松書房、ハイセンス大衆雑誌編集者、林檎君の備忘録。

中谷 獏天

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第23章 縁と作家と担当と。

病と霊。

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 いつの事かは明言は避けるけれど、依頼者はご両親。
 相手は息子さんだった。

『急に、こうなってしまい』

 父親が戸を叩き、その部屋に入ると。
 彼は細く弱々しい体躯で、何とか机に向かい座っている様な状態だった。

「ひっ!」
《驚かせてすまないね、君の相談に乗りに来た者だよ》

「一体、誰からそんな事を」

《君のご両親、そう名乗る方々からだよ》

 その言葉に、彼は先ず爪を噛み始めた。

《また、そうやって》

 彼は母親の声に肩をビクリと震わせると、周囲を見渡し。

「おかしいと思われるのは百も承知です、ですがココには、本当に悪霊が居るんです」
《ほう、その悪霊は何をするんだい》

「大抵は、呻き声です。高かったり低かったり、どうやら2体、居るらしいんです」

 彼は真剣そのものだった。
 そして実際にも、確かに霊は居る。

《他には何か有っただろうか》

「はい」

《疑っているワケではないんだ、君がどの程度見え、聞こえるかの確認も兼ねているんだよ》

「眠っていると、飛び起きる程に大きな音が鳴り響いたり」
『それはいつ、良く起こるのかな』

「夜明け前や、僕がうたた寝をしていると、鉄製の鍋の様な物を叩く大きな音が鳴り。僕が立ち上がるまで、その音は止まないんです」
《なら、立ち上がれば音が止む》

「はい」

《他には》
「急に何かに掴まれたり、激しく揺さぶられたり、場合によっては本が飛んで来る事も有るんです。そして、その前触れには必ず呻き声が聞こえるんです」

《成程、何か怪我は?》
「大きいモノは無いんですが、いつの事かは分からない痛みが、気が付くと背中が痛い事が多いです」

《少し見せて貰えるかな》
「はい」

 その背には、明らかに何度も棒や何かで叩かれた跡が有り。

《どんな痛みだろうか》
「今は、ヒリヒリします、何かに叩かれた後の様な痛みです」

《コレの前触れは有るんだろうか》

「それが、覚えていないんです。あの大きな音で目覚めると、痛みが有り、何か有ったのだなとしか。すみません」
《いや、他には有るかな。食事や風呂の邪魔は》

「いえ、食事や風呂、厠や勉強に関しては何も。偶に呻き声は聞こえますが、少しだけですから」

《けれど、怖かったろう》

「はぃ」

 彼は震えながら泣き始め、そのまま蹲ってしまった。

《嫌な事を思い出させてすまないね、少し休んでいておくれ》

「でも、またあの大きな音が」
《大丈夫、僕が居る間は何も無い筈だ、もし有れば直ぐに僕に言ってくれ。何とかする》

「はい」

 警戒されてはいたが、彼は素直に頷き、ベッドへと横になった。
 それを見届け、俺は部屋を出て、そのまま廊下で両親と話し合う事に。

『ウチの子に、この家に何か悪霊が居るのでしょうか』
《アレは、世に言う心霊現象、西洋のポルターガイストですよね?》

「少なくとも彼は、そう思っていますね」

『なら、ウチの息子がおかしいとでも』
《もし、仮に、アナタ方に急に霊が見える様になった場合。いきなり何事も無く振る舞えますか》
《確かに最初は驚くかも知れませんよ、けれどもあの子はもう、何週間もあのままで》

『どうにかして頂けませんか、たった1人の息子なんです、お願いします』



 ウチの息子は前から少し軟弱者でした、食が細い上に好き嫌いが激しく、今でも手を焼いている程。

《ですから良く煮て、西洋のスープなる物にして、何とか食べさせている状態なんです》
『そう健やかにと、様々な事をし、ここまで手塩に掛けた息子なんです』

 言葉の覚えも遅く、当然の様に字の覚えも遅く、妻と共に根気強く教え続け。
 何とか学校へは通わせていたんですが、繊細で気難しい子でして、直ぐにも通う事が難しくなり。

 こうして家で西洋式の勉学法も取り入れながら、何とかやって来たんですが。

《もしかすれば、あの子にとっては、少しばかり負担だったのかも知れません》
『ですが私達は愛情深く育てて来たつもりです、ですからおかしくなる筈は無い』

《どうか悪霊を追い払い、息子を元通り、マトモな子に戻してやって下さい》

《はい、出来るだけの事をさせて頂くつもりですので、どうかご安心下さい》

 だが、もし、息子が元に戻らなければ。
 この男のせいにすれば良い。

 霊能者のせいで、おかしくなったのだ、と。



『あら、神宮寺さん』
《どうも、何とかココに来れましたよ、トメさん》

『本当に、やっと』
《早速ですが、彼は何か薬を飲まされていませんでしたか、有ればその残りをココに持って来て下さい。複数有るなら全て、お願いします》

『はい、ただいま』

 私は所謂、掃除婦、家政婦で生計を立てております。
 この界隈も、結局は年功序列、それと評判が何よりも大事な事ですから。

 私は、大概の家の事は見逃してきました。

 夫に虐げられながらも働く苦労を知らないから、と甘んじる妻、妻の暴言に耐え切れず逃げ出す夫。
 虐げていた子に虐げられる様になった母親、父親、祖父母。

 ですけど皆さん、必ず何処かに逃げ場は有るんです。

 実家、友人知人の家、妾や愛人の家。
 職場、飲み屋や店先、子供でも学校や寺子屋が有る。

 ですけれど、坊っちゃんの心が穏やかになれる場所は、何処にも無いんです。
 逃げ場も夢中になる事も、全て、坊っちゃんには無いのです。

 このままでは、いつか坊っちゃんは死んでしまう。

 ですので、僭越ながら、一家政婦が出しゃばってしまいました。
 本当はいけませんよ、他人様の家の事には何かしら理由が有る、ですから本来なら決して口も手も出してはならない。

 犬も食わぬ事で馬に蹴られて死んでしまっては、元も子もありませんからね。

「あ、トメさん」
『お坊ちゃま、神宮寺さんが来て下さいましたからには、もう大丈夫ですよ』



 彼に見えている霊の数、影響の度合い。
 そうした事を念入りに調べる事、数刻。

《確かに彼には悪霊が見えています、その影響も有るのでしょう》

《あぁ、やっぱり》
『それで、息子は』
《お元気にもできますが、本当にそれで宜しいんでしょうかね、少し扱いが難しくなってしまうかも知れませんが。塩梅は、どの様にしましょうか》

 彼ら彼女達の喉が、ゴクリと動いた。

 扱い易い子供を望むのが親の常。
 ましてやこう良い家なら、是非も無い事。

 但し、一切の情愛が無いか、相当な子供だったか。
 コレは親の答え方次第で分かる。

 そして、口火を切ったのは。

『あの子の良さは、優しく繊細な部分にも有ります、どうか損なわない程度で。どうか、宜しくお願い致します』

《はい、では、今日から2日だけ頂けますか。必ず、程良い塩梅に、息子さんをお元気にして差し上げます》
《はい、勿論、2日位なら良いわよね?》
『あぁ』

 察しの良い林檎君なら、彼が本物か偽者かが分かる筈だけれど。
 どうだろうか。



「あの、両方の可能性は無いんでしょうか?」

《そう君の様な柔軟な者が、周囲に居たなら、こんな事にはなっていなかっただろうね》

「ん?となると」
《時に黒い影の様に、時には氷の様に歪に透明であった、そうだよ》

「神宮寺さんには、どう、見えていたのでしょう」

《以前は人と全く同じに見えていましたけど、殺生石のお陰も有って、幾ばくか透けて見えるんです。その硝子に映る虚像の様に、なので硝子に映る姿は、偶に見間違えてしまうんですよ》

「成程、実際に居た、と」
《居るであろう、どころか、寧ろ居てくれなくては困る。そう思う様な者の家には、当然、現れてしまう》



 僕には、様々なモノが見えていました。
 そして、見えなくなってしまったモノも有りました。

「あの、1つ、お伝えしなければならない事が有ります」

《君のご両親の事だね》
「はい、既に両親は、鬼籍に入っているらしく。他の霊と、区別が付かないんです、やはり葬儀に僕が参加しなかったからでしょうか」

 僕は両親が亡くなったと聞かされた直後に倒れ、葬儀には出られない程に衰弱し。
 起き上がれる様になった頃、霊が見える様になってしまいました。

《そう、亡くなったのは、いつの事かな》

「分かりません、その当時は日付も曖昧だったので、分かりません」

《訃報は、誰から聞かされたのかな》

「伯父です、父の兄でらっしゃる方から」

《から》

「もう、アレは処分する、と」



 富豪の処分、とは、決して覆る事は無い。
 彼らは除籍や廃嫡、若しくは行方知れずと言う形で、必ず処分される事になる。

「成程、つまりは御子息は両親から酷い躾けを受けていた。その開放からの安堵で欠神、そうして病に臥せってしまっていたんですね」
《あぁ、その様子から、後継ぎ争いから退いていたご長男が更に手を回し始めた。その魁にと、僕も関わらされたワケだ》

 トメさんが寄越した使いは、まさにご長男だった。
 甥の為に家に入り、動いて欲しい、と。

「では、霊は?」

《居ましたよ、4体》



 私は、今まで霊だ何だとは皆無でした。
 ですから、酷く驚きました。

 坊っちゃんしか居ない筈の部屋から、怒鳴り声と鍋を叩く音がし。
 慌ててお伺いに向かうと、鍋が目の前に落ちて来たんですから。

 はい、嘗てのご両親がそうしてらっしゃったのと同じく、夜明けと共に何者かが坊っちゃんを起こそうとしていたんです。

「ぅうっ」
『坊っちゃん!』

 そうして魘され始めたかと思うと、急に体を跳ねさせ始め。

「ごめんなさい!」
『坊っちゃん!目をお覚まし下さい!!』

 まるで以前の様に、棒やベルトで打たれている時と同じ様に。
 何度も何度も坊っちゃんは体を捩ると、何度も何度も謝り始め。

「ごめんなさい、もう起きますごめんなさい」
『坊っちゃん!起きて下さい!ご両親は、もう』

 もう、ほんの少し前に、私と本家のご長男様とで亡骸を確認しにいったいのです。
 暴漢に襲われ、お2人は川に落ち、そのまま。

 神宮寺さんが来て、3日目の夜の事でした。



《どうしまっ》

 ハッキリ言って、嵌められた。
 2体の浮遊霊が居るだけ、だった筈が。

『坊っちゃんが、坊っちゃんが』

 本家筋の長男は、甥の両親を殺させた。
 そして両親は死して尚、子へと執着し続け。

 不気味な笑みを浮かべながら、息子を罰し続けている。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 自分達は正しい行いをしている。
 この厳しさは仕方の無い事、子の為を思っての善行だ、と。

 下手な悪霊以上に、質が悪い。

 同じ階級でなければ、子が居ない者は分からず屋だ、そうとしか思えない者達を説得など。
 例え高僧でも、いや、空海や三蔵法師の言葉でも聞いたかどうか。

 『邪魔をしないでくれないか』
 《子供の居ないアナタには分からないでしょうけれど、コレは子の為なの、私達だって辛いけれど仕方が無い事なのよ》

 両親は交代交代で見張り、夜明けと共に息子を叩き起こし、勉強をさせ。
 うたた寝をすれば、父親がベルトで鞭を打ち、父親が仕事で居ない時は母親が警策で何度も打ち付けた。

 長男は、そんな両親と縁を切らせたかったのだろう。
 どちらの意味でも。

「ぅう、ごめんなさい、ごめんなさい」
《目を覚まし、良く見なさい》



 神宮寺さんの声で、僕は不意に目を覚ました。
 けれど、目の前にはハッキリと姿を現している、両親の霊が。

「ひっ」
《彼らはもう亡くなっている、怯える必要は無いんだ、ハッキリ言ってやりなさい》

「で、ですけど」
《これから先も、彼らと縁を繋げている意味は無い、しっかりと縁切りを宣言しなさい。お互いの為に、楽になる為に、縁を切りなさい》

 僕は少し前まで眠っていたので、何処かが朦朧としていました。
 けれども他がハッキリしていました、本当に両親は亡くなってしまっている事と、縁を切るべきだと言う事はハッキリ分かっていました。

「さようなら、お父様、お母様」

 そう言ったからか、ふと体が軽くなり、また僕は寝込んでしまいました。
 そうして夢心地のまま、僕は神宮寺さんの声だけは、姿だけはハッキリ分かっていました。

 とうとう包丁まで持ち出した両親から、僕を守ってくれたんです。
 身を挺して、必死に。

 そこにはトメさんも、伯父さんも居て。

 あぁ、僕は守って貰っている。
 お礼を言わなければ、まだ死んではいけないんだ、そう思いました。

 はい、実は僕は、産まれて来なければ良かったんじゃないかと思っていたんです。

 父も母も、自分達も辛いと言いながらも。
 笑みを噛み締めながら僕を打っていた事を、硝子に写った姿で見てしまい。

 以降、いつ死んでしまおうかと、そうずっと悩んでいたんです。

 そんな時、伯父から両親が処分される事を聞かされ。
 僕は倒れ、記憶も何もかもが朦朧としてしまった。

 それには別の要因、両親が僕へ薬を使っていた事も相まって。
 僕は霊を見ていたんですが。

《もう見えないだろう》
「はい、お陰様で」

 様々な要因で見えていたモノは、すっかり見えなくなっており。
 どうしてか家の中も、酷く明るく見える様になっていたんです。

《もう見える事は無いだろう、ご両親が引き受けてくれたのだから》
「本当に、ありがとうございました」
『本当に、何時でもお掃除の事はお申し付け下さい、3回迄ならタダでして差し上げますから』

《いずれ、では》
「はい」

 以降、僕は叔父と住む事になり。
 その事も、実は僕を悪霊から引き離した要因では、と思っています。

《そろそろ寝なさい》

 伯父は変わり者で、女装家で男色家。
 ですが、それがとても似合っている方で、僕は最初女性かと思っていた程でした。

 そして、だからこそ両親が酷い躾けに走ってしまったのかも知れない、そう謝罪して下さり。
 次は僕へ家を継がせようとまでしてくれている。

 本当は優しく、賢い人なんです。

「寝かし付けを、お願いしてはいけませんでしょうか」

 狡賢く生きなさい、そう伯父に、最初に教えられました。
 なので僕は、狡賢く生き様と思っています。

《何か怖いのかい》
「人に、慣れておきたいんです、触れられる事にも、褒められる事にも」

《君は賢い子、君は良い子だ、ゆっくりおやすみなさい》

 伯父の手は大きく、柔らかく、冷たい。
 そんな手が酷く落ち着くんです、本当に有る、生きている優しい手なんです。
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