ヴィティスターズ!

独身貴族

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夢小説風味 ヴィティスへようこそ!

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ふい~、疲れた~。

すっかり暗くなった街を、一人急ぐ。
歴史的建造物が多く残るこの街では、街灯も年季が入っており、1メートル先を照らすのもやっとだ。

もう少し先まで行けば、住宅地があったり、飲み屋街があったりして明るいんだけどな~。
この辺は、夕方で営業を切り上げる企業ばかりで、閉められたシャッターの前を歩くのは、なんかさみしい。

今の会社に入って一年。この街に赴任して、約一ヶ月。
ようやく新しい生活にも慣れてきた。
今日は定時にあがれたことで、ちょっと気分が浮いている。
おまけに一昨日、給料日だったばかりで、財布も暖かい。
ついつい、なんか美味しーものでも買って帰ろうかな~なんて気になる。
そういえば、この間買ったグリューワインが残っていたっけ。
私は冷蔵庫の中を想像しながら、手をこすり合わせる。
それにしても、この時期、夜になると冷えるな~。
マフラーを巻く季節でもないけれど、今はさすがに恋しい。
買い物をしようと思ったが、やっぱり変更。
早く家に帰って、部屋を暖かくして、ワイン飲みながら録画していたドラマでも見よーっとな。

暗い道はまだ続く。
だんだん急ぎ足になるのは、寒いからだけじゃない。
今日は特に街がひっそりと静かに感じてしまう。
別に、暗いのが怖いわけじゃないんだけど……
この土地は、そう治安がいい方ではない。昨日も新聞に、傷害事件の報道が載っていた。
暗い夜道を一人で歩くなんて、犯罪の格好の餌食だ。
ほら、今も、そこの角から、ナイフを持った男が――
……やめた、やめた。おしっこちびりそう。

この街灯にしても、いつか消えてしまいそうで、心細い。
真っ暗になった道で明かりといえば、夜空のお星様だけ。
……全く頼りない。しょぼん。
気分を変えるため、いつもと違う道を選ぶ。
ちょっと遠回りになるけれど、こっちのほうがやや明るいのだ。

活気のある飲み屋街のある通りまであと少し。
その時、一軒のあかりの灯る店が目に入った。

小洒落た店先で派手な看板もなく、小さなビルの一階を改装したようだった。
たぶん、レストランかバーの類だろうな。
でも。

こんなところにお店なんかあったっけ。

あんまりこの道は使わないから、もしかしたら見落としていたか、つい最近、出来立てほやほやの店なのかもしれない。
暗い夜道の中だからか、そこだけ余計に明るく、暖かく見えた。
私は足を止める。
こういうお洒落な店、結構好きだ。
ヨーロッパ風のカフェがあったら、ついつい入っちゃう、そういう人種なのです。はい。
おまけに最近忙しくて、外食することもほとんどなかった。
私の中で、入りたい欲求がぐんぐん膨らむ。
……ちょっとだけなら、いいよね? ね?

……。

私はドアに手を掛けようとして、引っ込める。

……やっぱり、やーめた。
いくら給料日後だからって、すぐに使っちゃったら勿体無い、勿体無い。もっと大事にね、貯金しとかないとね。
ばいばーい、また今度ね。
私はお店の明かりに別れを告げ、歩き出す。
と、その時。

「やあ、入らないのか?」

突然、背後から声をかけられた。
私は慌てて振り向き、身構える。
スリか? 不審者か!? ドロボーか!!?
「あー、驚かせてしまったのならすまない。謝るよ。
ところで、その構えはなんだい? ジュードー? カラテ?」
私の構えを見て、声をかけた男性がホールドアップし、苦笑する。
「あ、いえ、コレはなんでもないです。キニシナイでくだサイ」
私は恥ずかしくなって構えを解く。
「じゃあ、私はこれで……」
いそいそと立ち去ろうとすると、なおも呼び止められる。
「よかったら、店に寄っていかないか? 気になっていたんだろ」
「いえ、そういうわけではなくて……」
いや、そうなんだけども。
なんとなく気恥ずかしくて、口ごもってしまう。
逆に不審者に思われてないよね……?
「用事があって急ぐのなら、無理には引き止めない。
だが、もし、時間があるのなら、なにか一杯、ご馳走させてくれないか」
……?もしかして私、誘われてる??
「中は暖かいよ。今日はいつもより冷えるからね。ほら、君の手も……」
急に手に触れられて、私はびっくりする。
大きくて暖かい手……じゃなくてだな、おい?!
「手も冷たくなっている。どうかな、一時間だけでも、ゆっくりしていかないか?」
相手はそのまま、店の中へ連れて行こうとする。
ちょっと、お兄さん、強引じゃないですかい?
おーーい!

ちょうどタイミングよく、店のドアが開く。
「あれ、カベルネ、店の前で何してるの?……そちらの女性は?」
中から出てきた温和な顔つきの男性が、目をパチパチさせながら尋ねる。
「あ、いや、その、つまり、店の前にいて、入りたそうにしていたから、中へ案内しようと思って声をかけたんだ。それだけだ」
温和そうな男は、私と男とを交互に見る。
「ふうん。手を繋いでいるから、てっきり……」
「いや、これは、その、違う」
慌てて解放された私の手が、外気にされされ、一気に体温を失う。
うへえ。やっぱり寒い。
「まあ、何でもいいけれど、せっかくだし、中に入ったらどうかな、お嬢さん(マドモアゼル)」
男性が私に笑顔を向ける。
「この男に声をかけられて、ビックリしたかもしれないけれど、悪い奴じゃないから許してあげて。
ね、ちょっとだけでもいいから、入っていきなよ」
うう、こんなぽかぽかした笑顔で誘われたら、断りにくいじゃんか……。
どうしよう。入っちゃおうかな。
このまま帰っても、ひとりぼっちだしな……
「……じゃあ、せっかくだし、お邪魔します……」
「そうこなくっちゃね。さ、中へどうぞ、マドモアゼル」
男性は太陽のようにぱっと笑うと、私が入りやすいよう、店のドアを大きく開けた。
「ようこそ、ワインバー「ヴァン・ヴィーノ」へ!」

「いらっしゃいませ」
店に入ると、落ち着いた、しかし張りのある声が迎えてくれた。
カウンターを見ると、店員が三人、にこやかな笑顔をこちらに向けている。
「中は暖かい。上着を預かろう」
先に声をかけてきた男にコートをやんわりと脱がされ、自身の着ていた上着と一緒に、ハンガーにかけられる。
「おいおいおい、そりゃ俺の仕事だろうが」
「おっさんは動くのが遅いんだよ」
カウンターの中で髭の男性が噛み付くように言うと、隣で別の男性がぼやく。
「お前も動け」
「はいはーい」
席はカウンターに7席、奥にテーブル席が二卓。
客はどうやら中から出てきた温和顔の男性と、今入ってきた私たちの三人だけのようだ。
「奥の席の方が暖かい。どうぞ、こちらへ」
コートをかけた男が、慣れた様子で奥の席へと私を案内する。
「ありがとうございます」
椅子とカウンターの間に入ると、自然に椅子を押してくれた。ワオ、紳士。
よくお好きな席へどうぞっていうのあるけど、あれホント困るんだよね。
さっきみたいに、優柔不断なところが出て、うろうろしてしまう。
紳士――さっきカベルネって呼ばれてたな――は、私の隣に座ると、こっちに視線を投げかけた。
「さて、シニョーレ。まず一杯目は――」
髭の店員の言葉をかき消すように、店のドアが騒々しく開く。
「ぶっは、寒かったー! ふいー、中あったけー」
やや癖のかかった金髪の男が腕をゴシゴシ擦りながら入ってくる。その後ろから、黒髪の男も続いてご入店。
ちらと彼らを見て、私はひるんだ。
店先で会ったカベルネという男も、なかなかに顔は整っている方だった。
だが、今入ってきた二人は、それとはまた違った輝きを持っていた。
特に黒髪の方は、全く飾り気がないのに、遠目でも見とれてしまいそうな美人だった。
金髪の方が私に気づくやいなや、ぱっと顔を輝かせ、ずいずいと近づいてきた。
「おっと、これは失礼。こんな可愛い先客がいたなんてな。カッコ悪いとこ見せちまった。
アンシャンテ、マドモアゼル(ごきげんよう、お嬢さん)。俺はシャルドネだ。以後お見知りおきを」
急にきりっと態度を変えると、恭しくお辞儀をした。
「ほら、ピノも」
シャルドネが後ろへ目配せすると、黒髪も近づいてきて挨拶をした。
「はじめまして。ピノ・ノワールと申します。どうぞ、よろしく」
美人さんは長い睫毛を伏せ目にし手を差し出してきた。
握手かな。
そう思って差し出すと、その甲に接吻された。反射的に、私の身が強張る。
「あ……よろしく、こちらこそ、デス」
なんだかたどたどしい返事をしてしまった。
すると、シャルドネがくすりと笑った。
「緊張してる? あんまり気を張らなくていいぜ。自分の家みたいにさ、もっと寛いでくれていいからな?
バーってのは、そいういうとこだろ」
カベルネとは反対側の席に座りながら、人懐っこい笑みでウインク飛ばしてきた。
「お前が言うなよ」
俺の店だぞ、と髭の店員が笑いながらたしなめる。
「お前は逆に砕けすぎだ。初めて会った相手に対して、取る距離じゃない」
カベルネは私を挟んで、ウィンクくんの言動をたしなめる。
「あー出たよ、真面目の代名詞。もー、そんなんじゃモテないぞー? カベルネ。
カッチカチに話なんかしてたら、女の子が退屈がって逃げてくぜ?」
「余計なお世話だ」
そう返すカベルネも、少し笑っている。それで、自分の緊張も解けた気がした。
「実は、こういうお店、あまり入ったことがなくて。どう振る舞っていいか、わからないんです」
私は白状した。
「決まりなんてない。最低限のマナーさえ守ってくれれば。他の店と一緒ですよ」
シャルドネの隣に座ったピノ・ノワールが、言葉を挟む。
「そゆこと。でもさ、ちょっと言い方キツいよな、ピノ様」
「そうか?」
と、会話をしている間に、ふたりの前にワインが用意される。どうやら二人は常連らしい。
同様にカベルネの前にも、ワインが出される。
「そういや、これは誰の?」
シャルドネが目の前にある元から置いてあったグラスを指すと、カベルネの隣に座った温和顔の男性が手を挙げる。
「あ、それ僕の」
「もしかして、ここ座ってた?」
「みんながまだ来る前にね。気にしないで。グラスだけもらおうかな」
「オーケー」
すー、と私の前をグラスが滑っていく。それを男性は上手く止める。
「危ないことするなよ」
「あんまし入ってなかったからいけると思ってさ」
わずかに入っていたワインが、淵ギリギリの線まで波打っている。よくこぼれなかったな。
「そういえば、俺もまだちゃんと名乗っていなかった」
カベルネは私の方へ体を向けなおすと、名乗った。
「カベルネ・ソーヴィ二ョンだ。おそらく何度か耳にしたことはある名だと思う。よろしく」
カベルネのむこうから、温厚男子も身を乗り出して名乗る。
「僕はメルロー。よろしくね」
私が、よろしく、と言うと、メルローはにっこり微笑んだ。
すると、私の前にグラスを置いて、髭の男性も名乗った。
「俺も便乗して自己紹介しとこうかな。ここの店長をしているサンジョヴェーゼだ。よろしく」
「カナイオーロでーす」
「マルヴァジアでーす」
髭の店員に続いて、他二人も自己紹介する。
「あの……」
名乗る間にてきぱきとグラスにスパークリングワインが注がれ、サンジョヴェーゼがにっと笑いながら、グラスを私へ進めた。
「私まだ、決めてな」
「サービスだ。一通り自己紹介も済んだようだし、みんなで乾杯しようぜ」
待ってたした、とばかりに自分用にグラスを出してきたカナイオーロとマルヴァジアに、意気揚々とサンジョベーゼはワインを注ぐ。
「ほらほら、グラスを持て」
「んじゃ、掛け声は俺が」
シャルドネが立候補する。
「新しい出会いに、」

「かんぱーい!」

全員、グラスを目の高さで掲げ、グラスを打ち合うあの儀式はせずに、そのままワインを口へ含んだ。
私もワインを一口飲む。
シュワっと口の中で泡がはじけ、喉に心地よい刺激を与えた。
「……美味しいですね、これ」
「おう、そうかそうか? イタリアのプロセッコだ」
サンジョベーゼが嬉しそうにワインのボトルを見せる。
「自分のワインじゃないのに、何にやけてんだよ」
「そりゃキャンティが褒められたらクソ喜ぶけどさ、イタリアワインが好きって言ってもらえる時点で、俺はめちゃくちゃ嬉しいぜ?
シャルドネ、お前もそうだろ。前にシャンベルタンを飲んでた客に、偉い相好崩してたじゃねえか」
「そりゃあ、まあ、嬉しいよ? ピノのワインが褒められてちゃあ」
「ほおー」
シャルドネの向こうでピノ・ノワールが意味ありげに目を細める。
「あんだよ、ピノ」
「別に」
シャルドネはピノに向かって鬱陶しそうに手を振る。
「二人共、ホント仲いいよな」
カナイオーロの言葉に、シャルドネが突っかかる。
「いや、今のどこら辺が」
「今のに限らず、よくじゃれあってるよね」
マルヴァジアも同意する。
「じゃれあう、というより、コイツがちょっかい出してくるだけだ」
ピノが呆れた風にため息をつく。
「なんだとー。お前も結構嫌がらせしてくるよな。夏場に俺のワインを外に3時間放置したり、グリューワイン作るっつって俺のに塩入れたり」
「あれはただ間違えただけだ」
ピノがしれっと言い返す。
「何をどう間違えたら白ワインに塩入れることになるんだよ!」
そのやり取りを聞いて、カベルネとメルローが肩を震わせて笑う。
「シャルとピノは充分仲いいと思うぞ」
「お前らほどじゃないけどな」
カベルネの言葉に、シャルドネは言い返す。
「カベソーとメルちんこそ、どこに行くにもいつも一緒じゃねえか。この間もお揃いのTシャツ着てたし? この間も仲良く二人でディナーしてるところ見たし?」
「一緒にいるのは仕方がない」
「仕事仲間だもんね」
カベルネとメルローは顔を合わせて頷き合う。
「ね、じゃねえよ。むしろプライベートの方が一緒にいるじゃねえか」
「僕たちは別に仲いいことを否定していないよ」
「そうそう」
「あー、さいですか」
シャルドネは不貞腐れながら、ワインを喉に流し込む。軽い調子でしゃべっているが、グラスを持つ仕草の一つも様になっている。
綺麗な人は何をやっても綺麗なんだよね……。
「次、何にする?」
マルヴァジアに声をかけられて、私はふと自分のグラスを見る。……自分に呆れた。空なのに口をつけようとしていた。
「えっと……何がおすすめですか?」
「おすすめ……ねえ」
マルヴァジアは苦笑する。
「シニョーレはどんなワインが好きなんだい?」
サンジョベーゼが割り込んでくる。
「私、ワインには詳しくなくて。どんなのが好きかっていうのもまだわかってないんです」
「なるほどな。じゃあ、甘めとすっきりめ、どっちの方がいい?」
「甘いほうがいいかな」
私ははにかんで答えた。ワインといわず甘いものならたいてい好きだ。
「ヴァ ベーネ(了解)」
サンジョベーゼは、ボトルがずらりと並ぶのを見回してからひとつ頷き、無数のボトルの中から一本を迷いなく取り出した。
慣れた手つきで栓を抜き、ワイングラスに一口分注ぐと、グラスをこちらへ押しやった。
「ドイツワインだ。マドンナのリーフフラウミルヒ」
「リースちゃんのか」
シャルドネがニヤリと笑う。
「まあ、ワインの入口に立っている女の子にはちょうどいいと思うけどな」
私はおずおずとワインに口付ける。
とろりとした液が口内に触れ、優しい甘みが体に染み渡っていく。
「すごい……甘い」
ダメだ、語彙力がない。私に食レポはさせちゃダメだぞ。
「まあ、そりゃあね」
サンジョベーゼが苦笑する。
「気に入ったか?」
「はい」
「よし、じゃあ注いでやるから、グラスをこっちに」
私がグラスを元の位置に戻すと、半分ほどワインが注がれた。
「甘口リースが初めてちゃんには好かれるのはわかってるけどさ、どうせなら俺を勧めてくれよ」
シャルドネが不平を漏らす。
「銘柄言ってくれたら出すぞ。そのかわり、お前の奢りになるけどな」
「んなもん当たり前だ。俺のところにつけてくれ」
ちょっと待って。奢り確定?
私は奢られるのは好きじゃない。貸しを作るみたいで、後が面倒だからだ。他人にお金を出してもらうという状況を、なるべく避けてきた。
「あの、おごりは……結構です。私、自分で払うので……」
「いいから。遠慮は余計だぞ」
「俺が飲んで欲しいんだ」
柔らかい笑みでそう返したシャルドネは、んー、とワンミニッツ考えた後、
「グランアルディッシュ・シャルドネ」
「ほいほい」
きりっと言ったシャルドネに対して、軽い調子でサンジョベーゼはボトルを取り出しワインを注ぐ。
「どうぞ」
にやりと笑ったサンジョベーセの視線の先では、シャルドネが試すように私を見ていた。
なんとなくグラスを取るのが躊躇われる。うう、そんなに見ないでくれ……。
彼の視線を横に流すように、別の空間に視点をやりながら、「いただきます」とワイングラスを持ち上げた。
口元に近づけると、香ばしい香りを僅かに感じた。なんだろう、どこかで嗅いだような。
「一旦テーブルに置いて、くるくるっとわましてみ。こんなふうに」
シャルドネが自分のワイングラスの脚に手を置き、反時計回りに数回、滑らせるように回す。
私も卓上にグラスを戻し、彼の行為を真似る。
「スワリングって言うんだけどさ……もっかい香り嗅いでみな」
「……あ」
明らかにさっきより香りが強い。ふわっとナッツのような香りが鼻をくすぐる。いや、バニラの香りかも。
口に含むと、ドイツの甘いワインとはまた違う、とろりとしているのに、しっかりとした強さもあって、なんだろう……。
私はちらりとシャルドネの方を見やる。
言葉を知らない私には、形容し難い。でも、これだけは言える。
ああ、これはまさに目の前にいる彼のワインなんだと。
照明の光を受けて輝く彼の瞳も、私を見ている。
「どう?」
「……美味しいです」
私ははっと視線を落とす。
本当は、甘いほうが好きだったんだけど、本人の前でそれは言えないし。


――この街に赴任した時に、聞いた話。
ワインが貨幣と同等の価値を持つ街、ヴィティス。
この街には、ヴィティスタという存在がいると。

その話をした本人もあまりわかっていないようだったが、彼らにはそれぞれ自分のぶどうというものがあり、それから造られるワインを自分の一部のように大事にし、誇りにしているという。

――今、目の前にいる彼らが、そうなのだ。

ワインの知識なんかさっぱりでも、この街で働いていたら、嫌でもワインの話を耳にする。
商店街を歩けば、ワインの名前やボトルが目に入ってくる。
だから、ワインに使われているぶどうの品種名も、同様に頭に焼きこまれている。
それにしても、物覚えの悪い子の私でも、彼らの名がブドウ品種名だとわかるってことは……
それだけ多く目にしているってこと。

つまり、人気品種ばっかりなんじゃないの? ここにいるのって……


「セ・ボン(美味しい)、ねぇ」
シャルドネが皮肉めいた笑みを浮かべる。
「そりゃ俺のワインだもんな、美味いのは知ってる。もっと色よい返事、欲しかったな」
「よせ、シャルドネ。充分な言葉じゃないか。専門用語で飾られるより、俺はよっぽど――嬉しい」
カベルネがたしなめる。
「じゃあさ、さっきのワインとだったら、どっちの方がいい?」
シャルドネがずいと身を乗り出す。私は条件反射で身をそらす。
「え、と……」
うわー、聞かれたくないこと聞かれちゃったよ。さっき濁したのにぃ。
「……どっちも、好きです。その、味が全然違って、どっちにも良さがあるっていうか……」
ちょっと肩を落とすシャルドネの向こうで、ピノ・ノワールが鼻で笑う。
「彼女は賢い」
「うるさい」
シャルドネが不機嫌な声で返す。
「まだ、未知の扉を開けたところって感じだもんね。これから開拓していけばいいよ。好きも嫌いも、その内わかってくるからさ」
メルローがフォローを入れてくれる。
「そうだな」
カベルネも相槌を打つ。
「ふ……少しづつ俺で染めてやる……」
「シャルドネ、怖いよ」
不敵な笑みを浮かべつぶやくシャルドネに、マルヴァジアが横槍を入れる。
「初めはいろいろ試してみることだね。美味しかったからってひとつに拘らずに、思い切って別の系統にも挑戦してみると、案外そっちのほうがしっくりくるっていうこともあるし」
「メルローの言う通りだ。じゃあ次は俺を飲んでみるか?」
サンジョベーゼがそそくさと、新しくボトルを出してくる。
「あの、まだ、ワインが残ってるので……」
封を切ろうとする彼を、私は慌てて止める。
「味見程度でいいからさ」
「いえ、私、アルコールに弱くて、たくさん飲めないんです」
いろいろ試したい気持ちはある。でも、今飲んでいるワインを残してしまうのは勿体無い。
「そうか……」
サンジョベーゼは見るからに肩を落として、ボトルを卓上に置く。
「俺、フラれた……」
「よしよし」
マルヴァジアに慰められているサンジョベーゼを見て、なんだか申し訳なくなる。
「すみません……」
「気にするな。あれは巫山戯ているだけだから」
そう言ってカベルネは、ワインを口に含む。
シャルドネも綺麗な人だけど、この人はまた違った、大人の色気がある。
眉は決断力があるそうにキリっとしていて、眼光は鋭い。
体格も良くて力強そうなのに、行為の一つ一つが繊細で、優しくて、つい目で追ってしまう。
今は優しい顔しているけど、睨まれたら超怖いだろうな……。
「アルコールに弱いのは、何も悪いことじゃねえよ」
カベルネに視線を向けていた私の後ろで、シャルドネが語り始める。
「ワインはさ、ぐいぐい飲む物じゃなくて、ゆっくり少しづつ味わうものなんだ。
開栓したばかりのバージンな香りを嗅ぎ、空気に触れさせて味わいの変化を楽しみ、舌に絡め、余韻に浸る。まさに至福の瞬間だ。
お酒に強くなくたって、全然いいんだよ。むしろ、味わいもせずに水みたいにガバガバ飲んで、酔っ払ってひっくり返るようじゃ、こっちも堪んねえ。
じっくり少しづつでいい、俺たちの良さを理解してくれる方が、嬉しいさ」
「同感だ」
「お、カベソーが同意してくれた。なんか嬉し」
「そんな珍しいことでもないだろ」
カベルネが私を通り越して、シャルドネに視線を投げる。
「ねえ、ワインだけっていうのもなんだし、何か作ってよ」
メルローがサンジョベーゼに声をかける。
「俺が何もせずお喋りしてたと思ったか? ちゃんと作ってるよ」
とん、とカウンター上にお皿が置かれる。
「まずはプロシュートのサラダ。んでカプレーゼ。お次はポモドーロとバジリコのピッツェッタ」
「おおー」
「うまそー」
「うまそーじゃねえ、うまいんだよ」
サンジョベーゼが得意げに皿を並べる。
「はい」
「ほら」
当たり前のように、シャルドネとカベルネは取り分けたサラダやピザを渡してくる。
「え、でも、私」
「また遠慮か?」
「気にするな」
「そーそー。こいつらが全部払ってくれるんだからよ」
サンジョベーゼの言葉に、二人はうんうん、と頷く。
うんうん、じゃない!
だから私は奢られるのがkr……
「はい、できたよ、カルボナーラ」
極めつけに目の前に置かれるパスタの大皿。
「あの、私、そんなに食べられな」
「今のうちに甘えとけばいい」
ずっと黙っていたピノ・ノワールが口を開く。
「そのうち、高級ワインを買ってくれと強請られるだろうからな」
「「そんなことはしない」」
シャルドネ、カベルネが口を揃えて反論する。
「……ま、無理はする必要はないが」
ピノは静かに付け加える。
そういえば、料理皿から少し席が離れているせいもあるけれど、ピノは料理の取り分けを全てシャルドネにして貰っていた。フォークすら自分で取らず、シャルドネから手渡されていた。同じく席が離れているメルローすら、カプレーゼの取り分けに参戦していたのに。
まあ、私も手際よく進む作業に追いつけず、オロオロしていただけだから、非難はできないけれど。
なんか、シャルドネがやってくれて当然、みたいな態度だった。
「……」
私が何もできず黙っていると、ふと視線が集まっていることに気がついた。
気が付けば、料理配分は終了し、食事開始態勢が整っていた。
なんで、みんな食べないんだろう、と考えて、思い出した。
……そうだ、レディーファースト、だっけ。
一人別行動、みたいなピノ・ノワールさえ、横目で私を伺っている。
え……なんか怖い。全員に見られてる。怖い。
「サンジョベーゼの料理はとっても美味しいんだよ」
見かねてか、メルローがフォローを入れる。
「俺らも作ったんだけどね」
カナイオーロが補足する。
「えっと、君の母国は日本? こういう時、なんて言うんだっけ」
「いただきます、ですか?」
「そうそう」
「いただきますって、どういうお祈り?」
カナイオーロが首を傾ける。
「お祈りっていうか、作ってくれた人、食材、全てに感謝して食べます、ってことだよね」
「そうですね」
「へー、メルちん物知りだな」
「日本でも仕事をしているからね。ちょっと勉強したんだ」
「神様じゃなくて、食材に感謝するのか」
「日本は無宗教の人もいるみたいだから。作ってくれた人に感謝するっていうの、僕はとてもいい文化だと思う」
「そうだな」
カベルネは真面目に受け取ったのか、サンジョベーゼに礼を言う。
「ありがとう、サンジョベーゼ。お前の料理はいつも美味い」
「お……おう。なんか面と向かって改めて言われると照れるじゃねえか」
サンジョベーゼは居心地が悪そうに一歩身を引く。
「じゃあ、冷めないうちに頂きますか」
メルローの合図で、みんなは唱える。
「いただきます」
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