29 / 46
「第六章」イーラの惨劇
「第二十九話」《回想》今も尚、疼く傷③
しおりを挟む
日が沈み始める空の下で、結ばれるべき二人を乗せた馬車が駆けている。一頭の馬が牽引するそれにはニンベルグ家の家紋が入っており、乗り心地は良いはずだった。
「……」
しかし、ソラはいい顔をしていなかった。寧ろ逆だ、とても苦しそうな、何かに怯えているような表情である。それは同乗しているジークにも分かることであったが、ソラは他人の目を気にしている余裕なんて無かった。──それよりも彼女は、膨らみ続ける悪い予感に震えていた。
「ソラ、大丈夫かい? 何かこう……僕が何かしちゃった?」
「急いで」
「え?」
ソラは身を乗り出すようにして、目の前のジークに言った。その様子は実に焦燥に駆られており、ただ事ではないという印象を強く与えた。
「嫌な予感がするの、お願い」
「……」
根拠もない、ただの「嫌な予感」でしかない。具体的に何なのか、どんな意味で言っているのかもジークには分からない。
「分かった、急ごう」
故に、ジークはソラを信じた。命の恩人であり、友人であり、最愛の妻である彼女の勘を信じたのである。彼は同じく不安に駆られ、剣士としての感覚を呼び覚ましつつあった。
馬の鳴き声とともに、馬車は加速した。
◇
土埃を立てながら、馬車はようやく屋敷に辿り着く。既に日は沈んでおり、辺りは暗く闇に包まれていた。夜が持つ静けさは、ソラの悪い予感をさらに加速させる。──そしてソラは、馬車の窓越しに何かを感じ取った。
人の声。──いいや、それは悲鳴だった。
騒がしい物音。──中で、何かが起きている。
「──っ!」
そんな訳がない、何かの間違いだと思いたかった。ずっとそうだった、この嫌な感じがする度にそう願ってきた。──だが、それはまたしても叶わない。予感は自分史上最悪の事実として顕現してしまったのだから。
「待って」
走り出そうとするソラの腕を、ジークは強く掴んだ。ソラはそれでも屋敷の方へと走ろうとして、しかし彼もまたそれを強く引き寄せた。抱きしめるような、羽交い締めにするような形でソラを押さえつける。
「離して、お願い! 分かるの、あの中でお兄様が戦ってる!」
「何を言ってるんだ、君が行ったところで何の解決にもならない! 状況も敵の数も分からない、おまけに自分の身さえ満足に守れないんだぞ!? ──だから」
ジークはソラの目を見ながら、その方を強く優しく掴んだ。彼の中での戦意と、それ以上の覚悟が練り上げられていくのをソラは感じていた。そして、これまで感じたことがないほどの恐怖を抱いた。
「僕が行く」
「……だめ」
「腐っても僕はニンベルグ家の『剣聖』なんだ、絶対に負けない。父さんも言ってたじゃないか、勝つだけじゃなくて守れるような強さを持てって……僕は、これから家族になる人たちを見捨てるような人間になりたくない。──君の伴侶として、恥じるような選択は嫌なんだ」
「だめ、ダメダメダメ! うまく言えない、うまく言えないけど駄目。行っちゃ駄目!」
既にあった予感の上に、更に重ねられた予感。それは居座っていた予感が可愛く思えるほど大きくて、重くて、叫びたくなるほどの恐怖をソラに叩きつけていた。それは未来か、はたまた極度の不安からなる幻覚なのか? 具体性を帯びてしまったそれは、遂にソラの頭の中に像を結んでしまった。
「──眠れ」
発狂寸前のソラを、とてつもない眠気が襲う。それは魔法だった、他の誰でもない、ジークがソラにかけた魔法だった。
(行かないで……)
「心配しないでよ、ソラ」
微睡む意識の中で、ソラは笑顔を見た。ジークの笑顔、自分を安心させようとする、彼のあったかい優しさだった。
(行っちゃ、駄目なの)
「僕は死なないし、誰も殺さないし死なせない。──真の最強とは、相手の誇りのみならず命をも尊重する。だから、信じて待っていてほしい」
その一言を最後に、ソラの意識は沈んでいく。穏やかな彼の笑みが、うっすらと見える惨状にそっくりそのまま重なっていた。
倒れる寸前にジークはソラを抱きかかえ、馬車の方へと歩いていく。扉を開けそうっと寝かしつけ、何の憂いもなく背を向けた時だった。ジークはその背中に寂しさと、悪夢にうなされているかのようなソラの声を受けた。──不完全な覚悟を確固たるものにするために、彼はその寝顔に口づけをした。
「……広く、強く笑う君が好きだった」
困惑している御者に持っていた金貨を数枚渡すと、馬車は勢いよく走り去っていく。段々と小さくなっていくそれを見送りながら、ジークはようやく覚悟を固めた。心残りなど消せるわけもない、この世への未練などありすぎて困る。
(だから、死なない。絶対に死んでたまるか)
虚空に叩きつけた拳、異空の亀裂から引き抜かれたそれは美しい剣だった。黄金の如き光を纏った鋼、古めかしさの中にある確固たる威厳。長さは彼の身の丈ほどあるその大剣は、神々しさをそのまま形にしたと思わせるほどの完成美を放っていた。──『聖剣』バルムンク。ニンベルグ家の秘伝にして、誇りの象徴。
ジークは己の死期を悟り、それでも尚覚悟を決めた。逃げるではなく立ち向かう、殺すではなく制す、勝つだけではなく守る。──欲張りに、そしてその先にある何かにさえ手を伸ばし続けて。
彼は、死地に赴いた。
「……」
しかし、ソラはいい顔をしていなかった。寧ろ逆だ、とても苦しそうな、何かに怯えているような表情である。それは同乗しているジークにも分かることであったが、ソラは他人の目を気にしている余裕なんて無かった。──それよりも彼女は、膨らみ続ける悪い予感に震えていた。
「ソラ、大丈夫かい? 何かこう……僕が何かしちゃった?」
「急いで」
「え?」
ソラは身を乗り出すようにして、目の前のジークに言った。その様子は実に焦燥に駆られており、ただ事ではないという印象を強く与えた。
「嫌な予感がするの、お願い」
「……」
根拠もない、ただの「嫌な予感」でしかない。具体的に何なのか、どんな意味で言っているのかもジークには分からない。
「分かった、急ごう」
故に、ジークはソラを信じた。命の恩人であり、友人であり、最愛の妻である彼女の勘を信じたのである。彼は同じく不安に駆られ、剣士としての感覚を呼び覚ましつつあった。
馬の鳴き声とともに、馬車は加速した。
◇
土埃を立てながら、馬車はようやく屋敷に辿り着く。既に日は沈んでおり、辺りは暗く闇に包まれていた。夜が持つ静けさは、ソラの悪い予感をさらに加速させる。──そしてソラは、馬車の窓越しに何かを感じ取った。
人の声。──いいや、それは悲鳴だった。
騒がしい物音。──中で、何かが起きている。
「──っ!」
そんな訳がない、何かの間違いだと思いたかった。ずっとそうだった、この嫌な感じがする度にそう願ってきた。──だが、それはまたしても叶わない。予感は自分史上最悪の事実として顕現してしまったのだから。
「待って」
走り出そうとするソラの腕を、ジークは強く掴んだ。ソラはそれでも屋敷の方へと走ろうとして、しかし彼もまたそれを強く引き寄せた。抱きしめるような、羽交い締めにするような形でソラを押さえつける。
「離して、お願い! 分かるの、あの中でお兄様が戦ってる!」
「何を言ってるんだ、君が行ったところで何の解決にもならない! 状況も敵の数も分からない、おまけに自分の身さえ満足に守れないんだぞ!? ──だから」
ジークはソラの目を見ながら、その方を強く優しく掴んだ。彼の中での戦意と、それ以上の覚悟が練り上げられていくのをソラは感じていた。そして、これまで感じたことがないほどの恐怖を抱いた。
「僕が行く」
「……だめ」
「腐っても僕はニンベルグ家の『剣聖』なんだ、絶対に負けない。父さんも言ってたじゃないか、勝つだけじゃなくて守れるような強さを持てって……僕は、これから家族になる人たちを見捨てるような人間になりたくない。──君の伴侶として、恥じるような選択は嫌なんだ」
「だめ、ダメダメダメ! うまく言えない、うまく言えないけど駄目。行っちゃ駄目!」
既にあった予感の上に、更に重ねられた予感。それは居座っていた予感が可愛く思えるほど大きくて、重くて、叫びたくなるほどの恐怖をソラに叩きつけていた。それは未来か、はたまた極度の不安からなる幻覚なのか? 具体性を帯びてしまったそれは、遂にソラの頭の中に像を結んでしまった。
「──眠れ」
発狂寸前のソラを、とてつもない眠気が襲う。それは魔法だった、他の誰でもない、ジークがソラにかけた魔法だった。
(行かないで……)
「心配しないでよ、ソラ」
微睡む意識の中で、ソラは笑顔を見た。ジークの笑顔、自分を安心させようとする、彼のあったかい優しさだった。
(行っちゃ、駄目なの)
「僕は死なないし、誰も殺さないし死なせない。──真の最強とは、相手の誇りのみならず命をも尊重する。だから、信じて待っていてほしい」
その一言を最後に、ソラの意識は沈んでいく。穏やかな彼の笑みが、うっすらと見える惨状にそっくりそのまま重なっていた。
倒れる寸前にジークはソラを抱きかかえ、馬車の方へと歩いていく。扉を開けそうっと寝かしつけ、何の憂いもなく背を向けた時だった。ジークはその背中に寂しさと、悪夢にうなされているかのようなソラの声を受けた。──不完全な覚悟を確固たるものにするために、彼はその寝顔に口づけをした。
「……広く、強く笑う君が好きだった」
困惑している御者に持っていた金貨を数枚渡すと、馬車は勢いよく走り去っていく。段々と小さくなっていくそれを見送りながら、ジークはようやく覚悟を固めた。心残りなど消せるわけもない、この世への未練などありすぎて困る。
(だから、死なない。絶対に死んでたまるか)
虚空に叩きつけた拳、異空の亀裂から引き抜かれたそれは美しい剣だった。黄金の如き光を纏った鋼、古めかしさの中にある確固たる威厳。長さは彼の身の丈ほどあるその大剣は、神々しさをそのまま形にしたと思わせるほどの完成美を放っていた。──『聖剣』バルムンク。ニンベルグ家の秘伝にして、誇りの象徴。
ジークは己の死期を悟り、それでも尚覚悟を決めた。逃げるではなく立ち向かう、殺すではなく制す、勝つだけではなく守る。──欲張りに、そしてその先にある何かにさえ手を伸ばし続けて。
彼は、死地に赴いた。
0
お気に入りに追加
78
あなたにおすすめの小説

魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。

もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。

断罪イベント返しなんぞされてたまるか。私は普通に生きたいんだ邪魔するな!!
柊
ファンタジー
「ミレイユ・ギルマン!」
ミレヴン国立宮廷学校卒業記念の夜会にて、突如叫んだのは第一王子であるセルジオ・ライナルディ。
「お前のような性悪な女を王妃には出来ない! よって今日ここで私は公爵令嬢ミレイユ・ギルマンとの婚約を破棄し、男爵令嬢アンナ・ラブレと婚姻する!!」
そう宣言されたミレイユ・ギルマンは冷静に「さようでございますか。ですが、『性悪な』というのはどういうことでしょうか?」と返す。それに反論するセルジオ。彼に肩を抱かれている渦中の男爵令嬢アンナ・ラブレは思った。
(やっべえ。これ前世の投稿サイトで何万回も見た展開だ!)と。
※pixiv、カクヨム、小説家になろうにも同じものを投稿しています。
婚約破棄からの断罪カウンター
F.conoe
ファンタジー
冤罪押しつけられたから、それなら、と実現してあげた悪役令嬢。
理論ではなく力押しのカウンター攻撃
効果は抜群か…?
(すでに違う婚約破棄ものも投稿していますが、はじめてなんとか書き上げた婚約破棄ものです)
婚約破棄された悪役令嬢。そして国は滅んだ❗私のせい?知らんがな
朋 美緒(とも みお)
ファンタジー
婚約破棄されて国外追放の公爵令嬢、しかし地獄に落ちたのは彼女ではなかった。
!逆転チートな婚約破棄劇場!
!王宮、そして誰も居なくなった!
!国が滅んだ?私のせい?しらんがな!
18話で完結

冤罪をかけられた上に婚約破棄されたので、こんな国出て行ってやります
真理亜
恋愛
「そうですか。では出て行きます」
婚約者である王太子のイーサンから謝罪を要求され、従わないなら国外追放だと脅された公爵令嬢のアイリスは、平然とこう言い放った。
そもそもが冤罪を着せられた上、婚約破棄までされた相手に敬意を表す必要など無いし、そんな王太子が治める国に未練などなかったからだ。
脅しが空振りに終わったイーサンは狼狽えるが、最早後の祭りだった。なんと娘可愛さに公爵自身もまた爵位を返上して国を出ると言い出したのだ。
王国のTOPに位置する公爵家が無くなるなどあってはならないことだ。イーサンは慌てて引き止めるがもう遅かった。
ナイナイづくしで始まった、傷物令嬢の異世界生活
天三津空らげ
ファンタジー
日本の田舎で平凡な会社員だった松田理奈は、不慮の事故で亡くなり10歳のマグダリーナに異世界転生した。転生先の子爵家は、どん底の貧乏。父は転生前の自分と同じ歳なのに仕事しない。二十五歳の青年におまるのお世話をされる最悪の日々。転生チートもないマグダリーナが、美しい魔法使いの少女に出会った時、失われた女神と幻の種族にふりまわされつつQOLが爆上がりすることになる――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる