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第十三幕 孤独に怯える
閉ざされる
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すすり泣く千鶴と、彼女を宥めていた陽翔は、処置をした医師の元に通される。陽翔は椅子につく前に、縋るような声で告げた。
「あの……! 百子は……百子は無事なんですか?」
「はい。命に別状はありません。怪我は両腕と両脚の擦過傷と側頭部のみでした。側頭部は出血が酷かったようですが、傷そのものは小さく、救急車の中で出血が止まったようです……ですが……」
陽翔は彼女が生きていることに心底胸を撫で下ろしたが、医師は眉根を寄せたままだ。
「茨城さんの意識が戻りません。CTを撮ってみましたが、脳出血や脳の構造上の異常は確認されておりません……脳震盪による一時的な意識障害でしょう」
意識を取り戻した百子がいると思っていた陽翔は、医師の言葉に愕然とする。口を閉ざした彼の代わりに、千鶴はおずおずと尋ねた。
「百子は……いつ目覚めますか?」
「大抵は数分か数時間……大体6時間以内に目覚めることが多いですね。ただ、意識を取り戻してもその後の症状には気をつけた方が良いでしょう。急に眠くなったり、脳震盪の前後の記憶が飛んだり、頭痛が起こるなど、様々な症状がありますが、これには個人差があります。いずれも薬を処方して治療になりますので、入院するほどではありませんが」
陽翔はゆるく息を吐く。意識障害が長続きしないのと、百子の症状が軽いことに安堵したのだ。今日は流石に無理だが、明日なら百子と共に寝起きができるだろうと考えた陽翔は、同じく胸を撫で下ろしていた千鶴と目があった。二人は同じタイミングで頷き、医師の元を辞し、百子のいる部屋へと足早に向かう。
「百子!」
「百子……! 生きてて良かった……!」
頭に、両腕に、両脚に包帯が巻かれている百子は、二人の声に答えない。それでも百子の手は温かく、呼吸音も聞こえ、彼女が生きていることを確認でき、陽翔は脱力してベットの側に座り込んだ。千鶴も安堵して、太一に百子の状態を報告し、彼女の頭を撫でて頬をすり寄せる。そのまま彼女が無事な余韻に浸っていたかったが、夜も更けてしまったために、二人は早々に病院を辞し、それぞれ帰途についた。真っ暗な家が陽翔を迎えている事実が寂しさを増幅させたが、朝食の残りを食べて、広いダブルベッドに潜り込むと、さらにそれが加速した。
(今日だけだ……百子がいないのは今日だけだから……百子が目覚めたら、百子の欲しいものを聞こう。誕生日も近いしな。何を渡したら喜んでくれるかな……)
自分に必死で言い聞かせた後、あれやこれやと百子にプレゼントしたいものが浮べて気を紛らわせていた陽翔はいつの間にか眠りにつく。そして次の日の仕事が終わると、すぐさま百子の元へと向かった。
しかし陽翔の意に反して、百子の瞳は閉ざされたままだった。
陽翔は医師に呼ばれ、百子の入院の手続きを済ませる。再検査はされたものの、脳に異常はないのに、百子の目が覚めない。彼女の腕からは、点滴の管や心拍数メーターの管が伸びており、陽翔の不安はうなぎ登りになった。それを振り払うべく、首を強く横に振る。
(いや……明日には目覚めるかもしれない)
そう思ったとて、来る日も来る日も、陽翔はできる限り百子に会う時間を取り、彼女に話しかけ、頭を撫で、彼女の側ですすり泣くことが続く。明日にはきっと百子の目が覚めると思っていても、次の日が来るたびにそれが裏切られ、陽翔は毎晩匂いも温度も半分になったダブルベッドで、止めようもない涙をはらはらと零す。朝起きても彼女の挨拶は聞こえず、一人分の食事を配膳し、一人で食べる食事は味気も彼女の笑顔も無く、対面に彼女がいないのを見るのが嫌で、今や台所で食事を取っている。食欲は無かったが、仕事に支障が出るため、無理矢理に胃に押し込んで出勤する日々だ。
そして一人でダブルベッドで眠るのは寂しさを助長するだけなので、ついにはリビングのソファで寝るようになった。当然熟睡とは程遠く、陽翔は寝不足がちになる。仕事をしていたらある程度は百子がいない現実を忘れることができるため、今まで以上に仕事に没頭するようになった。
陽翔は目の下に濃い隈をこしらえてしまい、上司や先輩、同僚や後輩に心配されているのだが、何かしていないと落ち着かないと告げると、その日から腫れ物に触るような扱いを受けてしまうようになり、陽翔に百子の話をする者はいなくなった。幸いなのかそうでないのか、陽翔の仕事の効率は少しずつだが向上し、時間内もしくは時間より早く仕事を終わらせては彼女の元に足を運んでいた。
(今日は百子の誕生日だな……)
陽翔は子供の頃に読み聞かせてもらった、誕生日に奇跡が起こる内容の絵本を思い出し、今日こそは彼女が目覚めていることを願いながら、百子の病室をノックして返事を待つ。しかしドアの奥からは静寂のみが返ってくるだけだった。
(そんな……まだなのか)
手に提げている紙袋がいやに重たく感じられたが、陽翔はそっとドアを開ける。彼女に話しかけても、頭や頬を撫でても、横たわる百子の睫毛は動かない。
(いつもはこれで起きるのにな……)
陽翔は力ない笑みを口元に浮かべ、前日に散々悩んで買ってきたプレゼントを、百子の枕元に置く。
「百子、30歳の誕生日おめでとう。今年も百子にとっていい一年になればいい……な……」
陽翔はスラックスが汚れるのも構わずに、ベットの側に膝を立て、百子の左手を両手で包む。両腕と両脚の包帯が今日は取れており、少しだけ日焼けした彼女の肌がよく見える。
百子の体表の傷は癒えた。しかし百子の意識は未だに戻らない。その事実を容赦なく突きつけられ、陽翔の脳裏に、実は百子は目覚めたくないのかもしれないという考えが、極彩色の闇となって駆け抜ける。その想像は拭おうとしても却ってそれを広げてしまい、彼は婚約指輪を嵌めた指を撫でながら、後半は涙に溺れてしまった。
「百子……! 頼む! 起きてくれ……! 俺を置いて行かないでくれ……! 俺を一人にしないでくれ……! なあ……百子……」
「あの……! 百子は……百子は無事なんですか?」
「はい。命に別状はありません。怪我は両腕と両脚の擦過傷と側頭部のみでした。側頭部は出血が酷かったようですが、傷そのものは小さく、救急車の中で出血が止まったようです……ですが……」
陽翔は彼女が生きていることに心底胸を撫で下ろしたが、医師は眉根を寄せたままだ。
「茨城さんの意識が戻りません。CTを撮ってみましたが、脳出血や脳の構造上の異常は確認されておりません……脳震盪による一時的な意識障害でしょう」
意識を取り戻した百子がいると思っていた陽翔は、医師の言葉に愕然とする。口を閉ざした彼の代わりに、千鶴はおずおずと尋ねた。
「百子は……いつ目覚めますか?」
「大抵は数分か数時間……大体6時間以内に目覚めることが多いですね。ただ、意識を取り戻してもその後の症状には気をつけた方が良いでしょう。急に眠くなったり、脳震盪の前後の記憶が飛んだり、頭痛が起こるなど、様々な症状がありますが、これには個人差があります。いずれも薬を処方して治療になりますので、入院するほどではありませんが」
陽翔はゆるく息を吐く。意識障害が長続きしないのと、百子の症状が軽いことに安堵したのだ。今日は流石に無理だが、明日なら百子と共に寝起きができるだろうと考えた陽翔は、同じく胸を撫で下ろしていた千鶴と目があった。二人は同じタイミングで頷き、医師の元を辞し、百子のいる部屋へと足早に向かう。
「百子!」
「百子……! 生きてて良かった……!」
頭に、両腕に、両脚に包帯が巻かれている百子は、二人の声に答えない。それでも百子の手は温かく、呼吸音も聞こえ、彼女が生きていることを確認でき、陽翔は脱力してベットの側に座り込んだ。千鶴も安堵して、太一に百子の状態を報告し、彼女の頭を撫でて頬をすり寄せる。そのまま彼女が無事な余韻に浸っていたかったが、夜も更けてしまったために、二人は早々に病院を辞し、それぞれ帰途についた。真っ暗な家が陽翔を迎えている事実が寂しさを増幅させたが、朝食の残りを食べて、広いダブルベッドに潜り込むと、さらにそれが加速した。
(今日だけだ……百子がいないのは今日だけだから……百子が目覚めたら、百子の欲しいものを聞こう。誕生日も近いしな。何を渡したら喜んでくれるかな……)
自分に必死で言い聞かせた後、あれやこれやと百子にプレゼントしたいものが浮べて気を紛らわせていた陽翔はいつの間にか眠りにつく。そして次の日の仕事が終わると、すぐさま百子の元へと向かった。
しかし陽翔の意に反して、百子の瞳は閉ざされたままだった。
陽翔は医師に呼ばれ、百子の入院の手続きを済ませる。再検査はされたものの、脳に異常はないのに、百子の目が覚めない。彼女の腕からは、点滴の管や心拍数メーターの管が伸びており、陽翔の不安はうなぎ登りになった。それを振り払うべく、首を強く横に振る。
(いや……明日には目覚めるかもしれない)
そう思ったとて、来る日も来る日も、陽翔はできる限り百子に会う時間を取り、彼女に話しかけ、頭を撫で、彼女の側ですすり泣くことが続く。明日にはきっと百子の目が覚めると思っていても、次の日が来るたびにそれが裏切られ、陽翔は毎晩匂いも温度も半分になったダブルベッドで、止めようもない涙をはらはらと零す。朝起きても彼女の挨拶は聞こえず、一人分の食事を配膳し、一人で食べる食事は味気も彼女の笑顔も無く、対面に彼女がいないのを見るのが嫌で、今や台所で食事を取っている。食欲は無かったが、仕事に支障が出るため、無理矢理に胃に押し込んで出勤する日々だ。
そして一人でダブルベッドで眠るのは寂しさを助長するだけなので、ついにはリビングのソファで寝るようになった。当然熟睡とは程遠く、陽翔は寝不足がちになる。仕事をしていたらある程度は百子がいない現実を忘れることができるため、今まで以上に仕事に没頭するようになった。
陽翔は目の下に濃い隈をこしらえてしまい、上司や先輩、同僚や後輩に心配されているのだが、何かしていないと落ち着かないと告げると、その日から腫れ物に触るような扱いを受けてしまうようになり、陽翔に百子の話をする者はいなくなった。幸いなのかそうでないのか、陽翔の仕事の効率は少しずつだが向上し、時間内もしくは時間より早く仕事を終わらせては彼女の元に足を運んでいた。
(今日は百子の誕生日だな……)
陽翔は子供の頃に読み聞かせてもらった、誕生日に奇跡が起こる内容の絵本を思い出し、今日こそは彼女が目覚めていることを願いながら、百子の病室をノックして返事を待つ。しかしドアの奥からは静寂のみが返ってくるだけだった。
(そんな……まだなのか)
手に提げている紙袋がいやに重たく感じられたが、陽翔はそっとドアを開ける。彼女に話しかけても、頭や頬を撫でても、横たわる百子の睫毛は動かない。
(いつもはこれで起きるのにな……)
陽翔は力ない笑みを口元に浮かべ、前日に散々悩んで買ってきたプレゼントを、百子の枕元に置く。
「百子、30歳の誕生日おめでとう。今年も百子にとっていい一年になればいい……な……」
陽翔はスラックスが汚れるのも構わずに、ベットの側に膝を立て、百子の左手を両手で包む。両腕と両脚の包帯が今日は取れており、少しだけ日焼けした彼女の肌がよく見える。
百子の体表の傷は癒えた。しかし百子の意識は未だに戻らない。その事実を容赦なく突きつけられ、陽翔の脳裏に、実は百子は目覚めたくないのかもしれないという考えが、極彩色の闇となって駆け抜ける。その想像は拭おうとしても却ってそれを広げてしまい、彼は婚約指輪を嵌めた指を撫でながら、後半は涙に溺れてしまった。
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