松書房、ハイセンス大衆雑誌編集者、林檎君の備忘録。

中谷 獏天

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第27章 夢と妻と作家と。

1 良く有る夫婦。

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「お帰りなさいませ」
『あぁ』

 私がすっかり従順になったからか、彼は私に興味を示さなくなった。
 寧ろ、それどころか浮気をしている。

「コチラはどう致しましょうか」

『ぁあ、また悪戯で入れられていたんだろう、捨てておいてくれ』
「はい、畏まりました」

 日の出と共に起き用意した手弁当を、彼は口にしていない。
 今日は彼が苦手だと言っていた、ほんのりと甘い卵焼きを入れた、にも関わらず苦情すら無い。

『出汁巻きか、代わり映えしないな』

 ほら、彼は今日も口にしていない。
 彼の苦情により、甘い卵焼きを出す事は禁じられており、出せば必ず文句を言われるのだから。

 なら、中身はどうなったのか。

 最初は単に捨てられていたのかと思っていた、けれど空の筈の容器に、稀に何かしら入っている事が増え始めた。
 入れた筈の無い食べかけの甘い卵焼きから始まり、時に折り鶴や花、そして今回の様に菓子が入っていたが。

 全ては知らせず、時折こうして進言する程度に留めている。

 離縁したいのなら、さっさとしてくれれば良いモノを。
 彼は世間体と惰性、そして所有欲と嫉妬心のみで、私と夫婦で居る。

 情も無く、義理立ても誠実さも無い。
 虚偽や欺瞞のみで成立する、夫婦とは言い難い何か。

 ココは、地獄。
 大人しく彼を受け入れた日から続く、悪夢。

「では、次からは目新しいモノを加えさせて頂きます」
『いや、下手に不味いモノを食わされても困る。今日はもう下げてくれ、疲れた』

「はい、分かりました」

 どうせ、女と食事をしてきたのだろう、だからこそ夕飯にも禄に手も付けない。
 けれど怪しまれぬ様にとの思惑からか、夜伽だけは定期的に行われる。

 が、それすらもどうせ誰かの入れ知恵だろう。

 お互いに酷く苦痛なら、離縁すれば良いモノを。
 結局は世間体、離縁の労を惜しんでいるに過ぎない。

 手に入れる事だけ、手放さない事だけが、彼の望みなのだろう。

 あぁ、ココは本当に地獄だ。
 彼と一生を添い遂げるだなんて、悪夢でしか無い。



「と、そこでお目覚めに?」
「はい、悪夢でした、とても酷い悪夢」

《そんなに、僕との生活が》
「もう、寧ろ逆だと分かっているでしょう?」
「そうですよ、奥様はいつだって幸せそうなんですから。逆夢ですよ、きっと、これから良い事が有る逆夢です」

《けれど、僕は色男でも艶男でも無い、平凡で》
「私は好きですよ、お人好しが滲み出ている様な顔をして、腹にはドス黒い塊を持ってらっしゃるんですもの」
「作品もそうですよ、その滲み出る黒さが先生の良い所なんですから」

《けれど》
「もう、だからこそ林檎ちゃんが居る時に話したんですよ、こうして不安になられては困るもの」
「成程。大丈夫です先生、折角ですから糧にして下さい、奥様の為にも」

《コレを書く事で、君は幸せになるんだろうか》
「私、目覚めてアナタが執筆している背中を見て、心底安心したんです。少しでも情に流されていたら、少しでも諦めていたら、きっと悪夢の通りになっていただろうと」
「分かります、ご年齢を重ねる程、踏ん切りが付かず惰性で結婚を続ける方が多いそうですから。うん、先生も奥様も、既にかなりお幸せな部類ですよ」

《と言う事は、林檎君。妻に黙って、しかも異性に愛妻弁当を食べさせる輩が居る、とでも言うのかい?》
「幸いにも僕の周りにはそんな不誠実で気色の悪い者は居ませんけど、とある先生のお知り合いに居たらしいです。関東の味が珍しく、しかも美味しいと食べていたからと、交換していたそうで」
「あら、私なら股間をヤマタノオロチにしてしまいそうだけれど」

「ですけどお許しになったそうで、今では2人分の手弁当を仕込んでらっしゃる、とか」

 そこで先生は首を捻りました。

 分かります、僕もその奥方の真意を測りかねましたから。
 ですが、某先生はその謎こそミステリィだと言い、原稿を書き始めたのです。

「どうして、かしらね?」

《優しい妻、理解有る妻、良妻賢母と思われる為に行動している。かな》
「ふふふ、だからアナタが良いのよ、ふふふ」
「だとしても、得られるモノが少な過ぎると思うんですよ、損が多過ぎです」

 毎朝、日の出と共に起き、朝食とは別に手弁当を用意する。
 食材を揃える事は勿論、料理には手間暇が掛かる、毎日ともなれば慣れが有ったとて労は労。

 それが不誠実にも無碍に扱われ、欺かれ、果ては不義へと使われているかも知れないだなんて。

 僕は料理をしませんけど、あまりにも無念過ぎる。
 でも、某先生は清々しい程の笑顔だった、と。

「お料理が趣味、そうした社交辞令を真に受けたまま、なのかも知れないわね」
《しかも、その夫の方は既に何度か失態を犯している、つまりとっくに愛は無い。そして恨みばかりが募り、果ては死に際に復讐される》

「そうね、更に夫の好みの味付けに沿えば、夫に喜ばれ罪悪感も軽くなる。例え息の長い計画だとしても、例えどんなに優しい方でも、いずれ復讐は叶う」
「成程、長期計画だからこそ、なんですね」
《かも知れないね。うん、糧にしたいけれど》

「あ、その方の事は他の先生が既に執筆中でして」
《あぁ、だろうね》
「私はもっと、早く復讐が描かれるモノが良いわ?」

「ですね」

《林檎君、お昼を食べていかないかい?》
「はい!喜んで!」
「ふふ、今日は奮発しますから、楽しみに待っていてね林檎ちゃん」

 作家先生の奥様方は、実に先生のあしらいが上手いんですよね。
 書くだけに集中して貰う為の気配りを、手間暇を惜しまない。

 中には非常に無粋で無神経な方も居るので、その場合は会長に相談するんですが。
 思い出した頃には、既に解決している事が殆ど。

 一体、会長が何を言い、何をしたのか少し気になりますけど。
 中にはそのままの場合も有るので、僕ら下っ端はあくまでも相談のみで。

 ぁあ、油の匂いだ。
 天そばかな、それとも天丼だろうか。

 こう言う時、夫婦と言うモノに憧れるんですが。

《林檎君、ザッと流れを書いてみたけれど、ありきたり過ぎると思わないかい?》
「題材だけなら、そうかも知れませんが。先生が書くと印象が変わるんですし、試しにお願いします、きっと良い作品に仕上がりますよ」



 楽しい時間と言うモノは、あっと言う間に過ぎ。
 時に奪われてしまうモノだと言う事を、私は忘れていた。

『今の女は』
「友人も作ってはなりませんか」

 浮気による罪悪感からか、彼の嫉妬心は酷いモノとなっていた。

 出掛ける事は常に制限されていたが、誰かと話す事さえも制限され。
 彼の仕事場に至っては、届け物すら許されず。

 まぁ、浮気を悟られない様にするには、そうする他に無いのでしょうけど。

『お前が知らないのも無理は無いが、巷には百合娘と言う』
「浮気も何もしておりませんが、縁を切れと言うなら切ります、ですが理由をお伺いしても宜しいでしょうか」

『今は俺が尋ねている、関わる必要性が有るのかと聞いているんだ』

 では、ご自分の浮気の必要性を説明出来るのですか。

 いえ、無理でしょうね。
 他の女で行為を試した、だなんて、愚かで弱い男の発想なんですから。

「そうですね、有ると言えば有りますが、生き死にに関わるかと問われれば否。ですが、旦那様はそうした者としか関わらない、と言う事で宜しいでしょうか」

『あぁ、勿論だ』

 では、その女と一緒になれば宜しいのに。

 いえ、私が応援して差し上げなければいけない、と言う事でしょう。
 正妻の支えが無くては妾が持てない愚かな男だ、そう言う事なのでしょう。

「分かりました」



 どうせ、こんなモノだろう、と思っていた通り。
 若く可愛らしい、さもウブそうな、扱い易そうな女。

 私とは真逆な女。

《あの、何か》
「田舎から出て来て分からない事が多いのでしょう、ごめんなさいね、気が回らなくて。色々とご案内差し上げるわ、次の休日に百貨店へ行きましょう」

《あ、え、いえ。奥様は、お忙しいでしょうし》
「大丈夫よ、では2日後、銀座の獅子像の前で10時に。お仕事中にごめんなさいね、失礼するわ」

《は、はい》

 3年目の浮気を許せば、地獄を見る。
 彼もその言葉を知っている筈が、コレ。

 ウブだった彼とて、結局は阿呆な愚か者だったに過ぎなかった。

 何処まで、人を落胆させるのだろうか。
 何処まで愚かなのだろう。

 ぁあ何故、どうして私は受け入れてしまったのだろうか。

 もし、もしやり直せたなら。
 首を絞められた後、呆けたフリをし、折を見て家を出ていたなら。

 そう、コレは私の失敗。
 極楽浄土へ行く機会を投げ捨てた、私の落ち度。



『お前は』
「偉い方の中には妾を持つ方も居りますし、もしお選びになるならと、僭越ながらお声掛けさせて頂きました」

 彼とは洋食屋で待ち合わせ、昼食に女も連れて来てやった。

 愚かにも女は、妾にどうだと誘ってやったら喜んだ。
 そして彼は、すっかり着飾った女と私に、目を丸くした。

 隠れて遊ぶ楽しみを潰したけれど、この女が必要なのでしょう、アナタには。

『どう、知った』
「何が、でしょうか」

『いや、彼女の事を』
「ご挨拶に伺った際に目に留まりましたので、ですが、改めて調査すべきでしたら」

『いや』
「では、先ずはお知り合いになられてみてから、と言う事で。では、失礼致します」

 調査など、とっくにしてある。
 しかも仕事場ではすっかり噂が立っている事も、とっくに知っている。

 あぁ、一生、この愚か者達と付き合わねばならないなんて。
 ココは本当に地獄だ、悪夢でしか無い。
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