96 / 100
第十五幕 黙ったまま早く唇奪って
不調
しおりを挟む
百子は資料を作り終え、椅子に座ったまま大きく伸びをした。それと同時に、口を大きく開けて息を吸い、大きく息を吐いて目を閉じる。
「茨城さん、そんなに眠たいなら病院に行った方がいいと思うんだけど、大丈夫?」
ハスキーな上司の声が百子に向かって飛んできたので、百子はゆるく首を横に振る。昨日は陽翔と長い午後を過ごしたのが原因だろうか。それにしては通常よりも体がだるく、朝から胃のムカつきが続き、昼食の量も減らしている。とはいえ、仕事には支障が無いものの、周りに心配されているとなれば、ある程度控えるように、彼に頼もうと思い立った。どう頼もうと考えていると、瞼が彼女の意に反して降りてきてしまい、慌ててカッと両目を見開く。
「……私、そんなにあくび、してました?」
百子はこみ上げてきたあくびを噛み殺しながら返答する。その様子を目を丸くして見ていた上司の斎藤は、立ち上がってつかつかと百子のいるデスクの手前で止まり、百子の額に手を当てた。
「……ちょっと熱っぽいかも。最近風邪が流行ってるから気をつけなさいね」
斎藤は百子の頭をポンポンと撫で、彼女の机にのど飴を置いた。百子は感謝の言葉を述べ、印刷の終わった資料を取りに行くために立ち上がったが、目の前がふいに暗くなり、足元がぐらついてしまう。
「……あれ?」
その場に崩れ落ちそうになった百子は、辛うじてデスクの角に手をついたことで、床と仲良くなる事態は避けられた。斎藤が慌てて百子に駆け寄り、早退しても良いから病院に行きなさいとだけ告げる。
「でも、仕事が……」
「いいから! フラフラしてて熱っぽいのなら、早く病院に行って治しなさい。今日の仕事は終わったんでしょ? 今日くらい早抜けしてもバチは当たらないと思うんだけど」
百子は釈然としなかったが、斎藤に頭を下げ、重い体を引きずって会社を出る。内科に行ってみたものの、風邪でも胃粘液が減っている訳でも何でもないことが発覚し、もう一度会社に戻ろうかと斎藤に電話して問い合わせたが、今日はもう休めの一点張りだった。百子は陽翔に、早退することになったとメッセージを飛ばし、ふらふらと帰途につく。家に着くと、ご飯を仕掛けて台所の掃除をした百子だったが、炊いたお米の匂いが漂うようになると、腹の底から一気にこみ上げる感覚に襲われ、口を押さえながら慌ててトイレに駆け込んだ。
百子は青い顔をして、喉の焼け付く痛みを水で緩和させようとして、のろのろと台所に戻ったが、再び胃の腑がひっくり返り、結局トイレに戻ることとなった。菜種油を搾り取るように、胃の中身を空にしたのにも関わらず、ぐるぐると腹の中を蠢く不快感は一向に無くならない。
(……おかしいな。内科の先生は、胃が荒れてないって言ってたのに)
百子はベッドでしばらく横になっていたが、炊飯器のアラームが鳴ったのを見過ごすことができず、再び台所へと向かう。炊飯器を開けると、ご飯の甘い匂いが顔を直撃して、胃がぐるりと回りそうになったため、思わず息を止めながら、ご飯をタッパーに小分けにしていく作業を、やっとの思いで終わらせる。彼女はふらふらとソファーにたどり着くと、そこに体を沈めた。
(……お味噌汁も作りたいのに)
料理ができないことを悔やみ、うつ伏せになっていた百子は、玄関で鍵の開ける音が耳を掠めても、陽翔がバタバタとしながら百子を呼んでも、起き上がることができなかった。
「百子! こんな所にいたのか! 返事寄越さないから心配したんだぞ!」
切迫した彼の声に、百子はおもむろに寝返りをうち、か細い声で告げる。
「……おかえり、陽翔。あんまり大丈夫じゃない……」
陽翔は彼女の青い顔と、掠れた細い声に、彼女が返事を寄越さなかったことが頭から消し飛んで仰天した。陽翔は百子を抱き上げてソファーに座らせ、慌てて水の入ったコップを差し出し、台所に置きっぱなしだった百子のスマホを持ってきてくれた。
「ありがとう……」
声の調子がいくばくか戻った百子は、会社を早退して病院に行ったものの、特に異常が無かったと言われたこと、ご飯を炊いていたら胃の腑がぐるぐると回ったことを説明した。
「……吐いておいて異常がない、だと? そんなわけあるかよ。違う医者に行った方が良さそうだな」
全ての話を聞き終えた陽翔は、眉間の谷間を段々と深くさせたため、百子は慌てて付け加える。
「確かに胃がムカついてたけど、病院に行った時は吐き気は無かったよ。家に帰ってご飯を炊いたら急に気持ち悪くなっちゃって……誤診とかじゃないと思う。吐き気が酷くてしんどくなったから、味噌汁とかは作れなかったけど……」
百子はゆるく首を横に振ったが、目を見開いた陽翔が両肩をがっちりと掴んだために、目をぱちくりさせて陽翔と目を合わせる。
「茨城さん、そんなに眠たいなら病院に行った方がいいと思うんだけど、大丈夫?」
ハスキーな上司の声が百子に向かって飛んできたので、百子はゆるく首を横に振る。昨日は陽翔と長い午後を過ごしたのが原因だろうか。それにしては通常よりも体がだるく、朝から胃のムカつきが続き、昼食の量も減らしている。とはいえ、仕事には支障が無いものの、周りに心配されているとなれば、ある程度控えるように、彼に頼もうと思い立った。どう頼もうと考えていると、瞼が彼女の意に反して降りてきてしまい、慌ててカッと両目を見開く。
「……私、そんなにあくび、してました?」
百子はこみ上げてきたあくびを噛み殺しながら返答する。その様子を目を丸くして見ていた上司の斎藤は、立ち上がってつかつかと百子のいるデスクの手前で止まり、百子の額に手を当てた。
「……ちょっと熱っぽいかも。最近風邪が流行ってるから気をつけなさいね」
斎藤は百子の頭をポンポンと撫で、彼女の机にのど飴を置いた。百子は感謝の言葉を述べ、印刷の終わった資料を取りに行くために立ち上がったが、目の前がふいに暗くなり、足元がぐらついてしまう。
「……あれ?」
その場に崩れ落ちそうになった百子は、辛うじてデスクの角に手をついたことで、床と仲良くなる事態は避けられた。斎藤が慌てて百子に駆け寄り、早退しても良いから病院に行きなさいとだけ告げる。
「でも、仕事が……」
「いいから! フラフラしてて熱っぽいのなら、早く病院に行って治しなさい。今日の仕事は終わったんでしょ? 今日くらい早抜けしてもバチは当たらないと思うんだけど」
百子は釈然としなかったが、斎藤に頭を下げ、重い体を引きずって会社を出る。内科に行ってみたものの、風邪でも胃粘液が減っている訳でも何でもないことが発覚し、もう一度会社に戻ろうかと斎藤に電話して問い合わせたが、今日はもう休めの一点張りだった。百子は陽翔に、早退することになったとメッセージを飛ばし、ふらふらと帰途につく。家に着くと、ご飯を仕掛けて台所の掃除をした百子だったが、炊いたお米の匂いが漂うようになると、腹の底から一気にこみ上げる感覚に襲われ、口を押さえながら慌ててトイレに駆け込んだ。
百子は青い顔をして、喉の焼け付く痛みを水で緩和させようとして、のろのろと台所に戻ったが、再び胃の腑がひっくり返り、結局トイレに戻ることとなった。菜種油を搾り取るように、胃の中身を空にしたのにも関わらず、ぐるぐると腹の中を蠢く不快感は一向に無くならない。
(……おかしいな。内科の先生は、胃が荒れてないって言ってたのに)
百子はベッドでしばらく横になっていたが、炊飯器のアラームが鳴ったのを見過ごすことができず、再び台所へと向かう。炊飯器を開けると、ご飯の甘い匂いが顔を直撃して、胃がぐるりと回りそうになったため、思わず息を止めながら、ご飯をタッパーに小分けにしていく作業を、やっとの思いで終わらせる。彼女はふらふらとソファーにたどり着くと、そこに体を沈めた。
(……お味噌汁も作りたいのに)
料理ができないことを悔やみ、うつ伏せになっていた百子は、玄関で鍵の開ける音が耳を掠めても、陽翔がバタバタとしながら百子を呼んでも、起き上がることができなかった。
「百子! こんな所にいたのか! 返事寄越さないから心配したんだぞ!」
切迫した彼の声に、百子はおもむろに寝返りをうち、か細い声で告げる。
「……おかえり、陽翔。あんまり大丈夫じゃない……」
陽翔は彼女の青い顔と、掠れた細い声に、彼女が返事を寄越さなかったことが頭から消し飛んで仰天した。陽翔は百子を抱き上げてソファーに座らせ、慌てて水の入ったコップを差し出し、台所に置きっぱなしだった百子のスマホを持ってきてくれた。
「ありがとう……」
声の調子がいくばくか戻った百子は、会社を早退して病院に行ったものの、特に異常が無かったと言われたこと、ご飯を炊いていたら胃の腑がぐるぐると回ったことを説明した。
「……吐いておいて異常がない、だと? そんなわけあるかよ。違う医者に行った方が良さそうだな」
全ての話を聞き終えた陽翔は、眉間の谷間を段々と深くさせたため、百子は慌てて付け加える。
「確かに胃がムカついてたけど、病院に行った時は吐き気は無かったよ。家に帰ってご飯を炊いたら急に気持ち悪くなっちゃって……誤診とかじゃないと思う。吐き気が酷くてしんどくなったから、味噌汁とかは作れなかったけど……」
百子はゆるく首を横に振ったが、目を見開いた陽翔が両肩をがっちりと掴んだために、目をぱちくりさせて陽翔と目を合わせる。
1
お気に入りに追加
58
あなたにおすすめの小説

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
初恋は溺愛で。〈一夜だけのはずが、遊び人を卒業して平凡な私と恋をするそうです〉
濘-NEI-
恋愛
友人の授かり婚により、ルームシェアを続けられなくなった香澄は、独りぼっちの寂しさを誤魔化すように一人で食事に行った店で、イケオジと出会って甘い一夜を過ごす。
一晩限りのオトナの夜が忘れならない中、従姉妹のツテで決まった引越し先に、再会するはずもない彼が居て、奇妙な同居が始まる予感!
◆Rシーンには※印
ヒーロー視点には⭐︎印をつけておきます
◎この作品はエブリスタさん、pixivさんでも公開しています
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
身代わり婚~暴君と呼ばれる辺境伯に拒絶された仮初の花嫁
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【決してご迷惑はお掛けしません。どうか私をここに置いて頂けませんか?】
妾腹の娘として厄介者扱いを受けていたアリアドネは姉の身代わりとして暴君として名高い辺境伯に嫁がされる。結婚すれば幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱いていたのも束の間。望まぬ花嫁を押し付けられたとして夫となるべく辺境伯に初対面で冷たい言葉を投げつけらた。さらに城から追い出されそうになるものの、ある人物に救われて下働きとして置いてもらえる事になるのだった―。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる