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第一幕 胸に閉じ込める
染み渡る
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「お茶ごちそうさま。おかげで少し気分が楽になったよ。泊めてくれたり看病してくれたり、こうしてお茶まで……何から何までありがとう。明日か明後日にはここを出るようにするね」
百子は深く頭を下げて感謝の意を述べたが、陽翔の顔は強張ったままだった。
「駄目だ。あんまり具合が良さそうにも見えないし、家に帰りたくないとか言ってたのにどうするつもりなんだよ。しかも不審者をお前の家にのさばらせたままなら、お前一人で太刀打ちできるのか?」
百子の顔から血の気がさっと引くのが分かった。それと同時にカップを持つ両手が震え、残ったハーブティーも小刻みに波を立てる。陽翔は明らかに様子がおかしい百子を見て、思わず彼女の隣に座った。
「悪い……何か気に触ったか? それとも嫌なことでも思い出したのか? もしかしてそいつに何かされたのか?」
百子はカップをテーブルに置いて首を振った。嫌なことを思い出したのも何かされたのも事実だが、その詳細を話そうとするとどういう訳か震えが止まらないのだ。
(でも……黙ってちゃだめ。東雲くんがここまでの厚意を見せてくれたのに、私が何も言わないでいたままなんて、そんなの卑怯だわ……)
百子が唇を噛んだのは一瞬のことだった。深呼吸を二回ほど繰り返してから、温度の感じられない瞳を陽翔に向けて、抑揚のない声でボソリと呟く。
「ちょっと話が長くなるけど……嫌な話だけど……話しても、いい?」
陽翔は百子の様子を見て眉を下げたが、力強く頷く。ちょっと待ってろと言って立ち上がると、台所から急須とマグカップを持ってきて元の位置に座り直した。
「長くなるなら茶を飲みながらの方がいいだろ。時間かかってもいいから話してくれ。ひょっとしたら俺も何とか協力くらいできるだろうし。せいぜい不審者を追っ払うために通報するくらいしかできないだろうがな」
「うん……あり、がと……多分警察はいらないと思うけどね」
陽翔が訳がわからなさそうな色を目に浮かべたので、百子は未だに残る頭痛に苛まれながら、ぽつりぽつりと昨日の出来事の詳細を話し始めた。昨日は休日出勤で会社に行ったが熱が出たので早退したこと、家に帰ったら知らない女性の靴があったこと、弘樹の浮気現場に遭遇したこと、証拠の画像や映像も取ったこと、それらを忘れたくて繁華街に行ったこと、そこで絡まれたことを詳細に話す。
陽翔は最初こそ訝しげに眉根を寄せていたが、浮気現場を押さえた話まで差し掛かると、段々と眉を釣り上げていった。
「お前の彼氏、ずいぶんとふざけたことをしてくれたんだな……! 確かに警察沙汰にはならないが、聞いてて吐き気がする……! 帰りたくないのも納得だ」
陽翔は激高して握った拳をぶるぶると震わせる。まさか百子がそんな目に合っていたとは夢にも思っていないからだ。熱を出して帰ってきたのに、同棲している家に知らない女を連れ込まれて、しかも性行為の真っ最中を目撃してしまったなど、ショック以外の何物でもない。もし陽翔が同じような場面に出くわしたなら、逆上して暴れてしまう自信がある。
それなのに浮気現場を目撃してその場で怒り狂うこともなく、証拠を押さえて家を出た彼女のその行動には思わず舌を巻いた。
だが今の百子はそんな胆力を見せたのと同一人物だとは思えないほど憔悴している。今まで張り詰めた糸がふつりと切れてしまったのだろう。下を向いた百子から湿っぽい雰囲気を感じた陽翔は、一度席を外してタオルを持ってきて百子の膝の上に置き、小さな手にそれを握らせた。
「事情は分かった……それにしてもよく耐えたな。しばらく家には帰らない方がいいだろう。今帰っても浮気相手がいるかもしれないし、そいつに何を言われるかも分からないし。今頃お前のスマホには彼氏から山ほど連絡が来ているだろうし」
百子ははっと顔を上げる。その瞳は赤くなっていたが、百子は自分のカバンがどこにあるかを陽翔に問うた。
「……今は見ない方がいいと思うが」
「えっと……充電しないと多分駄目だと思うし、他の人からの連絡もあるかもしれないから……」
陽翔は苦い顔をしていたものの、充電の件を失念していたので、リビングの隅に置いてある彼女のカバンを渋々と持ってきて百子に渡す。
「ほら。充電はそこのコンセントを使っていいから」
陽翔の指差す方を見て、百子は小さく首を振った。
「そんな。流石にそこまで甘えられないよ。モバイルバッテリーを持ち歩いてるからそれで充電するし」
百子はカバンからシルバーのモバイルバッテリーを出して見せたが、却って陽翔の眉間の皺を深くさせるだけだった。
「俺はそこまでケチケチするつもりはねえよ。というかそのモバイルバッテリーだけでもたせようとしたら明日とかどうすんだ」
「そこは安心して。明日にはここを出ていくつもりだから。ちゃんと宿泊代も払うし」
百子はカバンを再び漁り、銀行のATMの横に置いてある封筒の中に一万円札を5枚入れてそれを陽翔に差し出す。
だが陽翔は思わず百子の華奢な腕を掴んだ。びくりとした彼女に構わず、彼は早口で言い募った。
「そんな体で何言ってんだよ。またぶっ倒れたらどうすんだ! まだ本調子じゃないのにめちゃくちゃ言いやがって! あと俺は別に対価もらうためにお前を助けたんじゃねえよ! ここを出たらどうやって生活するつもりだ!」
百子は深く頭を下げて感謝の意を述べたが、陽翔の顔は強張ったままだった。
「駄目だ。あんまり具合が良さそうにも見えないし、家に帰りたくないとか言ってたのにどうするつもりなんだよ。しかも不審者をお前の家にのさばらせたままなら、お前一人で太刀打ちできるのか?」
百子の顔から血の気がさっと引くのが分かった。それと同時にカップを持つ両手が震え、残ったハーブティーも小刻みに波を立てる。陽翔は明らかに様子がおかしい百子を見て、思わず彼女の隣に座った。
「悪い……何か気に触ったか? それとも嫌なことでも思い出したのか? もしかしてそいつに何かされたのか?」
百子はカップをテーブルに置いて首を振った。嫌なことを思い出したのも何かされたのも事実だが、その詳細を話そうとするとどういう訳か震えが止まらないのだ。
(でも……黙ってちゃだめ。東雲くんがここまでの厚意を見せてくれたのに、私が何も言わないでいたままなんて、そんなの卑怯だわ……)
百子が唇を噛んだのは一瞬のことだった。深呼吸を二回ほど繰り返してから、温度の感じられない瞳を陽翔に向けて、抑揚のない声でボソリと呟く。
「ちょっと話が長くなるけど……嫌な話だけど……話しても、いい?」
陽翔は百子の様子を見て眉を下げたが、力強く頷く。ちょっと待ってろと言って立ち上がると、台所から急須とマグカップを持ってきて元の位置に座り直した。
「長くなるなら茶を飲みながらの方がいいだろ。時間かかってもいいから話してくれ。ひょっとしたら俺も何とか協力くらいできるだろうし。せいぜい不審者を追っ払うために通報するくらいしかできないだろうがな」
「うん……あり、がと……多分警察はいらないと思うけどね」
陽翔が訳がわからなさそうな色を目に浮かべたので、百子は未だに残る頭痛に苛まれながら、ぽつりぽつりと昨日の出来事の詳細を話し始めた。昨日は休日出勤で会社に行ったが熱が出たので早退したこと、家に帰ったら知らない女性の靴があったこと、弘樹の浮気現場に遭遇したこと、証拠の画像や映像も取ったこと、それらを忘れたくて繁華街に行ったこと、そこで絡まれたことを詳細に話す。
陽翔は最初こそ訝しげに眉根を寄せていたが、浮気現場を押さえた話まで差し掛かると、段々と眉を釣り上げていった。
「お前の彼氏、ずいぶんとふざけたことをしてくれたんだな……! 確かに警察沙汰にはならないが、聞いてて吐き気がする……! 帰りたくないのも納得だ」
陽翔は激高して握った拳をぶるぶると震わせる。まさか百子がそんな目に合っていたとは夢にも思っていないからだ。熱を出して帰ってきたのに、同棲している家に知らない女を連れ込まれて、しかも性行為の真っ最中を目撃してしまったなど、ショック以外の何物でもない。もし陽翔が同じような場面に出くわしたなら、逆上して暴れてしまう自信がある。
それなのに浮気現場を目撃してその場で怒り狂うこともなく、証拠を押さえて家を出た彼女のその行動には思わず舌を巻いた。
だが今の百子はそんな胆力を見せたのと同一人物だとは思えないほど憔悴している。今まで張り詰めた糸がふつりと切れてしまったのだろう。下を向いた百子から湿っぽい雰囲気を感じた陽翔は、一度席を外してタオルを持ってきて百子の膝の上に置き、小さな手にそれを握らせた。
「事情は分かった……それにしてもよく耐えたな。しばらく家には帰らない方がいいだろう。今帰っても浮気相手がいるかもしれないし、そいつに何を言われるかも分からないし。今頃お前のスマホには彼氏から山ほど連絡が来ているだろうし」
百子ははっと顔を上げる。その瞳は赤くなっていたが、百子は自分のカバンがどこにあるかを陽翔に問うた。
「……今は見ない方がいいと思うが」
「えっと……充電しないと多分駄目だと思うし、他の人からの連絡もあるかもしれないから……」
陽翔は苦い顔をしていたものの、充電の件を失念していたので、リビングの隅に置いてある彼女のカバンを渋々と持ってきて百子に渡す。
「ほら。充電はそこのコンセントを使っていいから」
陽翔の指差す方を見て、百子は小さく首を振った。
「そんな。流石にそこまで甘えられないよ。モバイルバッテリーを持ち歩いてるからそれで充電するし」
百子はカバンからシルバーのモバイルバッテリーを出して見せたが、却って陽翔の眉間の皺を深くさせるだけだった。
「俺はそこまでケチケチするつもりはねえよ。というかそのモバイルバッテリーだけでもたせようとしたら明日とかどうすんだ」
「そこは安心して。明日にはここを出ていくつもりだから。ちゃんと宿泊代も払うし」
百子はカバンを再び漁り、銀行のATMの横に置いてある封筒の中に一万円札を5枚入れてそれを陽翔に差し出す。
だが陽翔は思わず百子の華奢な腕を掴んだ。びくりとした彼女に構わず、彼は早口で言い募った。
「そんな体で何言ってんだよ。またぶっ倒れたらどうすんだ! まだ本調子じゃないのにめちゃくちゃ言いやがって! あと俺は別に対価もらうためにお前を助けたんじゃねえよ! ここを出たらどうやって生活するつもりだ!」
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