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第16章  霊能者と霊能者。

恋愛指南書と休職者。

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『いや、そもそもあんな恋愛指南書を真に受ける方が馬鹿げているんだ、僕は女性の味方だと公言して何が悪い』

 コレです。
 僕が外に出ないワケは、こうした事なんです。

《ほう、では君からの指南を聞きたいものだけれど、ある種の秘伝とも言えるだろうし。難しい事だろうね》
『いやいやいや、三井君になら勿論言うよ、君は僕の親友なのだから』

 コレです。
 僕が外に出ないワケは、こうした事に興味が向いてしまうから、なんです。

《ありがとう、河合君》

 多少は外に出て、陽の光を浴びるべきだ、多少は出歩き足腰に刺激を与えるべきだ。

 心身共に健やかさを保つ為には、かくあれ。
 国民たるもの、常に健康促進に気を付けるべし。

 であるからして、僕は近隣の公園等を一回りし。
 昼食にと、こうして蕎麦屋に来たんですが。

 僕は、やはり時と事情によるだろう、そう思いました。

『それで、先ずはどうした事が聞きたいんだろうか』
《それは勿論、最初からだよ。いや、恥ずかしい事だけれど、僕は実に初心者でね》

『そうかいそうかい、なら、最初から……』

 未だに雑誌社に在籍している以上、僕はこうした事から興味を逸らせないのです。
 しかも人の為、国の為になるだろうと思えばこそ。



「申し訳ありません、楽しく拝聴させて頂いておりました、林檎と申します」

 どうして、彼は僕に声を掛けたのだろうと思った。

 既に河合君は居らず。
 僕は独りで蕎麦がきぜんざいを食べており、聞いていたなら河合君に名乗るべきだろう、と。

 ただ、彼は敢えてなのかも知れない、とも思った。
 僕を繋ぎに使い、件の彼の指南を本にでもするのか、と。

『あぁ、はい、何か』
「三井さん、でらっしゃいますよね?」

『はい、そうですが』
「どう思われましたか、彼の文言」

 僕は、どう答えるべきか非常に悩んだ。
 河合君は僕の友人。

『そうした考えも有るのだな、と』
「アナタはただ相槌を打って、彼の話を聞いていた、納得はされていましたか?」

 僕より幾ばくか年下だろう。
 そう思っていたけれど、もしかすれば、彼は僕より上なのかも知れない。

 なら、ココは正直に言うべきかも知れない。
 まかり間違って仕事先にもこの事が伝わり、果ては縁談が持ち込まれ無くなってしまう、そうした事だけは本当に避けたかった。

『はい、幾ばくかは、生憎と初心者ですから』
「実は僕もなんです、それでふむふむ、とつい聞き耳を立ててしまっていたんですが。とても納得し難く、ふとアナタの顔を見た時、同じでらっしゃるかも知れない。そう思ってお声掛けをさせて頂いたんです、僕ら用の指南書が有れば、と」

『ですが、そうした業界の方なら、良くご存知かと。昨今には、様々な指南書が有りますから』
「そうした物の殆どは、恋愛病者の為に恋愛病者を量産する為の本、だと僕は思っています」

『ほう』
「酷く言ってしまうと、餌食を作る為の指南書、餌食にさせられてしまう指南書だと」

『けれど、中には良い本も有るかと』
「確かに中には秀逸な物も存在しているそうですが、僕には酷く堅く思えて、しかも殆どが男性だ女性だと分けている。幾ら中身が良くても、体裁が難解そうである限り、広まる事は難しい」

『確かに、より良く広めたいのなら、相応の体裁を保つべきだと思いますが』
「はい、ですので先程の件に関し、先ずはアナタのお考えを聞けたらなと」

『構いませんが、僕は河合君との友情を壊したくは無いんです、ココでは勘弁してくれないでしょうか』
「あぁ!勿論です勿論です、お会計は僕が持ちますから、次へ参りましょう」



 思った通り、彼はしっかりとした仕事に就いてらっしゃる方で、副業としての作家業は難しそうでした。
 ですが。

『正直、1つ1つ、詳しくは覚えていないんですが』
「1つ、年に2回、又は陽気の変わり目毎に女に惚れる様にと努力すべし」

『あぁ、書き留めてらっしゃったんですね、成程』
「すみません、えへへ」

『いや、有益だと思えばこその事かと』
「はい。ですがどうにも、納得を得難く、ご友人ならお分かりになるかと」

『正直、非常に難解でしたね。要は惚れっぽくなる練習からだ、と、ですが何でも良いと言うのも違うと思うんです。僕はどう見極めれば良いのか、それを得たくて、最後まで聞いていたんです』
「はい、僕もです、しかも彼の語り口は非常に聞き易いものでしたから」

『けれども、出来るなら僕は一生涯に1度で良いと思うんです。何度も何度も恋をしている、と言う事は、つまりは何度も見極めに失敗していると言う事』
「仰る通りです」

『僕としては寧ろ、四季咲きの花の様にただ咲かせるより、その先に実が成る方が良い』
「はい、ご尤も、僕なら何度も花を手折られたくは無いですから」

『全くです』
「次に、良い所だけを先ずは良く探し、それら他は一旦は無視する」

『良い所を探す、だけなら、良い事だとは思うんですが。先ず、目指すべきは調和、かと。無理の無い付き合いこそが……』

 僕は、彼に作家先生になって頂きたいな、と思いました。
 初めてだったかも知れません、彼は書くべき人だ、そう思ったのは。



『おぉ、林檎君、とうとう禁断症状か』
「あ、鈴木さん、否定し難いですが。別件です、ふふ、では」

 林檎君が向かった先は、文化部。
 もしや彼は、他部署に転向してしまうんだろうか。

 それは困る、非常に困る。
 ただでさえ、ウチの繊細な先生方と円滑で円満なやり取りをするのは難しいと言うのに、和を保てる林檎君に抜けられては困る。

『二瓶君、緊急事態だ』

《鈴木さん、一体何です?》
『林檎君が文化部に転向してしまうかも知れない、先程会ったんだが、文化部へ向かっていたんだ』

《あらー、反抗期でしょうか》

『そんな呑気な』
《鈴木さん、少し神経が研ぎ澄まされ過ぎじゃないですかね?あの林檎君ですよ?物語から切り離したら死んでしまう妖精の生まれ変わりなんですから、無いです、無い無い》

『だが嬉しそうに原稿を抱えて向かって行ったんだよ』

《少し、追々、偵察に行って参ります》
『頼んだ』



 心配し過ぎだ、とは思うんですが。
 時に勢いの有る子は、酷く振り切れる嫌いがあるので、全くもって油断は出来無いとも思いますし。

 はい、私も不安になりました。

 奥様がいらっしゃる先生方は良いんですが、婦女子は穢れる、と女性担当者を忌避する方もいらっしゃいますし。
 単純に相性が悪い、そうどうしようも無い理由も有りますし。

 はい、困ります。
 林檎君に抜けられては、非常に困ります。

《どうも、二瓶です、お菓子のお裾分けに参りました》

『あら、あらあらあら、そんなにあの子を取られたら困るって言うのね?』
《そうなのよぉー、一体全体、どうした事で?》

『ふふふ、お茶を淹れてくれたら、ね』
《任せなさーい》

 この女編集長は、私の弟のお嫁さんの従姉妹。
 いや、世間は狭い、そう実感させられた出来事でして。

『ありがとうございます、あ、茶柱』
《いえいえ、茶柱立て一級建築士の資格持ち、ですからねぇ》

『ふふふ、そんなお姉さんが心配しているなんて、もう少し眺めていようかしら』
《意地の悪い子だ、他の子達に菓子を配り歩きながら、情報収集してしまいましょうかねぇ》

『それは困るわぁ、好きなの、このお菓子』
《でしょう》

『ふふふ、本業でない方の言葉を書き起こして、原稿として持ち込んで下さったの』
《なのに、文化部?》

『えぇ、文化部に』

《んー、一体、何を発想したのやら》
『ふふふ、恋愛指南書よ』

《おぉ、妖精さんだとしか思っていなかったんですけど、やっぱり林檎君も男の子でしたか》
『それがね、酷く出来が良くて、色々とお願いする事にしたの』

《流石林檎君》

『だから姉さん、あの子を』
《駄目ー、だめ、ダメでーす。じゃーねー》

『もう、いけず』

 会長からは目が良いから入れた、とお伺いしていて。
 実際にも、色調や色の目が良く、てっきりそこかと思っていたんですけど。

 だけ、では無かったと言う事ですね。

 会長って凄い。
 どうしたらそうなれるんでしょう。

《号外ー、号外だよー》
『お、二瓶君、どうだった』

《林檎君の目は、どうやらピカイチ、みたいですねぇ》



 ふと、いつもの蕎麦屋で蕎麦を啜っている時。
 林檎君と出会った時の事を思い出した。

 結局彼は年下で、結局彼は指南書の発行を目論んでいた。

 但し。
 僕の考え、僕の文言で。

 けれど、下地にさせて貰った河合君とも、相変わらず縁は途切れてはいない。

 僕は顔も出さず、本名も出さず、相変わらず会社に勤めているからだ。
 けれども、作家としても、夫としても生きている。

《アナタ、何か歯に挟まってしまいました?》
『いや、僕は非常に恵まれているな、精進せねばならないな。そう思っていたんです、あの林檎を見て』

《ふふふ、本当に林檎がお好きですね、ふふふ》

 手折った花の標本を集める者には、きっと僕らは酷く退屈な夫婦だ。
 愛憎に身を引き裂かれそうな思いもした事は無く、花火の様に美しくも身を焦がす様な思い出も無く、華厳の滝の様な人を惹き付けるだけの激しさを知らない。

 けれど、そうした話題は僕も妻も、嫌いでは無い。

 ただその中で生き続けるのは苦だろう、それが僕達に共通している認識だ。
 全くもって御苦労千万だ、どうぞ遠くの方で、僕らの知り合いにも関わる事無く行っていてくれ。

 僕らは、不意に庭で飛び回る蝶や蜻蛉を見るのが好きだ、河川敷で見上げる花火が大好きだ。

 ただ、その蝶や花火になりたいかと問われると。
 僕らは、人でありたいと思う。

『面白い、美味しい、それらが酷く愛おしいよ』
《ですね》
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