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第二章 そして舞台の幕が開く
84話 時計の針が進むように
しおりを挟む新学期から一週間が経ち、休み気分も抜けてきた日のこと。
大広間前の廊下に多くの生徒が集まっていた。問題でもあったのか、場が騒然としている。
「誰がこんなこと……」
「なんて酷い。卑怯な振る舞いだな」
「本当に。誰がこんなことをしたのかしら」
深刻そうな会話が耳に届く。私はそれに首を傾げた。
「何だ? あの人だかりは」
「確か、夏休み課題の優秀者が貼り出されていましたよね?」
ルーファスの言葉に、メアリーも不思議そうに首を傾げる。彼女の言うとおり、あそこには課題の成績優秀者が掲示されていた。
夏休みの課題と言っても、日本のように沢山の宿題が出るわけではない。
課されるのはただ一つ。自身の魔術属性に関する自主研究だ。
自身の魔術属性であれば、何を書いてもいいのがこの課題。皆思い思いのテーマを決めてレポートを提出した。
ありがたいことに、私はその中で一番の評価をいただいた。大学時代の経験から、レポート作成に慣れていたのも理由の一つだろう。
他の皆からすると少々ズルいかもしれないが、土属性魔術の研究は真面目に取り組んだので許して欲しい。
そんなわけで、あの場所には先日から成績優秀者が貼り出されていたわけだが。一体何があったのだろうか。
私とルーファス、メアリーにヘレンは、全員で顔を見合わせた。
「あ! シャーロット嬢……!」
スピネル寮生の一人が私の名を呼ぶ。彼女はどこか痛ましそうにこちらを見ていた。
まさか、この騒動は私が関係しているのだろうか。新学期早々勘弁してくれと思いつつ、ゆっくりと人垣へ近づく。
たどり着いた先で見たのは、私の名だけが塗りつぶされた貼り紙だった。
「これは……」
「ひ、酷すぎます! 誰がこんな……!
ルーファスが唖然と声を漏らすと、被さるようにヘレンが声を荒げた。
友人として怒ってくれているのだろうか。普段は静かな彼女が、声を震わせながら非難の声をあげている。
掲示を見ると、私の名前がぐちゃぐちゃに塗りつぶされているのが分かる。感情的に塗りつぶしたような跡を、私は無言のまま見つめていた。
その姿を見て、心配したのだろうか。ヘレンがおずおずと声をかけてきた。
「シャーロット様、お気になさってはいけません。こんなこと、する人間が悪いのですから」
「そうですよ! 一体誰がこんなことを!」
ヘレンの言葉に、メアリーが憤慨しながら同意する。私以上に二人の方が深刻に受け止めているようだ。
それにありがとうと礼を言うも、私の内心は複雑だった。
だって、ねぇ。これは俗に言う虐めという部類なのだろうか。だとしたら、随分とお優しいのではないか。
もちろん、決して気分が良い話ではない。不快感はある。
ただ、悲しむほどのものとも思えなかった。
夜の店にいた身としては、多少の嫌がらせは経験している。
数字が全ての世界だ。売り上げを上げれば、嫉妬されるのは当然の流れ。
その結果、売り上げのあるキャストほど、大なり小なり嫌がらせを受けるのだ。
私自身、嫌味を言われたり、掲示板に嘘を書き込まれたりと、それなりに面倒はあった。
とはいえ、直接暴力を振るわれたことはないし、嫌味もこそこそと言う程度。割り切ってしまえる範疇だったのだが。
その経験ゆえか。この程度で傷つくことはない。名前を黒く塗りつぶされたから、一体何だと言うのか。
むしろ、どう反応するのが正解か分からず混乱しているくらいだ。誰かマニュアルをくれ。
一人途方に暮れていたとき、再び周囲が騒めき出した。皆の視線を追うと、少し離れた場所にシアとソフィーが立っている。それも、恐ろしく冷たい瞳で笑っていた。
「まぁ! こんな愚か者がこの学園にいるなんて知らなかったわ。ソフィアは知っていて?」
「いいえ、レティシア殿下。これほど愚かな行動に出る人間がいるなんて……一体、どこのどなたでしょう?」
美しい微笑みとは裏腹に、その声は凍てつくほどの冷たさがある。
これは本気で怒っているな、と私は引きつった笑みを浮かべた。
一先ず、彼女たちを落ち着かせるのが私の役目のようだ。
「全く、誰があんなふざけた真似を!」
苛立たしげにそう吐き捨てるのはレティシアだ。
いつもは穏やかな微笑を浮かべる彼女だが、今は分かりやすく怒りの表情を浮かべている。ここには限られた者しかいないため、取り繕う気はないらしい。
あの後、私たちはスピネル寮のサロンに移動した。ルーファスとソフィー、シアに私の4人だ。
メアリーとヘレンは、王女であるシアとの同席は畏れ多いと席を外している。
シア自身、今の自分が冷静になれないことは分かっていたのだろう。次は共にお茶をしましょうと誘い、その場を上手くまとめていた。
万が一メアリーたちが同席していたら、今頃怖がっていたことだろう。高位の者が怒りを露わにするところなど、恐ろしくて見たくないはずだ。この怒り様を見る限り、彼女たちが辞退したのは正解といえる。
「ひとまず落ち着きましょう、シアお姉様」
「これが落ち着いていられて? あなたがそれほど冷静なのに驚くくらいよ」
もっと怒っていいのよ? シアはそう言うと、心配そうに私を見やる。
どうやら、私が怒り一つ見せないことが、心配なようだ。申し訳なく思いつつも、私は何も言えず微笑んだ。
正直、そこまで怒ることかという疑問がある。直接罵倒されたわけでも、暴力を振るわれたわけでもない。物を壊されることもなかった。
虐めと呼ぶには些か甘い行動に、あまり騒ぎ立てる気にもなれず。私は怒るに怒れないのだ。
私の感覚が周囲とズレているのだろうか。皆があれほど騒いでいたのを見る限り、シアたちの反応が一般的なようだ。
社交界にはもっと陰湿な例があると思うが、それでも今回のことは許せないらしい。目に見える形での悪意に敏感なのか。
「シャーリーは大らかすぎるのかしら。もっと怒ってもいいでしょうに」
息を吐き、そうこぼすのはソフィーだ。痛ましげにこちらを見る視線に、私は内心申し訳なさが募った。すみません、多分ズレているだけです。
「そうね。シャーリーは多少のことでは動じないところがあるもの。
それにしても、貴族のやり取りなんて、大概が悪意に塗れているものだけれど。こんなやり方はあり得ないわ。
大体、裏で手をまわすにもやりようがあるでしょうに」
幼稚過ぎるわ。そう言うシアの言葉に、私は内心で頷いた。
まさに、幼稚と評するに相応しい行為だろう。あれで私の評価が下がるわけでも無い。
私を蹴落としたいというのなら、もっと効果的な策があったはず。これでは単に、私が被害者になって終わりだ。
悪評が流れているとも聞かないし、結局何がしたかったのだろうか。
とはいえ、あれ無意味ですよねー! とハッキリ言うのは憚られる。私のために怒ってくれている人を前に、さすがにその発言はできない。
かと言って、被害者仕草も出来そうにない。演技するにしたって限度があるだろう。
そもそも、演技するまでもなく、この件は私が被害者なのだ。演技をする利益すらない。
ならばどうするか。ここはやはり、私らしい選択を取るしかないだろう。
ティーカップを傾けて喉を潤す。さあ、お話の始まりだ。
「シアお姉様、ソフィー様」
私は、はっきりとした口調で彼女たちに呼びかける。彼女たちに視線を合わせ、口を開いた。
「私としては、今回のことに不快感を覚えています。ですが、私が感情を露わにするのは得策ではないとも考えているのです」
「得策ではない?」
「どういうことかしら? シャーリー」
私がそう切り出すと、二人がこちらへ聞き返す。その表情は真剣そのものだ。私を思い、心配してくれているのだろう。それに心から感謝し、言葉を続けた。
「塗りつぶされた名を見たときに思ったのです。余程の感情があって、あの行為に出たのだろうと」
ただ線を引かれたというわけではない。何度も繰り返すかのように、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされていた。
まるで、行き場のない思いをぶつけるかのようだった。気づかぬうちに、それほどの怒りを買っていたのだろうか。
「そんな人間が、これきりで終わるとは思えません。再び何かしらの嫌がらせをしてくる可能性が高いでしょう」
往々にして、嫌がらせというのは一度きりでは終わらない。面倒な話だが、繰り返されるのが通常だ。
もっと言えば、次第にエスカレートしていくものでもある。
「だからこそ、今は平静を保たねばならないかと。
私が揺らげば、犯人にとっては思う壷でしょう。より傷つけてやろうと躍起になるはずです。どうせこれからも嫌がらせはあるでしょうから、せめて犯人を喜ばせることはしたくないのです」
そう言ってにっこりと笑みを向けると、二人は感心したように言葉をこぼした。
「一理あるわね。愚かな人間を喜ばせるのは業腹だわ」
「そうですね。わざわざ餌をあげる必要はありません。シャーリーの毅然とした態度が、犯人にとっては最も不快でしょうし」
頷き合う二人を見て、私はほっと息を吐く。これで少しは落ち着いてもらえそうだ。
そんな中、不意にシアが口を開いた。
「誰がこんなことをしたのか。真っ先に疑われるのはコードウェル公爵令嬢でしょうけれど。ソフィアはどう考えているの?」
「彼女なら、あのような稚拙な行動に出る可能性はあるかと。
残念ながら、今のところ証拠はありませんが」
二人の言うとおり、真っ先に疑われるのはブリジット嬢だろう。広まっている噂と相まって、疑惑の目を向けられる可能性は極めて高い。
しかし、ブリジット嬢の犯行という証拠はどこにもない。
あれは大広間の前に貼り出されたものだ。やろうと思えば誰にだってできる。人目につかぬよう警戒は必要だが、それ以外に行動を妨げる要因はない。
そうである以上、目撃証言でも出ない限り真相は闇の中だ。
証拠が出てくるか、新たな被害が発生するまで、この話は棚上げするしかないだろう。
「一先ずは様子を見るしかありませんね」
「それしかないわね。
それにしてもシャーリー、あなたの周りは厄介事ばかりではなくて?ベント子爵領への慰問でも事件が起きたのでしょう?」
どうしてそう、厄介事に巻き込まれるのかしらね。そうこぼすシアに、私は肩を落とす。
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「残念ながらそのとおりです。ベント子爵領では魔獣の襲撃がありました。事前にそのような情報は入っておらず、驚きましたが……」
「聞く限り、ベント子爵領は何年も前からその状態だったようね? 酷い話だわ」
シアは悲しげに眉を寄せると、彼女が知っていることを語ってくれた。
「城内はその話題で持ち切りよ。よりにもよって、聖女の慰問中に発覚したでしょう?
本来、魔獣騒ぎが起きれば国が調査に出向く。その上で、教会に討伐協力を願い出るというのに。
今回は聖女が事件に巻き込まれ、討伐した。何年も前から起きていた事件なのに、把握一つできないのかと教会から抗議があったわ」
「殿下、一つ伺いたいのですが」
今まで沈黙を貫いていたルーファスが、おもむろに口を開く。どうやら気掛かりなことがあるようだ。
「国が一切把握していないのは、些か不自然に思います。
ベント子爵領からの請願はなかったのですか? 子爵が病床に伏しているとしても、請願書を提出するくらいはできたでしょう」
たしかに、請願書の提出は可能だろう。署名等はベント子爵のものでなければならないが、文章の作成は奥方でも問題はない。それを考えれば、請願書が一枚も出ていないとは思えない。
「あなたの疑問はもっともね。結論から言うと、請願書は提出されていたわ。
けれど、国の中枢には届かなかった」
「……請願書が紛失していたと?」
「正確には、破棄されたと言うべきでしょうね」
その言葉に、室内の空気が一気に重くなる。破棄された。人命にかかわる請願書だ。到底許される行いではない。
「すぐに文官へ取り調べが行われたけれど、犯人に繋がる証拠は挙がらなかった。
当然よね、そんな大それたことをするのだもの。徹底的に記録から抹消されていたそうよ。届いたかどうかすら、記録されていなかったわ」
「なるほど。では、なぜベント子爵が請願書を出していたと分かったのです?」
破棄された上記録もない状況で、なぜ請願書が出されていたと判断できたのか。そう問いかけるルーファスに、シアは静かに答えた。
「ベント子爵の屋敷へ、王国騎士団が向かったの。子爵は未だ、起き上がれる状況ではなかったけれど。実情を把握するため、許可を得て書斎に入らせてもらったらしいわ。
机の上には、書きかけの請願書があったそうよ。そこに書かれていたの。“度重なる請願となり申し訳ない”とね」
それを見て騎士は察したのだろう。病に苦しんでいる中、何度も子爵が筆をとったことを。
請願書の文字は震えていたという。例え体調が優れずとも、代筆させることなく自分で書き上げていたのだ。
病に冒される中、筆を取るのはどれほどの苦痛だっただろうか。いつ助けてくれるのか、届いているのかすら分からない。そんな中で何通も書き上げたのだ、その苦しみは察するに余りある。
「ベント子爵夫人も、家を支えるため駆けまわっていたそうよ。伯爵家へ協力を願い出たそうだけど、それは聞き入れられなかった」
「そんな! あれほど大きな事件なのに」
私は驚きのあまり言葉を漏らす。彼女は悲しげに微笑み、残酷な事実を口にした。
「最初は子爵領の確認に来たそうなのよ。けれど、伯爵家の人間が確認する際には、被害が一切起きなかったようなの。それが三度連続したために、見捨てられてしまったとか」
その言葉に、私は口を閉ざした。
我が家も子爵家で、ペイリン伯爵家より領地の管理を任されている。当然ベント子爵家も同じように、伯爵家から領地を預かっている形だ。
頼るべき伯爵家にも見放され、国への請願も届かなかった。なぜ彼らがそこまで苦しまなければならなかったのか、やるせない気持ちに胸が締め付けられる。
「それだけでなく、民の外出を制限した結果、経済活動が弱まってしまった。当然、税収も目減りする。生家に頭を下げてお金を借りることもあったそうよ」
国からの救いはなく、伯爵家からの援助もない。
子爵夫人の生家は援助してくれたようだが、それにも限度がある。ここまで領地を保てたのは、幸運だったのだろう。被害を受けるのがあの街に限られていたことも、幸いした。
「詳細はまだ分からないけれど、ベント子爵家は相当節制をしていたようね。私財を投入してまで領地を保たせていた。
そのせいか、子爵は治療を行っていなかったそうよ。自分の身体を犠牲にしてでも、領地を守りたかったのね」
その言葉に、私はふとヘレンのことを思い出した。
子爵の体調について尋ねた際、私は「父なら相談に乗れる」と伝えていた。
だが、彼女は感謝の言葉を口にするだけで、助けを求めては来なかった。
きっと、金銭不安により頼めなかったのだろう。当の父親が、自身の身体より領地を優先していたならなおさらだ。彼女には融通の効くお金が無いのだから。
「これからは、ベント子爵領の復興へ国が助力することに決まったわ。何年も助けなかった上に国が見捨てるとあれば、貴族たちの反発を招くもの。当然の結果ね」
「ベント子爵家の要請を断った伯爵家は、どうなるのですか?」
「何らかの罰は受けることになるわ。魔獣騒動という重要な疑惑を国に上げなかったのだもの。
とはいえ、彼らは三度子爵領へ足を運んでいる。何もせず突っぱねたわけではないから、ある程度軽い罰になるでしょうね」
私の問いに、シアは苦い表情で答える。
たしかに、全て無視したわけではないのだ。きちんと現地に赴いている。その分の減刑は当然だろう。
そうと分かっていても、複雑な感情が湧き上がる。脳裏には、悲鳴を上げて逃げ惑う民の姿が思い出された。
「現状、判明していないこともあります。
請願書を握りつぶしたのは誰か、普通なら広まるはずの情報が知られなかったのはなぜか、魔獣を街に放ったのは誰なのか。このあたりは調査されるのでしょうか」
ルーファスがそう問いかけると、シアが「もちろんよ」と頷く。その上で、現在の国の見立てを教えてくれた。
「国としても、その三点は見逃せないわ。明らかに人為的なものが疑われるもの。
あなたたちが魔獣と対峙した際、最後に自害したのでしょう? 通常ならあり得ない話だわ。それだけでも、人間の関与を疑うレベルよ。
その上、請願書が握り潰されている。悪意ある人間が関わっているとみて、間違いないでしょう」
そう語るシアに、ルーファスは静かに頷く。
その上で、「可能ならば一つお願いしたいことがある」とシアに切り出した。
「お願い? あなたが私に願うなんてね。一体何かしら?」
くすりと微笑む彼女に対し、ルーファスの表情は変わらない。にこりとも笑むことなく、鋭い瞳を向けている。
「ベント子爵領から転出した民の行方を追っていただきたいのです」
「転出した民?」
「ええ、生死は問いません」
その言葉に、シアの指がピクリと動く。浮かべていた微笑みを消し、ゆっくりと目を細めた。
「問うたところで、意味はないでしょうから」
カチリ、と時計の針が動く音がする。
7年以上もの間、見捨てられてきた民。失われた時間が、再び動き出そうとしている。
ルーファスの一言を聞き、シアは席を立った。すぐに調べてくれるようだ。
それに合わせてお茶会もお開きとなり、私とルーファスは二人を玄関まで見送った。
遠ざかる背中を見つめながら、私は小さく息を吐く。皆が動き出しているのだ。私も、黙って見ているわけにはいかない。
幸いにして、この場には私とルーファスだけだ。このまま彼を連れて移動しても、誰にも不審に思われないだろう。
他ならぬ、彼自身にも。
「ねえ、ルーファス」
「何かな?」
こちらへ振り返る彼は、穏やかな笑みを浮かべている。
これからすることは、彼にとっても利益になることだ。私も、彼が着いてくれば有利に事を運べる。
「行きたいところがあるのだけれど、一緒に来てくれる?」
「もちろん、君が望むなら」
どこに行くんだい? そう尋ねる彼に、私は静かに微笑んだ。
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