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第八幕 心の奥分かり合えない
狼狽
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百子は浴槽に浸かりながらそっと目を閉じる。瞼の裏には陽翔の顔しか浮かばないことに、彼女は軽く口元を緩めた。飲むから遅くなるという連絡を受けたまでは良かったのだが、一人で帰るのも、夕食を作るのも食べるのもずいぶんと久しぶりで、温度も匂いも音も半分になった家にぽつんと居るのが彼女には堪えたのだ。仕事関係だから遅くなるのは仕方ないと割り切ろうとしたのだが、心の下からふつふつと湧き上がる寂寥は抑えようが無い。それを紛らわせるために百子は明日の朝に作るはずだった味噌汁を作ったり、リビングの掃除をしていたのだが気休め程度にしかならず、わずかに塞ぎ込んでいた。
「だめよ……この程度で寂しいなんて思ってたら」
百子は眉を下げて一人ごちる。虚しく反響した独り言を聞いて、さらに胸の中の侘しさを広げてしまい、百子は言うんじゃなかったと自分を毒づいた。寂しいと言ったところで陽翔が早く帰ってくる筈もないし、寂しいと言うことそのものが今自分が一人でいることの強調になってしまい、ますます寂しさを募らせてしまう。それでも口をついて出る言葉を押しとどめることはついにできなかった。
(でも……やっぱり思い出しちゃう。元彼は連絡もなく朝帰りもよくしてたし、寂しいと言ったら嫌な顔されたし……陽翔だって寂しいって言われたら嫌よね……)
元彼の所業を思い出すと、それを皮切りに元彼が嫌な顔をしてきたことをぞろぞろと思い出してしまい、百子は勢い良く浴槽から上がった。
「もう止めよ」
大きな水音が嫌な記憶を頭の片隅に放逐するのを助けたので、ようやく百子はこれからのことに気を回す余裕ができた。彼女は波立ってる浴槽を振り返り、お風呂の栓を抜くかどうかを逡巡していたが、慌ただしい音がしたのでお風呂の蓋を閉めた。どうやら陽翔が帰ってきたらしいが妙に胸騒ぎがする。彼は通常大きな足音を立てることはないからだ。
「百子! どこだ!」
「陽翔、おかえり! 私はお風呂上がりなの!」
陽翔の声が切羽詰まったように聞こえ、百子は脱衣所から少し怒鳴るように声を上げる。すると脱衣所のドアが勢い良く開き、ぎょっとして後ずさる前に百子は彼の腕の中にいた。
「はる、と……? おかえり……」
抱きすくめられるというよりも、縋りつかれたように感じられ、百子の胸騒ぎは的中してしまった。それでも百子は彼の背中に腕を回し、背中をさする。彼の汗とほんの少しだけアルコールの匂いが百子の鼻腔をくすぐった。
「ただいま、百子……」
陽翔はさらに腕に力を込めて抱き寄せたが、百子が小さくうめいたので慌てて彼は腕を緩める。
「えっと、お腹、空いてない? それとも、お風呂、入る?」
飲みに行ったと聞いているにも関わらず、何とも間抜けな問いが口から出てきた。陽翔に抱きすくめられたのは嬉しかったものの、彼の慌てぶりに違和感を抱いてどんな風に声を掛けたら良いのか混乱してしまったのだ。
「百子」
「何?」
「百子が欲しい」
明らかに飲み会で何かあったのだと感じた百子だが、今聞いても良いのだろうかと逡巡していると、陽翔が百子の首筋に顔を埋めて軽く歯を立てて思わず体が跳ねる。百子の首に貼り付いた髪も一瞬待って雫をぱっと飛ばし、陽翔にそれが掛かってしまうが、彼は気にも留めていないようだ。
「陽翔、私まだちゃんと体拭いてな……んんっ」
首筋を弱く噛まれたことにも驚いたが、自分がまともに体を拭いていない状態を思い出して抗議する。その声すら陽翔の口の中に消えてしまい、百子は拳で彼の胸を何度か叩いた。
「もう! だめったら! 陽翔が濡れちゃう! ほら、シャツがびしょびしょじゃないの! そのままお風呂に入りなさい!」
彼の腕が緩んだので、百子は肩に引っ掛けていただけのバスタオルを頭から被る。陽翔の昏い瞳と目があって百子は息を呑んだが、彼の顔に手を伸ばしてゆっくりと頬を撫でてから、少しだけつま先立ちをして彼に口づけした。
「飲み会で何かあったんでしょ? お風呂の後にゆっくり聞かせて。もしお腹空いてるなら台所に作りたての味噌汁があるから」
百子は彼にそう言い残し、足早に脱衣所を出てそのドアを閉める。
(やっぱり今日の陽翔は変よ……少なくとも飲み会の後の顔じゃない。ひょっとしてその後に嫌な人と会ってた? それとも陽翔が何かをやらかした?)
百子は首を振った。今ここであれこれ頭を巡らせたとて、陽翔の真意が分かる筈もないからだ。
「うっ……」
鼻がツンとしたのに気づき、陽翔にバレないようにバスタオルを口に当ててくしゃみをした百子は、パジャマを脱衣所に置き忘れたのに気づく。お風呂場のドアが閉まった音を聞いてすぐに自分も脱衣所に入ったが、脱衣所にある鏡で自分の首に噛み跡を見つけてしまって、百子は羞恥で悶絶しながら素早くパジャマを身に着けて、陽翔の分のバスタオルを用意したと思えばやや乱暴に脱衣所のドアを閉めた。
「だめよ……この程度で寂しいなんて思ってたら」
百子は眉を下げて一人ごちる。虚しく反響した独り言を聞いて、さらに胸の中の侘しさを広げてしまい、百子は言うんじゃなかったと自分を毒づいた。寂しいと言ったところで陽翔が早く帰ってくる筈もないし、寂しいと言うことそのものが今自分が一人でいることの強調になってしまい、ますます寂しさを募らせてしまう。それでも口をついて出る言葉を押しとどめることはついにできなかった。
(でも……やっぱり思い出しちゃう。元彼は連絡もなく朝帰りもよくしてたし、寂しいと言ったら嫌な顔されたし……陽翔だって寂しいって言われたら嫌よね……)
元彼の所業を思い出すと、それを皮切りに元彼が嫌な顔をしてきたことをぞろぞろと思い出してしまい、百子は勢い良く浴槽から上がった。
「もう止めよ」
大きな水音が嫌な記憶を頭の片隅に放逐するのを助けたので、ようやく百子はこれからのことに気を回す余裕ができた。彼女は波立ってる浴槽を振り返り、お風呂の栓を抜くかどうかを逡巡していたが、慌ただしい音がしたのでお風呂の蓋を閉めた。どうやら陽翔が帰ってきたらしいが妙に胸騒ぎがする。彼は通常大きな足音を立てることはないからだ。
「百子! どこだ!」
「陽翔、おかえり! 私はお風呂上がりなの!」
陽翔の声が切羽詰まったように聞こえ、百子は脱衣所から少し怒鳴るように声を上げる。すると脱衣所のドアが勢い良く開き、ぎょっとして後ずさる前に百子は彼の腕の中にいた。
「はる、と……? おかえり……」
抱きすくめられるというよりも、縋りつかれたように感じられ、百子の胸騒ぎは的中してしまった。それでも百子は彼の背中に腕を回し、背中をさする。彼の汗とほんの少しだけアルコールの匂いが百子の鼻腔をくすぐった。
「ただいま、百子……」
陽翔はさらに腕に力を込めて抱き寄せたが、百子が小さくうめいたので慌てて彼は腕を緩める。
「えっと、お腹、空いてない? それとも、お風呂、入る?」
飲みに行ったと聞いているにも関わらず、何とも間抜けな問いが口から出てきた。陽翔に抱きすくめられたのは嬉しかったものの、彼の慌てぶりに違和感を抱いてどんな風に声を掛けたら良いのか混乱してしまったのだ。
「百子」
「何?」
「百子が欲しい」
明らかに飲み会で何かあったのだと感じた百子だが、今聞いても良いのだろうかと逡巡していると、陽翔が百子の首筋に顔を埋めて軽く歯を立てて思わず体が跳ねる。百子の首に貼り付いた髪も一瞬待って雫をぱっと飛ばし、陽翔にそれが掛かってしまうが、彼は気にも留めていないようだ。
「陽翔、私まだちゃんと体拭いてな……んんっ」
首筋を弱く噛まれたことにも驚いたが、自分がまともに体を拭いていない状態を思い出して抗議する。その声すら陽翔の口の中に消えてしまい、百子は拳で彼の胸を何度か叩いた。
「もう! だめったら! 陽翔が濡れちゃう! ほら、シャツがびしょびしょじゃないの! そのままお風呂に入りなさい!」
彼の腕が緩んだので、百子は肩に引っ掛けていただけのバスタオルを頭から被る。陽翔の昏い瞳と目があって百子は息を呑んだが、彼の顔に手を伸ばしてゆっくりと頬を撫でてから、少しだけつま先立ちをして彼に口づけした。
「飲み会で何かあったんでしょ? お風呂の後にゆっくり聞かせて。もしお腹空いてるなら台所に作りたての味噌汁があるから」
百子は彼にそう言い残し、足早に脱衣所を出てそのドアを閉める。
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