茨の蕾は綻び溢れる〜クールな同期はいばら姫を離さない〜

初月みちる

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第十一幕 怖くない

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「いいえ……私は気にしておりませんから。どうか顔をお上げください」

百子が椅子から立ち上がり、やんわりと告げると、男性は弾かれたように頭を上げて首を激しく横に振る。

「それは駄目だ! 遅刻を気にしないということは君の時間が僕の時間よりも劣るということになってしまうよ。そんなことはあり得ない。僕の時間も君の時間も等しく価値のある時間なんだ。時間は命そのものなんだよ。僕達は寿命を削ってこの時間ときを共有しているんだ」

はきはきと告げる彼から陽翔の母は視線を反らし、台所へと消えていく。それを見届ける前に陽翔は低い声で彼を詰った。

「父さん、遅刻するってことは自分の方が偉いって思ってる証拠だって昔教えてくれたよな? さっきの発言と矛盾するぞ」

「うん。僕の行動事実から言うとそうなってしまうね。僕しか処理できない仕事だったけど、僕の想定以上に長引いてしまったよ。これは明らかに僕の落ち度だ」

彼があっさりと自分の非を認めたために、陽翔は物言いたげに開けていた口を閉ざしてため息をついた。

「そして百子さん……遅れてしまって本当に申し訳無く思ってる……そして我が家へようこそ。百子さんが来るのを僕は心待ちにしていたんだよ」

(あれ……どうして私の名前を……?)

眉が太く、やや釣り目になっていて厳しい雰囲気のある顔立ちではあるが、細い黒縁の眼鏡越しのその目は細められていて威圧感を感じさせない。あまり陽翔とは似ていない顔立ちに百子は覚えがなく目をぱちくりさせていたが、慌てて頭を下げた。

「ありがとうございます……お招き下さり感謝しております。茨城百子と申します。本日はよろしくお願い致します」

百子が頭を軽く下げたのと同時に、ことりと何かがテーブルの上に置かれる。どうやら陽翔の母は彼の分の麦茶を取りに行っていただけらしい。不機嫌になって引っ込んでしまったと勘違いしていた自分が百子は恥ずかしかった。

「こちらこそよろしくね。太一の娘さん。僕は健二って言います。そしてこちらは僕の妻の裕子ひろこ。裕子ちゃんはちょいと意地っ張りなところがあるけど、教養もあって家事も仕事もそつなくこなす自慢の妻なんだ」

裕子は紹介されている間に健二の隣に座ったが、ナチュラルに惚気る彼を思わず小突く。

「変なこと言わないで下さいな。健二さんはそうやっていつもいつも私を揶揄うのね。少しは真面目にしたらどうなのかしら」

「いやあ、裕子ちゃんのことだから百子さんにつれない態度でも取ってただろうなって思ったの。本当に素直じゃないんだから」

「父さん、目的を見失うなよ。百子が困ってるだろうが。挨拶の席で何やってんだよ」

陽翔は両親のこの手のやり取りには慣れていたが、百子がこの場にいるのにそれをやる意味が理解できずに、ため息混じりに遮った。健二はどこか真面目過ぎる裕子とは違って明るく気さくで社交的で、ユーモア溢れる冗談を言うのを好むのだが、今回のようにマイペース過ぎることも多々ある。恐らくは固まった空気を和ませたいのだろうが、それは初対面の人間がいるところでやるものでもないと陽翔は思っている。

「ああ、申し訳ない、百子さん。驚かせてすまないね」

「いえ……」

百子は陽翔が止めに入ってくれたことに心底安堵した。健二の乱入はある程度予想はついたものの、その後のやり取りに目を白黒させていたからだ。重苦しいリビングの空気が吹き飛び、裕子の険しかった表情がいくらか和らいだのは喜ばしいことではあるが。

「それにしても百子さん、大きくなったね。こんなに小さかった女の子が美しくなって、しかも陽翔の横に並んでいるのを見られるのは感無量だよ」

健二はニコニコとしながら手のひらを下にして、テーブルよりもやや下に持ってくる。百子はここでようやく彼と会っていたことがあると確信したが、生憎その当時の記憶はやはり探っても見つからない。百子はおずおずと尋ねることにした。

「お、恐れ入ります……あの、どこかでお会いしたことがありました?」

「百子さんが4歳の時に僕は会ってるよ。太一が百子さんのことを公園に連れ出している最中に一度だけね。幼い君が太一に肩車をねだってたけど、太一は両手に荷物を持っていたから、代わりに僕が肩車をしたんだよ」

健二はおどけて片目を瞑った。百子は当時のことを覚えていなかったが、何となく光景が目に浮かんでしまい、顔を赤くして首を振った。裕子と陽翔が驚いて視線を向けたものの、それに応える余裕はない。

「そう、だったのですね……申し訳ありません、覚えてないのです」

「構わないよ。会ったのは一度きりだし、あの後会社から連絡があって結局長い時間を過ごせなかったんだし」

健二は笑顔を崩さずに首を振ったが、百子は何故かその笑みがニヤニヤとしているように見えて訝しむ。

「まあ僕は最近百子さんを見かけたんだけどね。本当にあの時はびっくりしたよ。百子さんは勇敢だね。ひったくり犯を全速力で追いかけて、カバンを命中させるなんて。警察に表彰されてもいいレベルだよ」

百子は先程とは違う意味で顔を赤らめた。

(嘘でしょ?! あれを見られてたの?! しかも陽翔のお父様に……! 一体どこで見られてたの?!)

笑みを浮かべている健二と、口をわななかせている百子に、4つの驚きを帯びた瞳が向けられた。それと同時に膝に置かれている手が陽翔にこっそりと握られる。百子は彼の手を握り返したが彼と目を合わせはしなかった。

「ま、ま、待って下さい……いつからご覧に……!」

百子の震える声に、健二はあっけらかんと答えた。

「最初からだよ。僕はたまたま副社長と一緒に我が社に帰る途中だったんだけど、百子さんの声が聞こえてびっくりしてそっちを見ちゃったんだ。僕達は反対側の歩道にいたから反応が遅れてね。僕達が百子さんのいた歩道に渡った頃にはひったくり犯は既に転んでたから、副社長が彼を押さえに行って、僕が通報したんだよ。君は終始被害女性のことをひたすら心配していたから知らないのも無理もないよね」

陽翔はそれを聞いてハッとして百子の肩に手を触れた。

「百子……もしかしてこの前の靴ずれは……」

「……うん、陽翔さんが考えてる通りよ。まあその時私はパンプス履いてることを忘れてたんだけどね。だって、緊急事態だったから」

百子は彼の視線を受け止めながらしどろもどろに返答する。隠していたつもりは百子にはなかったが、彼に隠し事をしたのではないかと追求されると思ったのだ。

「取引先の会社に遅れそうになってたって言ってたが……本当の理由はそれだったのか。何て無茶を……」

「だって目の前で犯罪が起こってるのに、見過ごせる訳ないわよ。そんなこと考える前に体が動いちゃったけど」

百子らしい言い分だったが、陽翔としては承服しかねた。今回は靴ずれで済んだから良かったものの、下手をすると入院沙汰になるか、事件に巻き込まれていたかもしれないからだ。百子は警察官でも、ましてや訓練された人間でもない。呆れて彼が口を開こうとしたが、その前に口を挟んだ者がいた。

「だとしても百子さん、貴女は警察官でも何でもないのですよ。犯人をどうにかする義務なんて無いのに、考え無しに突っ込んでいくのは非常に危険なのよ。貴女は屈強な男でも、格闘技を極めた人間でもない、ただの一般女性だというのに。百子さん、勇猛であることと無謀なことは違います。貴女はその時はたまたま怪我が靴ずれで済んだだけ。今後同じようなことがあったならすぐさま通報なさい」
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