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第十一幕 怖くない
緊迫
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駅を降りると湿気を含む熱風が二人を包み込む。まるで冷房で冷やされていた皮膚が瞬時に解凍されるようで、その温度差に陽翔は思わず顔を顰めた。
「勘弁してくれよな……」
彼の呟きが終わる前に、百子は日傘を背伸びしながら陽翔の頭上に掲げる。陽翔は彼女の手から傘を取って百子の腰に片手を回し、太陽の方角に傘を傾けた。まるで百子の両親に挨拶に行った日に巻き戻ったようで、陽翔は実家までの道がひどく遠くなった心地がした。
やや賑やかな町並みを抜けると、すぐに蝉の声が迎える住宅街に入る。その辺りから百子の体が強張って来たのを陽翔は目ざとく勘付いた。
「百子、心配しなくてもいいんだぞ」
「うん……そうなんだけども……ほら、うちの父が陽翔のご両親に私が認められなかったら陽翔と結婚できないって思うと、ね……」
信号待ちなので陽翔は思わず彼女の顔をのぞき込んだ。彼女の顔を伏し目がちな瞳に影が落ちて、ことさら彼女の表情が曇って見えてしまう。百子の不安はある意味では無用のものだと陽翔は考えていたが、不明な物に対して不安に駆られる気持ちはよく理解できる。
(流石に俺もそれを持ち出されたら、肩の力を抜いてとか、そんな気休めは言えねえな……)
むしろ気休めの言葉が百子にとってはさらなる重荷になるに違いなかった。陽翔は下手に声をかけず、彼女の背中をゆっくりと擦る。本当は頭を撫でたかったのだが、実家に着く前に彼女の髪が乱れるのも良くないと判断したのだ。だが彼女の体の強張りは解消されることはついに無かった。
「ここだぞ」
陽翔が足を止めたので、百子は俯いていた顔を上げた。陽翔の鳴らすインターフォンの機械音の後に、それに応えるプツッとした音の無い音が聞こえ、百子はやや硬い女性の声が応答するまでの時間がまるで永劫の時のように感じられて再び下を向いた。
「百子……大丈夫、俺がついてる」
陽翔は百子が僅かに逡巡するのを見て取ってしまったと感じた。結局気休めの言葉になってしまっからだ。陽翔はその気まずさを拭うべく、日傘を閉じた百子の唇を軽く啄んだ。そのはずみで百子は駅から降りてからまともに彼の顔を正面から見据えてぎょっとする。
「は、陽翔! 口紅ついてる!」
百子が慌ててティッシュで陽翔の唇についた口紅をやや乱暴に拭う。陽翔は百子の表情がいくばくか和らいだのを見てふっと口元を歪めた。
「それじゃあ行くぞ」
百子は彼に向かって頷いた。
鉄製の門をくぐると折れ曲がった階段があり、階段の角には桔梗が植えられている大きな鉢があった。花を一つしかつけていなかったものの、その優美な六角の花はつかの間百子の目を楽しませる。階段を登り切ると左手に小さな庭があり、ヒイラギの小さな木が植えられていた。
「家の中にも花はあると思うぞ」
百子の視線がもっぱら植物に向いていたことが陽翔にバレてしまったようで、陽翔は百子に向かって笑いかけながら玄関のドアを開ける。出迎える人がいると思った百子は玄関をくぐらずにいたが、陽翔は彼女の腕を掴んで玄関に招き入れてドアを閉めた。百子の持つ紙袋ががさりと音を立てる。
「ちょっ……」
「大丈夫だ」
家主の許可なく侵入してしまったことに罪悪感を感じて百子は陽翔を小突いたが、ドアを閉められた以上は諦めるしかなかった。勝手知ったる陽翔は靴を脱いでただいまと言いながら上がるが、百子の目は玄関に置いてある水盤に活けられている桔梗の花に釘付けになってしまう。
「百子、上がっていいんだぞ」
陽翔の言葉に、百子はかぶりを振った。
「えっと、私、ここの桔梗が見たいからここにいるわ。とても素敵だもの」
これは半分本当である。水盤に美しく活けられている桔梗の花々は百子の目と心を確実に潤すものだからだ。うだるような暑さをくぐり抜けた百子からしたら、すっきりと活けられた桔梗はオアシスに等しい。
「いや、上がれよ」
「だめ。私はここにいるわ」
百子は陽翔の伸ばされた腕をかいくぐって再び首を振る。インターフォンは応答があったのに、家主が出迎えに来ない、つまりは歓迎されていない事実を容赦なく突きつけられてしまった以上は、家主が諦めて顔を出すのを待つ方が得策だと思ったからだ。
「何を言って……」
陽翔は百子がただならぬ雰囲気を漂わせていたために、伸ばした手を力なく下ろして眉を下げ、リビングの方角を思わず睨む。ようやく陽翔も出迎えが無いのを不審に思ったのだ。そして自分の母が頑なな理由を図りかねて渋面を作る。どうやら百子の方がずっと賢明らしい。
「あら、陽翔。おかえり」
インターフォン越しに聞こえた硬い声の主は玄関に立ち尽くす百子を一切視界に入れずに陽翔に声を掛ける。百子は思わず息を呑んだ。
「ただいま、母さん。随分遅かったな。出迎えに来れないくらい忙しかったのか?」
百子は思わず女性に向かって頭を下げる。最初のうちから失礼な振る舞いをするのは何としてでも避けたかった。陽翔の母親からしたら百子はマイナススタートに他ならず、印象を悪化させることはしたくないのだ。
「そうね。陽翔と違って私は忙しいもの。特に今日という日はね」
依然として硬い声のままの陽翔の母の声が降り落ちてピクリと百子は反応したが、頭だけは上げてはいけないと言い聞かせた。
「事前に百子と来ることを伝えてあったのにか? しかも別に俺達は決めた時間より前に着いた訳じゃないぞ。相手に失礼のないよう振る舞えって俺は母さんに教わったんだが。違ったか?」
「健二さんと連絡を取ってたの。まだ掛かるから先に始めて欲しいって。それに、今日いらっしゃるのはお客様じゃないでしょう?」
「だからって礼を失する理由にはならない筈だ」
(ど、どうしよう……)
親子の軽い応酬が勃発してしまい、百子は暑い時期にも関わらず背筋を冷やしていた。しかも自分が原因にも関わらず、間に割って入ることもできない。三言ほど何かを言い合っていた彼らだが、唐突に声がこちらに向けられてしまい、小さく声が漏れてしまうのをぐっと堪える。
「貴女、名前は何と言うの?」
温かみの感じられない声がしても、百子は顔を上げずにそのまま名乗る。これほど長く頭を下げていたことは未だかつて無く、腰や背中に痛みが灯り始めていたが、百子はそれを無視してそのまま名乗った。
「はい……許可なく上がってしまい申し訳ありません。お邪魔しております。私は陽翔さんとお付き合いしております茨城百子と申します。本日は……」
「堅苦しい挨拶は結構。それよりも顔を上げなさい」
百子は失礼しますと一声添えてから恐る恐る顔を上げる。陽翔の母がいる場所は百子よりも少し高いが、百子がヒールを履いているために視線は百子の方が僅かに上になる。失礼の無いように真っ直ぐに彼女の意志の強い瞳を見つめると、ややあって陽翔の母はくるりと背を向けて、彼女を振り返って顎をしゃくった。
「最低限の礼儀はご存知なようね。上がりなさい。陽翔もそこにずっと突っ立ってるんじゃありません」
陽翔の母はびしびし言うと、そのまま廊下を歩き出した。百子はお邪魔致しますと軽く頭を下げ、素早く靴を脱いで後ろ手に靴を揃える。突っ立ったままこちらを振り返る陽翔に小さく笑ってみせ、二人は無言で廊下を歩く。涼し気な青紫の紫陽花の小さな鉢が廊下にあるのを見て百子はついつい頬が緩んでしまうが、慌てて口元を引き締める。ヘラヘラしていると思われても困るからだ。
「勘弁してくれよな……」
彼の呟きが終わる前に、百子は日傘を背伸びしながら陽翔の頭上に掲げる。陽翔は彼女の手から傘を取って百子の腰に片手を回し、太陽の方角に傘を傾けた。まるで百子の両親に挨拶に行った日に巻き戻ったようで、陽翔は実家までの道がひどく遠くなった心地がした。
やや賑やかな町並みを抜けると、すぐに蝉の声が迎える住宅街に入る。その辺りから百子の体が強張って来たのを陽翔は目ざとく勘付いた。
「百子、心配しなくてもいいんだぞ」
「うん……そうなんだけども……ほら、うちの父が陽翔のご両親に私が認められなかったら陽翔と結婚できないって思うと、ね……」
信号待ちなので陽翔は思わず彼女の顔をのぞき込んだ。彼女の顔を伏し目がちな瞳に影が落ちて、ことさら彼女の表情が曇って見えてしまう。百子の不安はある意味では無用のものだと陽翔は考えていたが、不明な物に対して不安に駆られる気持ちはよく理解できる。
(流石に俺もそれを持ち出されたら、肩の力を抜いてとか、そんな気休めは言えねえな……)
むしろ気休めの言葉が百子にとってはさらなる重荷になるに違いなかった。陽翔は下手に声をかけず、彼女の背中をゆっくりと擦る。本当は頭を撫でたかったのだが、実家に着く前に彼女の髪が乱れるのも良くないと判断したのだ。だが彼女の体の強張りは解消されることはついに無かった。
「ここだぞ」
陽翔が足を止めたので、百子は俯いていた顔を上げた。陽翔の鳴らすインターフォンの機械音の後に、それに応えるプツッとした音の無い音が聞こえ、百子はやや硬い女性の声が応答するまでの時間がまるで永劫の時のように感じられて再び下を向いた。
「百子……大丈夫、俺がついてる」
陽翔は百子が僅かに逡巡するのを見て取ってしまったと感じた。結局気休めの言葉になってしまっからだ。陽翔はその気まずさを拭うべく、日傘を閉じた百子の唇を軽く啄んだ。そのはずみで百子は駅から降りてからまともに彼の顔を正面から見据えてぎょっとする。
「は、陽翔! 口紅ついてる!」
百子が慌ててティッシュで陽翔の唇についた口紅をやや乱暴に拭う。陽翔は百子の表情がいくばくか和らいだのを見てふっと口元を歪めた。
「それじゃあ行くぞ」
百子は彼に向かって頷いた。
鉄製の門をくぐると折れ曲がった階段があり、階段の角には桔梗が植えられている大きな鉢があった。花を一つしかつけていなかったものの、その優美な六角の花はつかの間百子の目を楽しませる。階段を登り切ると左手に小さな庭があり、ヒイラギの小さな木が植えられていた。
「家の中にも花はあると思うぞ」
百子の視線がもっぱら植物に向いていたことが陽翔にバレてしまったようで、陽翔は百子に向かって笑いかけながら玄関のドアを開ける。出迎える人がいると思った百子は玄関をくぐらずにいたが、陽翔は彼女の腕を掴んで玄関に招き入れてドアを閉めた。百子の持つ紙袋ががさりと音を立てる。
「ちょっ……」
「大丈夫だ」
家主の許可なく侵入してしまったことに罪悪感を感じて百子は陽翔を小突いたが、ドアを閉められた以上は諦めるしかなかった。勝手知ったる陽翔は靴を脱いでただいまと言いながら上がるが、百子の目は玄関に置いてある水盤に活けられている桔梗の花に釘付けになってしまう。
「百子、上がっていいんだぞ」
陽翔の言葉に、百子はかぶりを振った。
「えっと、私、ここの桔梗が見たいからここにいるわ。とても素敵だもの」
これは半分本当である。水盤に美しく活けられている桔梗の花々は百子の目と心を確実に潤すものだからだ。うだるような暑さをくぐり抜けた百子からしたら、すっきりと活けられた桔梗はオアシスに等しい。
「いや、上がれよ」
「だめ。私はここにいるわ」
百子は陽翔の伸ばされた腕をかいくぐって再び首を振る。インターフォンは応答があったのに、家主が出迎えに来ない、つまりは歓迎されていない事実を容赦なく突きつけられてしまった以上は、家主が諦めて顔を出すのを待つ方が得策だと思ったからだ。
「何を言って……」
陽翔は百子がただならぬ雰囲気を漂わせていたために、伸ばした手を力なく下ろして眉を下げ、リビングの方角を思わず睨む。ようやく陽翔も出迎えが無いのを不審に思ったのだ。そして自分の母が頑なな理由を図りかねて渋面を作る。どうやら百子の方がずっと賢明らしい。
「あら、陽翔。おかえり」
インターフォン越しに聞こえた硬い声の主は玄関に立ち尽くす百子を一切視界に入れずに陽翔に声を掛ける。百子は思わず息を呑んだ。
「ただいま、母さん。随分遅かったな。出迎えに来れないくらい忙しかったのか?」
百子は思わず女性に向かって頭を下げる。最初のうちから失礼な振る舞いをするのは何としてでも避けたかった。陽翔の母親からしたら百子はマイナススタートに他ならず、印象を悪化させることはしたくないのだ。
「そうね。陽翔と違って私は忙しいもの。特に今日という日はね」
依然として硬い声のままの陽翔の母の声が降り落ちてピクリと百子は反応したが、頭だけは上げてはいけないと言い聞かせた。
「事前に百子と来ることを伝えてあったのにか? しかも別に俺達は決めた時間より前に着いた訳じゃないぞ。相手に失礼のないよう振る舞えって俺は母さんに教わったんだが。違ったか?」
「健二さんと連絡を取ってたの。まだ掛かるから先に始めて欲しいって。それに、今日いらっしゃるのはお客様じゃないでしょう?」
「だからって礼を失する理由にはならない筈だ」
(ど、どうしよう……)
親子の軽い応酬が勃発してしまい、百子は暑い時期にも関わらず背筋を冷やしていた。しかも自分が原因にも関わらず、間に割って入ることもできない。三言ほど何かを言い合っていた彼らだが、唐突に声がこちらに向けられてしまい、小さく声が漏れてしまうのをぐっと堪える。
「貴女、名前は何と言うの?」
温かみの感じられない声がしても、百子は顔を上げずにそのまま名乗る。これほど長く頭を下げていたことは未だかつて無く、腰や背中に痛みが灯り始めていたが、百子はそれを無視してそのまま名乗った。
「はい……許可なく上がってしまい申し訳ありません。お邪魔しております。私は陽翔さんとお付き合いしております茨城百子と申します。本日は……」
「堅苦しい挨拶は結構。それよりも顔を上げなさい」
百子は失礼しますと一声添えてから恐る恐る顔を上げる。陽翔の母がいる場所は百子よりも少し高いが、百子がヒールを履いているために視線は百子の方が僅かに上になる。失礼の無いように真っ直ぐに彼女の意志の強い瞳を見つめると、ややあって陽翔の母はくるりと背を向けて、彼女を振り返って顎をしゃくった。
「最低限の礼儀はご存知なようね。上がりなさい。陽翔もそこにずっと突っ立ってるんじゃありません」
陽翔の母はびしびし言うと、そのまま廊下を歩き出した。百子はお邪魔致しますと軽く頭を下げ、素早く靴を脱いで後ろ手に靴を揃える。突っ立ったままこちらを振り返る陽翔に小さく笑ってみせ、二人は無言で廊下を歩く。涼し気な青紫の紫陽花の小さな鉢が廊下にあるのを見て百子はついつい頬が緩んでしまうが、慌てて口元を引き締める。ヘラヘラしていると思われても困るからだ。
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