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5.【さよなら】Side穂花

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 夏休みの最終日まで、僕は店長のセクハラに耐えた。思い出すだけでも気持ちが悪い。仕事と忍耐の報酬は七万円だった。それが多いのか、少ないのか分からないけれど、初めて自分で稼いだお金というのは、とても嬉しいものだった。

 バイトからの帰り道、貰ったばかりの給料袋を誰かに取られないように、と僕は足早に歩いていた。いや、少し小走りだったかもしれない。

 スーパーから、さほど離れていない住宅街の角で前から知らない若い男が歩いて来た。柄が悪くマナーも悪い。歩きタバコをしている。知らないフリをしよう。話しかけないでくれよ?

「ちょっと、すみません」

 僕の心を読んだのだろうか? 男は僕の願いに反して、声を掛けてきた。

 一体、何なのだろうか。僕に何か用でもあるのだろうか。まさか、僕のお金を狙っているんじゃないよな?

「なんですか?」

 怯えるように言う僕に男はニコッと笑って近付いてきた。逃げないと、逃げ……

「すみません、ちょっとタバコ持ってて貰っても良いですか? 靴紐が解けちゃって」

 ──はぁ、なんだ、そんなことか……。

 確かに男の足元をチラッと見ると右足の靴紐が完全に解けていた。

「ああ、はい」

 歩きながらタバコなんて吸うなよ、とは思ったけれど、ホッとした僕は男の手から火のついたタバコを受け取った。男は高校生の僕に「すみません、本当に」なんて丁寧に謝りながら、解けた靴紐を直ぐに結び終えた。

「ありがとうございました」

 表情を変えぬまま、僕の手からタバコを受け取り、礼を言って男が去って行く。案外、悪い人でもなかったのかもしれない。本当に、ただ通りすがっただけ。

 また足早に歩き始め、暫くチラチラと後ろを振り返ったりしていたけれど、男は完全に消えたようだった。もう少しで、僕の通っている高校が見えてくる。そんな時だった。

「小岩井さん」

 今度は後ろから名前を呼ばれた。なんだか、今日はおかしい。こんなに矢継ぎ早に道端で人に声をかけられるなんて。とても嫌な予感がする。

 知り合いだろうか? と振り向くと、そこには見覚えのある人物が立っていた。

「ああ、確か新山の……」

 友達。いや、思い出した。一年の頃、何度も目の前のこいつの所為で無駄な学年集会が開かれた。どうでも良いから内容は覚えていないけれど、悪さをしたからだとか。

 高い身長と派手な金髪がやけに目立つ。

「そう、村上 純。同じ高校に通ってたんだけど覚えてない?」

 いつのまにか学校から消えていた人間の名前など、今更覚えてはいない。人のことを気にしていられるほど、僕の心に余裕などない。自分の性さえ、はっきり分からないのだ。

 自分を見つけるのに必死で、精一杯で……。

「ごめん、覚えてない」

 急いでるから、と僕は身を翻して走り出した。この人間に関わってはいけない。きっと、悪いことが起こる。

「待てよ!」

 走ったはずなのに、直ぐに追いつかれ、右手首を掴まれた。速い、強い……、これが男女の差……。胸が嫌悪感や虚無感でいっぱいになる。自分だって、本当は目の前の人間と同じになるはずだったのに。

「好きなんだ。新山と別れて、俺と付き合ってくれ」

 この男は僕をからかっているのだろうか。新山に彼女が出来たと思い込んで、負けたくないと思っているだけだろう?

「ごめん、無理。離して」

 絶対にこの男を好きになりはしない。もし、この男を好きになったとするならば、僕は男として男を好きになるのだ。女として扱われるのなら、それは嫌悪でしかない。

 可愛いという言葉はいらない。好きだという言葉も言いたくはない。力尽くで押し倒されるのも嫌だ。

「なんで、あいつが良いんだ?」

 ──こういうところだ。自分が一番だと思っているところ。僕だって、自分が一番だ。

「別に新山とは付き合ってない」

 ──友達、友達なんだ。僕の秘密を知る、唯一の。僕の苦しみを知る、唯一の。

「じゃあ、良いだろ?なんで、俺じゃダメなんだ?」

 ──きっと、お前じゃ僕を理解できない。

「離せ──」

「純! やめろ! 何してんだ?」

 まるでドラマに良くあるタイミングで新山がバイト先の制服姿で走って来た。何故、分かったのだろうか。気付いたのだろうか。

「嫌がってんだろ? 離せよ」

 肩で息をしながら近づいて来た新山が村上の腕を掴むと、それを払うように僕の手首からも手が離れていった。

「小岩井、行くぞ」

 新山に腕を引かれ、僕は一生懸命に足を動かした。

「やっぱり、付き合ってんじゃねぇか……。お前らなんか、不幸になっちまえ!」

 後ろで村上が、そう怒鳴り散らすのが聞こえたけれど、僕は足を動かし続けた。新山の足が止まるまで、ずっと。

「はぁ……、大丈夫か?」

 息を切らしながら、新山がパッと僕の腕を離した。高校を通り過ぎて、僕の家の近くまで来たところだった。

「なんで分かったんだ?」

 まるで物語の一コマのように、何故、ヒーローのように現れたのか。
 連絡なんてしてないのに。

「小岩井が店から出て行って直ぐに純が通ったんだよ。あいつがお前のこと狙ってるのも知ってたから、躊躇ったけど、結局後追って走って来た」

 走って来た理由は、それだったのか。僕に気を使ってくれたのか。でも……

「そうか……、ありがとう。自分でどうにか出来ないなんて、恥ずかしいよな……」

 本当なら、一人でどうにか出来る。力になど負けない。本当の僕なら、きっと。目をつけられることも無かった。
 僕の身体が女じゃなければ……。

「気にすんなよ、俺の所為だ。ごめんな」

「謝んな。……それより、お前、バイトは?」

 店長には、ちゃんと言ってきたのだろうか? まさか、最終日だからって、このままばっくれるつもりじゃないよな?

「戻るよ、お前の家見てからな。理想の一軒家が見てみたい」

 ニカッと笑った新山が、勝手に前を歩き出す。場所など知らないくせに。

「別に凄くもなんともないぞ? まあ、良いけど」

 分かっている。本当は危ないと思ってるんだろう? 送ろうと思ったのだろう? 分かってる。知ってる。お前が優しいのは知ってる。

 優しさが痛い。
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