を横に振った。
「知らない」
「交換しておけば良かったのに」
「私は、そういうものに縛られるのは嫌なんだ」
市郎太は、今度は呆れた顔をした慎二を視界に入れまいとよそを見た。
「縛られるも何も、用がある時以外連絡をしなければいいんじゃないか。それともなんだ。夕飯の写真でも送り合うのか? 自分とはしてくれないのに」
「鬱陶しいな」
説教じみた言い方をする慎二を、市郎太は腹立たしく思った。それが我儘で幼稚な心理だということは、市郎太自身でもよく分かっている。市郎太の態度から、これ以上は口論になりそうだと予感した慎二は、机に置かれた茶を飲み干す。荷物をまとめて慎二が立ち上がると、市郎太も机に両手をついて立ち上がった。
「うまくいくといいな」
それから、慎二は市郎太と光樹の現状について、詳細をよく分からないなりに言葉をかけた。市郎太は黙って頷く。慎二が帰って独りになった市郎太は、喧しくなった思考を掻き消すために書斎へと籠った。
あれからまた、数日と経った。光樹の言っていた冬休みにもなっている頃だが、あの疲れた顔を見せた日以来、市郎太の自宅を訪ねて来てはいない。そのせいか、慣れ親しんだ部屋の中でも市郎太は落ち着けなかった。光樹が自宅へ訪れるという日常が変化してしまったからだ。だから、市郎太は家から出るしかなかった。変化による動揺を抑えるには、また別の変化が必要だったのだ。
適当に近辺を散歩していた市郎太だったが、出不精がゆえに体力が尽きるのは早かった。気づけば心を落ち着かせるためではなく、休憩場所を探して歩いている。そうして結局、辿り着いた先は喫茶・メルシーであり、市郎太は無用な遠回りをしたかのような徒労感を味わっていた。
扉を開ければ、歓迎のベルが鳴り響く。店主の森河に挨拶をして、小鳩に出迎えられる。そして、いつもの二人がけの席に座った。椅子の背もたれに上着を掛けて一息ついたところで、小鳩がメニューを持ってやって来た。
「アイスココアを」
「かしこまりました!」
やはりメニューを見ずに注文を済ませた市郎太は、上着のポケットを探って財布があることを確かめた。と、同時に携帯が手に触れる。瞬時に脳裏に過ぎるのは光樹のこと。連絡先の交換などしていないのに、メールや電話が来るのを待っているかのような錯覚に陥った。市郎太は自分の抱えている感情の名前を認識することを拒む。しかし、それは分かりやすいことのために、心ではすっかり理解していた。
「お待たせいたしました。アイスココアです!」
体感数十秒で運ばれてきたそれは、机に置かれるなり上に乗ったクリームを揺らした。小鳩はせかせかと先日同様、向かい側の椅子に座ると、ココアをすする市郎太を眺めて話題を待つ。市郎太は小鳩の視線で、落ち着こうにも気を散らされて少々居心地が悪かった。それは、小鳩が待ち望んでいる話題が、前回市郎太のした相談事の続きだということが分かっているからでもあった。気乗りしない口を、市郎太は努力して動かす。
「前に、話した件の人間関係のことだが、」
それから、ナプキンで上唇についたクリームを拭き取った。
「進展はない」
「えっ」
口元に手を当てた小鳩は、次に体を少し傾けた。
「でも、あー、確かに……?」
「妙に納得をするな」
「話し合い、できてないんですか?」
小鳩は市郎太にストローの入った袋を差し出す。市郎太はそれを受け取って中身を取り出し、半分ほどココアに沈めた。
「それ以前に、会っていない」
「どうしてです?」
「会う術が向こうから私の家に来てもらう以外にないのだよ。それで、最近はめっきり来なくなったからな」
かき混ぜたココアは、真っ白なクリームが混ざって、その暗い色を変化させていた。
「それって、ご自宅で待ってなくていいんですか?」
「家に居るのは……」
落ち着かない。市郎太はそう言いかけて止める。市郎太は光樹が来なくなるという変化に動揺をしたがために外出をした。そう思っていた。しかし、その動揺にも元となる感情があるのだ。そのことに気づかないふりをするのも限界がきた市郎太は、家に居ると落ち着かない気持ちになる原因を思うことに気を取られた。会話に間が空く。
「多少不安でも、いつもの場所で待っていた方が良いと小鳩は思いますけど」
その通りだ。だが、市郎太は否定したくなった。「不安」という部分が引っかかったのだ。不安。何が。光樹が来ないことが。果たして本当にそうなのか。不安という言葉では少し違う気がする。光樹が来ないことの何が不安なのか。その時、市郎太は光樹のあの疲れた顔を思い出した。
「君の言う通りだ」
市郎太はストローでもう一度、ココアをかき混ぜた。すでに、クリームはほとんど沈んでいて、混ぜた途端にジワリと広がるように溶け込んだ。
「だがしかし今は、ここに居させてくれ」
逃げ道を探して居座ることが、市郎太の習慣だった。
光樹が市郎太の家を訪れなくなって、二週間と少し経った。市郎太にとって、変化した日常が元通りの感覚に戻ることは難しいようで、未だに心のざわめきは残っている。朝になって夜になって、眠れなくてまた朝になる。こんな慣れた生活に、懐かしの苦しさを感じているほどだ。机に伏せて、今や疲れた顔をしているのは市郎太も同じであった。
呼び鈴の音が鳴る。市郎太は勢いよく体を起こした。どうせ違うなどと思いながら、期待を抑えて玄関へと赴く。すりガラスの向こうの人影を見ると、一呼吸おいて、戸を開けた。すると、そこに居たのは松葉杖で体を支える光樹だった。
「こんにちは。市郎太さん」
少し照れたような笑顔を見せながら挨拶をした光樹の顔色は、最後に会った時よりもずっと良い。市郎太の内では、安心と怒りの二つの感情が強く渦巻いていた。
「あがりたまえ」
無愛想な言い方はいつも通りで、光樹は「お邪魔します」と嬉しそうに松葉杖を前についた。光樹は右脚にギプスをしており、不慣れな様子で靴を脱いだ。それから、お馴染みの居間へ入ろうとした光樹を市郎太は引き止める。市郎太は奥の部屋へ光樹を案内すると、そこは他の部屋よりやや広く、机と椅子といくつかの棚、そしてダンボールが置かれた洋室だった。
市郎太は光樹に椅子に座るよう促す。怪我をした脚では、床に直接座るのが難しいと考えた為に、この部屋へ通したようだ。光樹が棚に目を向けると、アンティーク調の置物や食器がガラス戸の奥で鈍く輝いていた。
「お久しぶりですね」
「ああ、全くだ」
光樹の探るような言い方に、市郎太は気がついていた。一方、光樹は市郎太の感情が分からなかった。飲み物もなく、机を挟んで互いに向き合って座っている状況に、再会の喜びよりも緊張感があった。
「なぜ、君はここへ来なかった」
責めるような言い方だ。語気に含んだ怒りが、理不尽なものである自覚は市郎太にもある。光樹はその微笑みをぎこちなくして、机の木目を眺めた。
「まあ、色々と……でも、今は元気ですから、何も心配しないでください」
「最後に草臥れた顔を見せ、数週間も会わず、杖をついた状態で再会をした知り合いの事情を『色々と』で飲み込めるわけがないだろう」
市郎太は体を少し後ろへ倒した。椅子の軋む音さえも重々しい。光樹は口を開こうとした。だが、強張る体はそれすらできそうにない。市郎太から感じる怒りの感情。それ以上に、光樹はとある感情を恐れていた。市郎太はそんな光樹の様子を見て、待つことが得策ではないと思った。
「光樹。来なかった、或いは、来られなかった。どちらだ」
二択の質問は光樹の心を少しばかり楽にさせた。市郎太は単に知るための方法として訊き方を変えたのだが、光樹は自分に寄り添ってくれたかのような感覚を得ていた。
「両方です。来るのを控えて、その後、来られなくなりました」
光樹は「来られなくなりました」の部分で右脚を僅かに上げてギプスを見せた。声を出して勢いづいたのか、光樹は辿々しくも話し始めた。
「実はその、少し厄介なことが重なりまして。人間関係とか、将来のこととか。それで、疲れてしまって、そんな姿を市郎太さんに見せるのが嫌でここへ来ることを避けていました。この怪我は、ぼんやりしていたら階段から落ちてしまった時に負ったものです」
光樹の話を聞き終えた市郎太は平静を装っているが、内心そうではない。感情に沿って言葉が絶えず浮かび上がり、言いたいこと、言うべきでないことの分別に忙しい。市郎太が何も言わない時間はごく僅かだった。だが、光樹はそれに耐えることができなかった。
「でも、本当に大丈夫なんです。本当にもう、大丈夫なんです」
繰り返された「大丈夫」。伝わる恐れと焦り。それが、市郎太にとある確信をもたらした。
「君は私に心配をかけたくないから、疲れた姿を見せようとしなかった。違うかね」
まるで、詰問するかような言い方だ。与えられた圧迫感に、光樹は机の下で手と手を握りしめる。
「違わない、です」
そして、戸惑ったような瞳を市郎太に向けながらそう答えた。すると、市郎太の頭の中で絶えず湧いていた言葉たちは列を成し始める。
「そうか。なんと利己的な」
光樹は驚きと不服を顔に出した。
「利己的、ですか」
「ああ、そうとも。その配慮は結局は誰のためだ」
光樹は市郎太をまっすぐに見た。市郎太は机の上で指を組み、一方の親指の爪をもう一方の指先で撫でている。問いに対する光樹の答えが決まりきっていることは、互いに分かっていることだった。
「市郎太さんがいらない心配をして、余計な負担を抱えないように……なので、市郎太さんのためだと思います」
「想像力豊かだな、君は。そして、押し付けがましく、やはり利己的だ」
光樹にとって市郎太の言論は説教のようなものであったが、当の市郎太にとってはそうではない。
「いいか、私が君を心配したとして、君の事情を“知らなければ良かった”と、思うことはない。むしろ、仮に多少の心労を負担してでも“知りたい”と思う。つまり、君は想像上の私の人間性を現実の私に重ねたのだ。そして、私の本心を無視して隠し事をしたというわけだ」
もはや、当て付けのようなものである。光樹を責め立てるような言い方をして、自分の感情の発散をしている。それは、市郎太が冷静さを保つためで、市郎太が自分の気持ちを否定するためで、市郎太が自分の心の所在を曖昧にするためであった。
「すでに反省していますが、それが利己的という捉え方になる理由が分かりません」
「当然だ。まだ、話は終わっていないからな」
光樹の疑問は市郎太への反抗にも思えるが、そうではない。正しく、明確に理解したいのだ。自分の中に加わる新しい考えを歓迎するために。
「簡潔に言うと、君が私に心配をかけた時及び、その後につらくなるのは誰かという話だ。私は先ほど述べた通り、心労を負担してでも知りたいと思っていたのだから、湧き上がるつらさよりも知り得た君の事情に向き合うだろう。しかし、君は私に心配をかけたなどと思って勝手に傷つくだろうな。であれば結果、心配をかけたくないから黙るということをして心の負担を避けるのは誰だ。君だ。つまり、君は結局は自分の心を守るために黙っていた、利己的な行為をしていたのだよ」
言い終えた市郎太が息を吸う小さな音の後の部屋は、音が一つもなくなった。市郎太の発言は屁理屈と呼んで差し支えがなく、斜めにものを見ているが故の自説だ。しかし、そこには多分に含まれている本心がある。市郎太の言ったことの解釈を進めていた光樹は、机に額がつきそうなほど頭を下げた。
「ごめんなさい……」
俯いた光樹の表情は、喜びの感情が薄らと表れていた。
「謝る必要などない。そもそも、私は君を心配したり、君を取り巻く厄介な事情を知ったところで心を痛めたりなどしないからな」
市郎太は素っ気なく言った。顔を上げた光樹の表情はもう、喜びを隠せていなかった。
「市郎太さんらしいですね」
「なんだ急に悪口を言うな」
光樹は可笑しそうに、嬉しそうに声を抑えて笑った。それを気恥ずかしく思ったのか、市郎太はその場を離れて、まだそこまで暗くはなっていない部屋の明かりを点けた。
「まあとにかく、これからは余計な遠慮をするな。それから、しばらく会わない時はそれをどうにかして私に伝えたまえ。急に今回のようなことになると、私の心の予定に関わる」
市郎太がもう一度席につくまでの動きを、光樹は目で追っていた。
「市郎太さん、もしかしてやっぱり僕の心配を——」
「自惚れるんじゃない。私はただ、約束を破るのが嫌なだけだ」
叱るような言い方をした市郎太のことが、光樹は少しも怖くなかった。
「私と一緒に死ぬ約束だろう。繋がりが途絶えては、それを果たせないではないか」
光樹の瞳が飽和寸前の潤いを纏う。それと同時に光樹がほころんだ表情で「はい」と答えれば、市郎太はあくまでも約束だけの繋がりだと強調するのだった。
二人は日が暮れるまで話しをした。会わなかった日々の間にあったこと、仕事の話、学業の話などを淡々と伝え合った。それから、光樹を疲れさせていた厄介な人間関係の話になった。市郎太は光樹の話を聞く限り、光樹にはその相手と一緒に過ごすことで害はあれど利は無いように思えた。市郎太はそれを素直に伝えると、光樹は悩んだような表情をする。
「思い切ってしまうという選択肢はないのかね。逃げ道に飛び込む勇気が君にはあるだろう」
光樹は畏まったように声をひそめた。
「えっと、それはつまり、死……」
「絶縁だ」
平然と言う市郎太に、光樹は戸惑う。死ぬことよりも絶縁に躊躇いが見えるのは光樹にとっての感覚がそうなのか、それとも話題にしている人物が光樹にとってよっぽど大切な人間なのか、市郎太はそれ以上知ろうとはしない。ただ、光樹の選択を待っている。
「あの、そういえばなんですけど、」
結果、光樹が選んだのは選択をすることから逃げるということだった。あからさまな話題の逸らし方をされても、市郎太はそれを揶揄するようなことはせず、自然な様子で「何だね」と返す。光樹はリュックから携帯を取り出した。
「連絡先、交換しませんか」
「断る。私はそういうものに縛られるのは嫌なんだ」
「そんな」
光樹が持っている端末には、すでにメッセージアプリの画面が表示されていた。
「ここへ来られないことを伝えたり、逆に来ることを伝えたりするのに有用だと思うのですが……」
依然として市郎太は億劫そうな顔をやめない。
「あと、連絡が取れる状態って安心感があると思うんです。お願いします。余計な連絡はしませんよ。偶然見かけた虹にはしゃいで写真を送ったりもしません。約束しますから」
やや前のめりになって言う光樹に、市郎太は背もたれへ身を引く。そうして、渋っていたのも数秒で、市郎太は気乗りしない気持ちもありつつ「少し待ちたまえ」と言って部屋を出た。
戻ってきた市郎太の手には少し古い機種の携帯端末が握られている。
「で、どうやるんだ」
その後、浮かれた様子の光樹の指示のもと、無事に連絡先の交換が行われた。市郎太は連なる連絡先に追加された「光樹」の文字を見つめる。今はこの文字列を異物のように感じているが、それはいつか薄れていくだろう。そう考えると、市郎太は光樹との関係の奇妙さと終わりのことを思うのだった。
「何か、おかしなところでもありますか?」
光樹は市郎太が画面を凝視しているのを不審に思ったのか、そう訊いた。市郎太は何でもないことを伝えようとしたが、ふと目についた単語がそれを阻んだ。市郎太はその単語を指差し、光樹に画面を見せる。そこにはアプリの仕様上、連絡先の相手のことを「友だち」と称するリスト名があった。
「私達の関係に、この言葉は当てはまらないと思ってな」
光樹の反応を伺うように、市郎太が視線を寄越すと光樹は軽やかな笑い声をあげた。
「そうですね。僕達の関係は、互いに『心中相手』ですもんね」
一途にその関係を貫く光樹に市郎太は感心するも、どこか人間としての欠落を感じずにはいられない。しかし、それで良かった。この、不快さとも違和感とも言い難い、恐怖に似た感覚があるからこそ、市郎太は光樹を見捨てられずにいるのだから。
市郎太は光樹のリュックを持ち上げた。想像よりも重くてよろけた。光樹が杖を使って立ち上がると、市郎太はそのリュックを背負うのを手伝った。
「今日はもう遅いからな」
それから、市郎太が部屋の扉を開けると、光樹は感謝の言葉を口にしながら横切った。
「明日は来るのか」
「まだ分かりません。病院があるので」
玄関までたどり着くと、光樹はやはり難しそうに靴を履いた。数回つま先を鳴らして調整すると、振り返って市郎太の方を見た。
「じゃあ、また連絡しますね」
「ああ、分かった」
杖を持ち上げて手を振るような仕草をしてから出て行った光樹を、市郎太は手を振り返すことなく見送った。連絡手段を手に入れてからの別れで市郎太が感じているのは、安心感だけではなかった。
また日常が変化してしまった。と、市郎太は思うのだった。
——『一緒に死んではくれないか?』
市郎太は体を強張らせて奥歯から音を鳴らした。頭を抱えて羞恥に耐える。市郎太にとってはこの言葉だけでなく、直前の光樹との会話やあの友愛めかした空気感までもが恥の対象である。それから、何よりもこの誘いをした自分が許せそうになかった。パソコンに数行分の文章を打ち込んでは、大きく息を吐き出しながら真下を向く。
「うう、寒気がする」
そして、上着を着込んで着脹れした姿の市郎太は、身震いしながらそう呟いた。
書斎の扉を叩く音がした。光樹だ。市郎太は返事をしなかった。しかし、立ち上がって扉を開き、そのうんざりしたような顔を覗かせた。
「ご飯できましたよ。市郎太さん」
光樹は持参した橙色のエプロンを身につけて、そこに立っている。
「ああ、君、私はあの時頭が痛かったんだ」
「何の話ですか?」
首を傾げる光樹に、市郎太に説明ができるほどの余裕はなく、胸の奥に強い圧迫感を感じながら部屋を出ることにした。
居間に着けば、そこには光樹お手製の昼食が二人分置かれている。今日のメニューは焼きそばだ。米櫃の満たされ具合は相変わらずだが、市郎太のリクエストで今回は麺料理にした。座布団の上に腰を下ろした市郎太は、ひとまず卓上に置かれた茶を一口飲んだ。手を合わせて、挨拶をしたら、早速二人は麺を口に運ぶ。光樹は控えめながら音を立てて麺をすすっている。市郎太は箸で垂れた麺を掬い上げながら、不器用に麺を吸っていた。
しばらく、食事に集中していた二人だったが、ふと、光樹の食べ進める速さが著しく失速していることに市郎太は気づく。料理の味はいつも通り上等。いったい何が気掛かりなのか。市郎太は光樹に小刻みに視線を寄越しつつ、やはり不器用に麺を吸っては、箸で掬っていた。
「もうすぐ冬休みに入ります。ので、ここへ来る頻度が高くなると思います」
市郎太は何も特別なことでないかのように、素っ気ない相槌を返した。光樹はまだ何か伝えたいことがあるようで、麺を箸の先に軽く巻きつけるようにしながら、目線を泳がせている。それから、小さく溢れるような声量で言った。
「いつ、死にますか」
市郎太はなお、食事を続けている。
「計画、立てましょうね。僕、良さそうな死に場所、探しておきますし」
市郎太は飲み込み難さを感じていた。
「僕たち、一緒に死ぬ約束でしょう?」
光樹の縋り付くような目を、市郎太はやっと見た。
「なぜ、死に急ぐ」
市郎太に問われて、光樹は軽く唇を噛んだ。市郎太に光樹を責めるような気持ちはない。しかし、これははっきりさせる必要のある問いであった。そのため、市郎太の口調に少々の厳しさが見えるのも仕方のないことだった。
カーテンの隙間から差し込む陽の光が、卓上に一筋の線を引いていた。
「僕は、そうですね。強いて今、答えるとするならば、それは、生きる理由がないからだと思います」
光樹は言葉を探しながら続ける。
「生きづらさについては以前、お話ししたことと重なるので省きます。それで、生きる理由についてですが、やはり人生という長い時間を過ごさなければならない限り、理由がなければ生きていくことの前向きな活力が湧かないように思えるんです。それどころか、理由なく生き続けることは苦痛だとも思うんです」
市郎太は口に入れた野菜を咀嚼している。小気味良い葉物の音を鳴らして、飲み込んだ。
「君には、生きる目的や目標はあるのかね」
突然の問いかけに、光樹は呆然とした。理由と目的と目標。市郎太の中でこの三つに明確な違いがあることは確かだが、光樹にはどう答えるべきかの判断がすぐにはつかない。市郎太は箸を置いた。
「生きていく中で目指す先、ひとまずの終着点、解決したい課題、やり遂げたいこと、何か一つでも良い」
考える光樹を市郎太は待った。その時間は僅かなものだった。
「市郎太さんと、心中をすること」
光樹の答えに市郎太は頷く。
「結構だ。今の君にはそれで十分だと私は思う。そもそも、生きる理由など物好きの嗜みだからな」
光樹は呆気に取られた。と、同時に胸の高鳴りを感じ始めていた。今に市郎太の言葉で、自分に新しい考えが加わる。それを予感させられたからだ。市郎太は光樹から向けられた期待のこもった瞳を見て、その無邪気さに少しだけ辟易しながらも話し始めた。
「私は生きる目的や目標はいくら抱いても良いと思うが、生きる理由は抱いてはならないと思う。生きる理由というものは、同時に死ぬ理由になり得るからだ」
次に市郎太は、放つ湯気が少なくなった昼食を見て、その口調をやや早めた。
「それに反した時、または、自己の中で矛盾が生まれた時、失った時、人は死を考えるだろう。それは大元を辿れば、生きる理由を大事に抱えていたからこそだ。つまり、生きる理由とは、死ぬ理由の卵のようなものだと私は考えている」
話し終えた市郎太は、光樹の反応を待たずに箸を掴んで麺を食らった。この話題の終わりを強制するかのように。しかし、光樹はこの話題を終えるつもりはないようで、今度は光樹が箸を置いてしまった。
「何となく理解はできましたが、僕達にこそ、生きる理由はあった方が良くないですか? 死にたさの後押しになるのなら、利用できそうだと思うのですが」
市郎太はぬるくなった昼食を頬張ったまま、流し込むように茶を飲んだ。
「利用したいのならば勝手にしたまえ。ただ、私の生きる理由は死ぬ理由の卵としての役目を全うし終えている」
光樹は「あー」と、残念そうな声をあげた。それが、市郎太は腹立たしかった。日差しが強くなって、卓上の一線もよりその存在を際立てている。市郎太は釈然としない思いを抱えていた。
「君は、死を前向きに考えている」
光樹は聞き返そうとした。
「しかし私は、死を後ろ向きに考えている」
だが、その言葉が聞こえると、光樹は何も言わず、ただ寂しそうに市郎太から視線を逸らした。それから、光樹がありきたりな相槌を呟くと、その後二人は黙々と食事を終えるために箸を進めるだけだった。
その日以来、光樹が市郎太の自宅を訪ねる頻度は激減した。それどころか、光樹は来る度に必ず以前より疲れている。市郎太もそのことに気づいていて、様々なことを考える羽目になった。まだ、確信には至らないものの、自分に非があるような気もしていた。そして、反省しかける自分が嫌だった。
市郎太は光樹から疲れている理由を、それとなく聞き出そうとしたこともあった。しかし、市郎太はそんなに器用なことができる人間ではない。結局、会話の入り口でつまづいてはぎこちない空気になるばかりだ。そうして、最後には光樹から申し訳なさそうに切り出されるのだ。
「すみません。今日はもう帰ります」
暗い顔の光樹は今にも死にそうだ。立ち上がるのも、リュックを背負う動作も、全てが重たく見える。
「死ぬなら誘いたまえよ」
市郎太にとって、今かけられる精一杯の言葉はそれだけであった。
ある日の午後、市郎太は食事と考え事のためにとある喫茶店へと足を運んでいた。そこは「メルシー」という名の店で、市郎太のお気に入りの場所の一つである。扉を開ければ入店を知らせるベルが揺れて、耳心地の良い音を響かせた。カウンターの向こうに顔馴染みの店主がいて、軽く挨拶を交わした市郎太は、迷わず二人がけのテーブル席を選んで座った。上着を脱いでいると、そこへ、小柄で可愛らしいウェイトレスの少女がメニューを持ってやって来た。
「いらっしゃいませ、那挫さん!」
彼女はこの店のアルバイトだ。店主と同じく市郎太とは顔馴染みで、彼女の対人能力の高さゆえにそこそこに親しい。彼女の綺麗に磨かれた名札には「小鳩」と書かれている。人も少なく、静かな店内では、彼女の高く澄んだ声は少々目立つが、不快に思う人間はいなかった。
「メニューは結構。フレンチトーストとクリームソーダを頼む」
「はい!」
満点の笑顔で了承した小鳩は、店主に注文を伝えると、市郎太の席へと戻り、向かい側の空いた椅子へ当然のように座った。市郎太も当たり前のようにそれを受け入れ、雑談を始める。
近況、体調、仕事の話、それから、小鳩は学校の話をした。市郎太は淡々と言葉を返すが、つまらないと感じているわけではない。自分とは全く違うと感じる小鳩の話はいつでも新鮮で、市郎太にとっては有意義なものなのだ。
しばらく小鳩も笑顔で会話を楽しんでいたが、そこへ店主が料理を運んでくると、しまったというような顔をした。
「仕事はしてくださいね。小鳩さん」
「すみません。森河さん」
慌てて立ちあがろうとした小鳩だが、それを店主である森河は柔い手つきで制止した。そして、市郎太を少し見やると、何やら含みのある笑みを浮かべた。その笑みを、市郎太はあまり心地よく思わなかった。
「どうやら、那挫さんは悩みがあるようですね」
それだけ言うと、森河は持ち場へ戻って行く。そうしてまた、カウンターの向こうで仕事をこなしていた。市郎太は何事もなかったかのようにフォークとナイフを手に取った。
「えっ、悩み事があるなら、小鳩、聴きます!」
しかし、小鳩はそれを聞いて、立ち去れるような人間ではなく、すぐに座り直した。背筋を伸ばし、手を膝について、まるで今から面接でも受けるかのようだ。
「君はいい子だな。模範的な人間で、私とは大違いだ」
フレンチトーストを切り分け、口に運ぶ市郎太。小鳩は手を口元に当てて、市郎太をじっと見た。
「たぶん、そういうところがダメなんだと思います」
「まだ何も相談していないが」
ナイフを入れたフレンチトーストは、じゅわりと蜜をこぼしながら、ほろりと解けるように分離した。
「強いて言えば、相談事をできる相手がいないことが悩みかもしれないな」
フォークで突き刺し、添えられたバニラアイスを少量乗せて頬張る。その様子を小鳩は両手で頬杖をついて眺めた。
「那挫さんって、素直じゃないですよね」
それがどうした。と言わんばかりの表情で、市郎太はストローを咥えてクリームソーダを堪能している。簡潔に言えば、無視をした。
「小鳩、ビビッときました。ずばり、那挫さんのお悩みは人間関係ですね」
「君はやんわりと失礼だな」
苦言を言っても否定を言わない市郎太に、小鳩は自分の推理が正しかったと確信する。こうなれば、小鳩はなかなか引き下がらない。それを知っている市郎太は、クリームソーダに乗せられている真っ赤なさくらんぼを、フレンチトーストの皿の端に除けながらどう話したものかと考えた。
「まあ、君の言うとおり、私の悩みはとある人物との関係だ。ある日を境に、疎遠になった」
溶け始めたバニラアイスが染みたフレンチトーストは、余計に柔くなって、市郎太は切り分けるのに少々苦戦した。
「その『ある日』に原因がありそうですね。喧嘩とか?」
「そんな大層なことはしていない。ただ、私と相手の関係の要となる考えに、相違があったことが明らかになっただけだ」
小鳩は大きく頷きながら話を聴いていた。
「じゃあ、話し合いが必要ですね。もしかしたら、喧嘩だって必要かもです」
クリームソーダのアイスをストローで馴染ませる。パチパチと弾ける炭酸の音が、市郎太の胸の奥にまで響いていた。
「その考えの相違は、覆せないものですか?」
「そうだな。少なくとも私には覆す気は全くないし、相手もそう簡単には変わらないだろう」
一口、クリームソーダを飲み込めば、刺激と甘みの主張を目一杯感じる。
「つまり、落とし所は一つですね」
小鳩はさながら探偵のように人さし指を額に当てて、気取った仕草をしてみせた。
「受け入れるんです。譲るんじゃなくて」
市郎太は途端に人間関係の難しさをより一層感じ始めた。市郎太にとって、自分と真逆の考えを受け入れることは、異物を飲み込むのと同じような苦しみがある。あからさまに嫌そうな顔をした市郎太を小鳩は見つめた。
「平穏で良好な人間関係は、自分を失っても、相手に自分を失わせても良くないですからね」
市郎太は小鳩の道理を理解はできたが、素直に受け入れることができなかった。そして、それこそが自分の難点であると市郎太は改めて気付かされる。もう一口頬張ったフレンチトーストの甘さが、どこまでも染み渡るような感覚がしていた。
「まさか、十七歳の若者に諭されるとはな」
小鳩は嬉しそうに笑った。
「年齢なんて関係ありませんよ。人間として誰しも考えの持ち合わせは違いますし、それを共有したり変化させていくことで、日々内面の更新をする生き物だと思いますから」
皿の端に佇んでいたさくらんぼを小鳩は摘んで、その実を口に含んだ。表情と肩を上げる動作で味覚から得た喜びを表現する。そこで、客の呼ぶ声がした。小鳩は返事をして、さくらんぼの柄を口から覗かせたまま市郎太の席を離れて行った。
市郎太にとって、これは初めての困難だった。今までの人間関係において、来る者を拒み、去る者を追わなかった市郎太にとって光樹という存在は異質なのだ。拒み切れず、かといって去ることをどこか恐れてしまう。そこにある原因とは、考えればすぐに分かった。命だ。命がかかっているからだ。奇妙なことに、心中の約束をしたことが市郎太と光樹の命を繋いでいる。つまり、市郎太が光樹との縁を切ればそこで、互いを繋ぐ命綱も切れてしまうというわけだ。
市郎太は、はっとする。いつの間にか皿の上に乗っていた煌めく好物を食べ終えていた。市郎太は役目を終えたカトラリーを、別れを惜しむように置く。物思いに耽って、しかも、他人のことを考えて好物を味わうことを疎かにしたことが、少々癪だった。せめてもと、溶け出したアイスで濁ったクリームソーダを最大限丁寧に味わった市郎太は、会計を済ませてメルシーを後にした。
作業効率の低下。それを、戯柵こと市郎太の自称・一番のファンが見逃すことはなかった。あれから数日が経っても市郎太と光樹の関係にかかったもやは晴れることがなく、市郎太は仕事の進捗にも影響を及ぼしていた。
そのことについて、現在、市郎太は自宅にやって来た慎二と問答中であった。原因を探ろうとする慎二に、市郎太は悟られまいとはぐらかす。しかし、ここ最近での大きな変化といえば一つしかなかった。
「光樹くんと何かあったんじゃないのか」
市郎太は「違う」と堂々と言い放った。それでも、慎二の怪訝な態度は変わらない。
「そもそも、あの子とはどういう関係なんだ。急に知り合いができるなんて、お前にしては珍しい」
市郎太は言葉に詰まった。光樹との関係は簡単に説明できるものではないし、説明できたとして、それを聞いた慎二の反応が思わしいものではないことなど想像に容易だからだ。慎二は市郎太の抱える死への欲求を知らない。当然、光樹と心中の約束を交わしたことも。
「どういう関係も何も、ただの知り合いだ。それで、まあ、何があったわけでもない」
慎二を納得させるためには、市郎太は多少の真実を話す必要があった。
「ただ、少し疎遠になっただけだ」
慎二は黙った。口を少し開けて、戸惑いと驚きの表情で固まっている。知り合い程度の人間と少し疎遠になったことを気にするなど、慎二の知る市郎太ではないからだ。一言、二言意味のない相槌をこぼした慎二を見て、市郎太は格段に気が重くなった。
「じゃ、じゃあ、そうだな。連絡先とか、知らないのか?」
慎二の尤もな問いかけに、市郎太は軽く指組みをして気怠げに首を横に振った。
「知らない」
「交換しておけば良かったのに」
「私は、そういうものに縛られるのは嫌なんだ」
市郎太は、今度は呆れた顔をした慎二を視界に入れまいとよそを見た。
「縛られるも何も、用がある時以外連絡をしなければいいんじゃないか。それともなんだ。夕飯の写真でも送り合うのか? 自分とはしてくれないのに」
「鬱陶しいな」
説教じみた言い方をする慎二を、市郎太は腹立たしく思った。それが我儘で幼稚な心理だということは、市郎太自身でもよく分かっている。市郎太の態度から、これ以上は口論になりそうだと予感した慎二は、机に置かれた茶を飲み干す。荷物をまとめて慎二が立ち上がると、市郎太も机に両手をついて立ち上がった。
「うまくいくといいな」
それから、慎二は市郎太と光樹の現状について、詳細をよく分からないなりに言葉をかけた。市郎太は黙って頷く。慎二が帰って独りになった市郎太は、喧しくなった思考を掻き消すために書斎へと籠った。
あれからまた、数日と経った。光樹の言っていた冬休みにもなっている頃だが、あの疲れた顔を見せた日以来、市郎太の自宅を訪ねて来てはいない。そのせいか、慣れ親しんだ部屋の中でも市郎太は落ち着けなかった。光樹が自宅へ訪れるという日常が変化してしまったからだ。だから、市郎太は家から出るしかなかった。変化による動揺を抑えるには、また別の変化が必要だったのだ。
適当に近辺を散歩していた市郎太だったが、出不精がゆえに体力が尽きるのは早かった。気づけば心を落ち着かせるためではなく、休憩場所を探して歩いている。そうして結局、辿り着いた先は喫茶・メルシーであり、市郎太は無用な遠回りをしたかのような徒労感を味わっていた。
扉を開ければ、歓迎のベルが鳴り響く。店主の森河に挨拶をして、小鳩に出迎えられる。そして、いつもの二人がけの席に座った。椅子の背もたれに上着を掛けて一息ついたところで、小鳩がメニューを持ってやって来た。
「アイスココアを」
「かしこまりました!」
やはりメニューを見ずに注文を済ませた市郎太は、上着のポケットを探って財布があることを確かめた。と、同時に携帯が手に触れる。瞬時に脳裏に過ぎるのは光樹のこと。連絡先の交換などしていないのに、メールや電話が来るのを待っているかのような錯覚に陥った。市郎太は自分の抱えている感情の名前を認識することを拒む。しかし、それは分かりやすいことのために、心ではすっかり理解していた。
「お待たせいたしました。アイスココアです!」
体感数十秒で運ばれてきたそれは、机に置かれるなり上に乗ったクリームを揺らした。小鳩はせかせかと先日同様、向かい側の椅子に座ると、ココアをすする市郎太を眺めて話題を待つ。市郎太は小鳩の視線で、落ち着こうにも気を散らされて少々居心地が悪かった。それは、小鳩が待ち望んでいる話題が、前回市郎太のした相談事の続きだということが分かっているからでもあった。気乗りしない口を、市郎太は努力して動かす。
「前に、話した件の人間関係のことだが、」
それから、ナプキンで上唇についたクリームを拭き取った。
「進展はない」
「えっ」
口元に手を当てた小鳩は、次に体を少し傾けた。
「でも、あー、確かに……?」
「妙に納得をするな」
「話し合い、できてないんですか?」
小鳩は市郎太にストローの入った袋を差し出す。市郎太はそれを受け取って中身を取り出し、半分ほどココアに沈めた。
「それ以前に、会っていない」
「どうしてです?」
「会う術が向こうから私の家に来てもらう以外にないのだよ。それで、最近はめっきり来なくなったからな」
かき混ぜたココアは、真っ白なクリームが混ざって、その暗い色を変化させていた。
「それって、ご自宅で待ってなくていいんですか?」
「家に居るのは……」
落ち着かない。市郎太はそう言いかけて止める。市郎太は光樹が来なくなるという変化に動揺をしたがために外出をした。そう思っていた。しかし、その動揺にも元となる感情があるのだ。そのことに気づかないふりをするのも限界がきた市郎太は、家に居ると落ち着かない気持ちになる原因を思うことに気を取られた。会話に間が空く。
「多少不安でも、いつもの場所で待っていた方が良いと小鳩は思いますけど」
その通りだ。だが、市郎太は否定したくなった。「不安」という部分が引っかかったのだ。不安。何が。光樹が来ないことが。果たして本当にそうなのか。不安という言葉では少し違う気がする。光樹が来ないことの何が不安なのか。その時、市郎太は光樹のあの疲れた顔を思い出した。
「君の言う通りだ」
市郎太はストローでもう一度、ココアをかき混ぜた。すでに、クリームはほとんど沈んでいて、混ぜた途端にジワリと広がるように溶け込んだ。
「だがしかし今は、ここに居させてくれ」
逃げ道を探して居座ることが、市郎太の習慣だった。
光樹が市郎太の家を訪れなくなって、二週間と少し経った。市郎太にとって、変化した日常が元通りの感覚に戻ることは難しいようで、未だに心のざわめきは残っている。朝になって夜になって、眠れなくてまた朝になる。こんな慣れた生活に、懐かしの苦しさを感じているほどだ。机に伏せて、今や疲れた顔をしているのは市郎太も同じであった。
呼び鈴の音が鳴る。市郎太は勢いよく体を起こした。どうせ違うなどと思いながら、期待を抑えて玄関へと赴く。すりガラスの向こうの人影を見ると、一呼吸おいて、戸を開けた。すると、そこに居たのは松葉杖で体を支える光樹だった。
「こんにちは。市郎太さん」
少し照れたような笑顔を見せながら挨拶をした光樹の顔色は、最後に会った時よりもずっと良い。市郎太の内では、安心と怒りの二つの感情が強く渦巻いていた。
「あがりたまえ」
無愛想な言い方はいつも通りで、光樹は「お邪魔します」と嬉しそうに松葉杖を前についた。光樹は右脚にギプスをしており、不慣れな様子で靴を脱いだ。それから、お馴染みの居間へ入ろうとした光樹を市郎太は引き止める。市郎太は奥の部屋へ光樹を案内すると、そこは他の部屋よりやや広く、机と椅子といくつかの棚、そしてダンボールが置かれた洋室だった。
市郎太は光樹に椅子に座るよう促す。怪我をした脚では、床に直接座るのが難しいと考えた為に、この部屋へ通したようだ。光樹が棚に目を向けると、アンティーク調の置物や食器がガラス戸の奥で鈍く輝いていた。
「お久しぶりですね」
「ああ、全くだ」
光樹の探るような言い方に、市郎太は気がついていた。一方、光樹は市郎太の感情が分からなかった。飲み物もなく、机を挟んで互いに向き合って座っている状況に、再会の喜びよりも緊張感があった。
「なぜ、君はここへ来なかった」
責めるような言い方だ。語気に含んだ怒りが、理不尽なものである自覚は市郎太にもある。光樹はその微笑みをぎこちなくして、机の木目を眺めた。
「まあ、色々と……でも、今は元気ですから、何も心配しないでください」
「最後に草臥れた顔を見せ、数週間も会わず、杖をついた状態で再会をした知り合いの事情を『色々と』で飲み込めるわけがないだろう」
市郎太は体を少し後ろへ倒した。椅子の軋む音さえも重々しい。光樹は口を開こうとした。だが、強張る体はそれすらできそうにない。市郎太から感じる怒りの感情。それ以上に、光樹はとある感情を恐れていた。市郎太はそんな光樹の様子を見て、待つことが得策ではないと思った。
「光樹。来なかった、或いは、来られなかった。どちらだ」
二択の質問は光樹の心を少しばかり楽にさせた。市郎太は単に知るための方法として訊き方を変えたのだが、光樹は自分に寄り添ってくれたかのような感覚を得ていた。
「両方です。来るのを控えて、その後、来られなくなりました」
光樹は「来られなくなりました」の部分で右脚を僅かに上げてギプスを見せた。声を出して勢いづいたのか、光樹は辿々しくも話し始めた。
「実はその、少し厄介なことが重なりまして。人間関係とか、将来のこととか。それで、疲れてしまって、そんな姿を市郎太さんに見せるのが嫌でここへ来ることを避けていました。この怪我は、ぼんやりしていたら階段から落ちてしまった時に負ったものです」
光樹の話を聞き終えた市郎太は平静を装っているが、内心そうではない。感情に沿って言葉が絶えず浮かび上がり、言いたいこと、言うべきでないことの分別に忙しい。市郎太が何も言わない時間はごく僅かだった。だが、光樹はそれに耐えることができなかった。
「でも、本当に大丈夫なんです。本当にもう、大丈夫なんです」
繰り返された「大丈夫」。伝わる恐れと焦り。それが、市郎太にとある確信をもたらした。
「君は私に心配をかけたくないから、疲れた姿を見せようとしなかった。違うかね」
まるで、詰問するかような言い方だ。与えられた圧迫感に、光樹は机の下で手と手を握りしめる。
「違わない、です」
そして、戸惑ったような瞳を市郎太に向けながらそう答えた。すると、市郎太の頭の中で絶えず湧いていた言葉たちは列を成し始める。
「そうか。なんと利己的な」
光樹は驚きと不服を顔に出した。
「利己的、ですか」
「ああ、そうとも。その配慮は結局は誰のためだ」
光樹は市郎太をまっすぐに見た。市郎太は机の上で指を組み、一方の親指の爪をもう一方の指先で撫でている。問いに対する光樹の答えが決まりきっていることは、互いに分かっていることだった。
「市郎太さんがいらない心配をして、余計な負担を抱えないように……なので、市郎太さんのためだと思います」
「想像力豊かだな、君は。そして、押し付けがましく、やはり利己的だ」
光樹にとって市郎太の言論は説教のようなものであったが、当の市郎太にとってはそうではない。
「いいか、私が君を心配したとして、君の事情を“知らなければ良かった”と、思うことはない。むしろ、仮に多少の心労を負担してでも“知りたい”と思う。つまり、君は想像上の私の人間性を現実の私に重ねたのだ。そして、私の本心を無視して隠し事をしたというわけだ」
もはや、当て付けのようなものである。光樹を責め立てるような言い方をして、自分の感情の発散をしている。それは、市郎太が冷静さを保つためで、市郎太が自分の気持ちを否定するためで、市郎太が自分の心の所在を曖昧にするためであった。
「すでに反省していますが、それが利己的という捉え方になる理由が分かりません」
「当然だ。まだ、話は終わっていないからな」
光樹の疑問は市郎太への反抗にも思えるが、そうではない。正しく、明確に理解したいのだ。自分の中に加わる新しい考えを歓迎するために。
「簡潔に言うと、君が私に心配をかけた時及び、その後につらくなるのは誰かという話だ。私は先ほど述べた通り、心労を負担してでも知りたいと思っていたのだから、湧き上がるつらさよりも知り得た君の事情に向き合うだろう。しかし、君は私に心配をかけたなどと思って勝手に傷つくだろうな。であれば結果、心配をかけたくないから黙るということをして心の負担を避けるのは誰だ。君だ。つまり、君は結局は自分の心を守るために黙っていた、利己的な行為をしていたのだよ」
言い終えた市郎太が息を吸う小さな音の後の部屋は、音が一つもなくなった。市郎太の発言は屁理屈と呼んで差し支えがなく、斜めにものを見ているが故の自説だ。しかし、そこには多分に含まれている本心がある。市郎太の言ったことの解釈を進めていた光樹は、机に額がつきそうなほど頭を下げた。
「ごめんなさい……」
俯いた光樹の表情は、喜びの感情が薄らと表れていた。
「謝る必要などない。そもそも、私は君を心配したり、君を取り巻く厄介な事情を知ったところで心を痛めたりなどしないからな」
市郎太は素っ気なく言った。顔を上げた光樹の表情はもう、喜びを隠せていなかった。
「市郎太さんらしいですね」
「なんだ急に悪口を言うな」
光樹は可笑しそうに、嬉しそうに声を抑えて笑った。それを気恥ずかしく思ったのか、市郎太はその場を離れて、まだそこまで暗くはなっていない部屋の明かりを点けた。
「まあとにかく、これからは余計な遠慮をするな。それから、しばらく会わない時はそれをどうにかして私に伝えたまえ。急に今回のようなことになると、私の心の予定に関わる」
市郎太がもう一度席につくまでの動きを、光樹は目で追っていた。
「市郎太さん、もしかしてやっぱり僕の心配を——」
「自惚れるんじゃない。私はただ、約束を破るのが嫌なだけだ」
叱るような言い方をした市郎太のことが、光樹は少しも怖くなかった。
「私と一緒に死ぬ約束だろう。繋がりが途絶えては、それを果たせないではないか」
光樹の瞳が飽和寸前の潤いを纏う。それと同時に光樹がほころんだ表情で「はい」と答えれば、市郎太はあくまでも約束だけの繋がりだと強調するのだった。
二人は日が暮れるまで話しをした。会わなかった日々の間にあったこと、仕事の話、学業の話などを淡々と伝え合った。それから、光樹を疲れさせていた厄介な人間関係の話になった。市郎太は光樹の話を聞く限り、光樹にはその相手と一緒に過ごすことで害はあれど利は無いように思えた。市郎太はそれを素直に伝えると、光樹は悩んだような表情をする。
「思い切ってしまうという選択肢はないのかね。逃げ道に飛び込む勇気が君にはあるだろう」
光樹は畏まったように声をひそめた。
「えっと、それはつまり、死……」
「絶縁だ」
平然と言う市郎太に、光樹は戸惑う。死ぬことよりも絶縁に躊躇いが見えるのは光樹にとっての感覚がそうなのか、それとも話題にしている人物が光樹にとってよっぽど大切な人間なのか、市郎太はそれ以上知ろうとはしない。ただ、光樹の選択を待っている。
「あの、そういえばなんですけど、」
結果、光樹が選んだのは選択をすることから逃げるということだった。あからさまな話題の逸らし方をされても、市郎太はそれを揶揄するようなことはせず、自然な様子で「何だね」と返す。光樹はリュックから携帯を取り出した。
「連絡先、交換しませんか」
「断る。私はそういうものに縛られるのは嫌なんだ」
「そんな」
光樹が持っている端末には、すでにメッセージアプリの画面が表示されていた。
「ここへ来られないことを伝えたり、逆に来ることを伝えたりするのに有用だと思うのですが……」
依然として市郎太は億劫そうな顔をやめない。
「あと、連絡が取れる状態って安心感があると思うんです。お願いします。余計な連絡はしませんよ。偶然見かけた虹にはしゃいで写真を送ったりもしません。約束しますから」
やや前のめりになって言う光樹に、市郎太は背もたれへ身を引く。そうして、渋っていたのも数秒で、市郎太は気乗りしない気持ちもありつつ「少し待ちたまえ」と言って部屋を出た。
戻ってきた市郎太の手には少し古い機種の携帯端末が握られている。
「で、どうやるんだ」
その後、浮かれた様子の光樹の指示のもと、無事に連絡先の交換が行われた。市郎太は連なる連絡先に追加された「光樹」の文字を見つめる。今はこの文字列を異物のように感じているが、それはいつか薄れていくだろう。そう考えると、市郎太は光樹との関係の奇妙さと終わりのことを思うのだった。
「何か、おかしなところでもありますか?」
光樹は市郎太が画面を凝視しているのを不審に思ったのか、そう訊いた。市郎太は何でもないことを伝えようとしたが、ふと目についた単語がそれを阻んだ。市郎太はその単語を指差し、光樹に画面を見せる。そこにはアプリの仕様上、連絡先の相手のことを「友だち」と称するリスト名があった。
「私達の関係に、この言葉は当てはまらないと思ってな」
光樹の反応を伺うように、市郎太が視線を寄越すと光樹は軽やかな笑い声をあげた。
「そうですね。僕達の関係は、互いに『心中相手』ですもんね」
一途にその関係を貫く光樹に市郎太は感心するも、どこか人間としての欠落を感じずにはいられない。しかし、それで良かった。この、不快さとも違和感とも言い難い、恐怖に似た感覚があるからこそ、市郎太は光樹を見捨てられずにいるのだから。
市郎太は光樹のリュックを持ち上げた。想像よりも重くてよろけた。光樹が杖を使って立ち上がると、市郎太はそのリュックを背負うのを手伝った。
「今日はもう遅いからな」
それから、市郎太が部屋の扉を開けると、光樹は感謝の言葉を口にしながら横切った。
「明日は来るのか」
「まだ分かりません。病院があるので」
玄関までたどり着くと、光樹はやはり難しそうに靴を履いた。数回つま先を鳴らして調整すると、振り返って市郎太の方を見た。
「じゃあ、また連絡しますね」
「ああ、分かった」
杖を持ち上げて手を振るような仕草をしてから出て行った光樹を、市郎太は手を振り返すことなく見送った。連絡手段を手に入れてからの別れで市郎太が感じているのは、安心感だけではなかった。
また日常が変化してしまった。と、市郎太は思うのだった。
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