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春の思い出
第二話『花宴』
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みゆき坂下の交差点は今日も赤信号だった。
交差点の南西角の閉店時間を過ぎたパン屋の二階からは聞き覚えのある優しいピアノ曲が流れてくる。
「悲愴だよ。入学早々赤信号だな。春休み中は何やってィクシン!」明は小言を全部言い終える前に派手なくしゃみを披露する。
制服ズボンとトレーナーの上に詰襟をジャケットみたいに羽織って、けど、右耳の上あたりには寝癖がついていた。
提出前日に新品の『中学まとめワーク』を見つけた僕は、明に泣きついたんだ。
「春って言っても夜はまだ寒いな。温ったかいコーヒーくらい奢れよ? 緑のヤツ。そもそも、結構な物量だ。今からやって間に合うのか?」
「今日は写して…… 返ってきたら見直すよ」
ピアノはどんどん不安な印象に変わって焦燥感を煽ったけど、信号はちゃんと青になった。
午後十時三十分の店内では、駐車場からも見える本棚の前で黒いキャミソールにデニムホットパンツを合わせた金髪の女性がファッション誌を立ち読みしているくらいで、他に客はいなかった。
天井から吊るされているカラフルなポスターが『フィンランドフェア開催中』と宣伝していて、キャンペーンコーナーのハート型のドーナツや風変わりなお菓子はもちろん、いつもとの違いが分からないサーモン弁当や惣菜パンなんかにも青十字のシールが貼られていた。
「今年は南米産のシルバーサーモンが安いらしい。どうせ便乗商法だろ?」と、明は今日も夢が広がらなさそうな裏事情を推察する。
「フィンランドって南米の国だっけ?」
僕の率直な質問に、明は溜息だけで答えた。
ホットショーケースの缶コーヒーを二本指でつまむと、すぐに店員がレジに回り込んでくれた。
「119円になります」消費税を入れるとそんな値段になる。
『いざという時には必ず助けに行きます。でも、気軽に呼んだりしないように』
春休みの終わりに明と菜摘と三人で行った救命講習で、救助隊の指導官がそう言った。明が119円にこだわるようになったのは、あの日からだった気がする。
「じゃ、俺は先に帰るからな。ワークは宅配ボックスでいい」
明が押した扉の隙間から、またピアノが聴こえてきた。そのメロディーは悲しげで、それでいて軽やかで……
「そうだ。晴史はもう、部活は決めたか? 俺は、演劇部に入ることにした」
明の言葉尻に合わせて“ガーン”と低い音を鳴らしたピアノは、そのままパラパラと崩れていく。
僕が質問の答えを見つけるより前にガラス扉は閉まった。
「部活なんて、考えたこともなかった」
僕の呟きは、ガラスを隔てたずっと向こうの背中になんて届きはしない。
明は飲みもしない緑の缶コーヒーをビニール袋のままブラブラさせながら信号を待って、それから通りを渡って暗がりに消えた。
白いレースアップサンダルがコンビニの入店チャイムを鳴らしたのは、四十八ページ目のコピーボタンを押した時だった。
瑠璃色の膝上丈ワンピースは、滑らかなボリュームの中に素肌色のシルエットを浮かべるほど柔らかくて、薄くて、僕の視線は無意識にその悩ましいラインを下から上へと辿っていく……
「あ。」
それは、世界一単純な友好の挨拶だ。
けど、あの艶やかな黒髪は、僕と目が合ってしまった今夜の不幸をなかった事にしたいかのように、見覚えのある横顔を覆い隠した。
コピー機から漏れ出た鮮緑の光が右から左へと流れていく。
「……」
偶然か意図してか、瑠璃色のワンピースはちょうど金髪さんの影に隠れてしまった。
「ちょっとトイレに行くだけだ……」
僕は自分の中でわざわざそんな言い訳してから歩き出した。
福井さんは唇を尖らせて立ち読みしていたけど、思った通り、僕の存在を無視し続ける算段らしい。僕なんかにはお構いなしにページをめくる。
もしかすると、伝説の吸血鬼の正体なんて僕みたいなどうしようもないポンコツなのかもしれない。そんなことを考えてしまうほどに福井さんの首筋は綺麗だった。
そんな肩越しに見えた雑誌の見開きには、すぐ隣にある生え際の黒い金髪とは全然違う金髪碧眼の美少女がビキニ姿でポーズをとっている。
単なる印刷物と目が合っただけでも僕は動揺して、浅葱色の瞳から目を逸らした。
無表情で日本人形みたいな福井さんが、白いビキニ姿で弾けるような笑顔を見せる金髪美少女のグラビアを見つめる。ご飯の上にジャムを乗せたみたいなミスマッチを感じながら、僕は福井さんのほんの十センチ後ろを素通りした。
「福井さんはワークやった? 僕は明日が提出なの、すっかり忘れててさ……」
鏡の前でそんな台詞を練習してからトイレを出ると、福井さんは高級アイスのショーケースに文字通りべったりとへばりついていた。
僕はそれだけで意気消沈して、瑠璃色のヒップラインを遠目にすごすごとコピー機前に撤退する。ほかに道は残されていなかった。
さっきまで福井さんが読んでいた『週刊ゴールド五月号』の表紙は去年テレビの企画でデビューしたスピカと言うアイドルで、けど、その笑顔のすぐ下には『止まらない?! 青少年に蔓延する薬物汚染』と白抜きの太ゴシックで書いてある。
記事の内容は想像できるけど、実際に青少年に分類される僕から見ると、それは遠い別世界の出来事でしかない。青少年はテレビで言うほど悲愴じゃない。かといって、青少年はドラマみたいに夢や希望を抱いたりもしない。リアルな青少年は、もっと平凡で、もっと普通で、もっと退屈なんだ。
福井さんは、僕と関わりたくないから適当に雑誌を手に取ったのかもしれない。そんな可能性を思いついたのは、いつの間にか金髪さんの影の向こうに瑠璃色のスカートの裾が見えたからだ。
コンビニのBGMは午前零時をまたいで僕の知らない歌謡曲を歌う。この四角い世界には今日が昨日になった実感なんてどこにもないんだから、仮に人生の日記帳に同じページが何枚かあったとしても、僕はきっと気付かない。
僕が気付いたことといえば、なぜかコピー機が英語ワークの四十九ページだけを五枚も吐き出していたということくらいだ。
ガラスの向こうにあの缶コーヒーと同じ深緑色のセダンが停まって、ヘッドライトが消える。
シックな煉瓦色の革靴に高そうな濡羽色のスーツ、左手に大きな腕時計と結婚指輪をはめたその男は、三十代か四十代。僕にはそれくらいの年齢に見えた。
「やぁ、待たせてしまったかな?」
男は入店チャイムがまだ鳴りやまないうちに金髪さんの背中に声を掛けた。
僕の感想は『やっぱりな』の一言だ。
黒いキャミソールの肩口に真紅のストラップが見えていても気にしないような金髪さんなら、それくらい十分にあり得る。
「は? おっさん、誰よ?」
振り向いた金髪さんは見た目そのままの物言いで、けど、予想とは正反対の返事をしたんだ。
「あぁ、すみません。人違いでした」
男は頭を下げて丁寧な口調で詫びる。
僕がなによりショックだったのは、それに続いた「結衣です」という響きが、教室を支配したあの声そのままだったからだ。
「すまない」男は気まずそうに頭を掻いて「間違えてしまったよ」と笑みをこぼす。
教室の福井さんは、いつも憂鬱な顔をしている。けど、あの男と腕を組む福井さんはそんな『いつも通り』の自分らしさを忘れてしまったのか、真っ黒に淀んでいるはずの瞳を三日月みたいな細くて緩いカーブに変えていた。それはどこかで見たような気がする、まさに弾けるような笑顔だったんだ。
コンビニを出ていく福井さんとは、もう目が合うことはなかった。
中年男は、右手に緑の缶コーヒーと白黒のチェック柄のタバコサイズの箱が透けて見えるビニール袋を、左腕には福井さんをぶら下げて、またあの入店チャイムを鳴らした。
駐車場の暗がりで抱き合うふたりを出来るだけ見ないようにして、僕は一心不乱にワークブックをコピーした。しばらくするとヘッドライトがふたつ、グルりと回って暗闇に消えていった。
カレーパンとコーヒー牛乳を買ってコンビニを出ると、交差点のパン屋はすでにシャッターをあげて明かりもつけていた。空っぽの木棚にもうすぐ並ぶパンを想像するだけで、本格ビーフカレーを使ったカレーパンの香りが交差点にまで漂っている気がする。
だからと言って、コンビニでカレーパンを買ったことを後悔したわけじゃない。どうせこのパン屋が店を開けるのは五時四十五分ごろなんだから。
自転車を押して坂を少し登った先に明が住む高層マンションがある。エントランス裏にある宅配ボックスに0119の暗証番号でワークブックを返した。
「一度家に帰るか、それとも……」
四時を少し過ぎたまだ暗い空にもどことなく朝の色が混ざっている気がして、僕は自転車を漕ぎ出した。
朝食が要らないことも朝の農作業をサボることもメッセージで自宅に伝えたけど、両方とも小言の対象になるのは間違いない。
それに制服も昨日の朝から着た切り雀だから、だれかが『アンタ臭い』とか話しかけてくれるかもしれない。
みゆき坂下から国道七十七号線を南に4キロ、月代口駅前の交差点を西に曲がって緩い坂を登ったところに月代台高校の正門はある。
けど、正門は鉄扉を閉ざしていて、校舎どころか校庭にさえ入れそうになかった。
『遅刻しないためには教室で寝てればいい』そんな作戦が通用するのは、空想の高校だけなのだと思い知る。
結局、僕は通用門まで回ってその前に自転車を止めて、長い階段を登った。
「徹夜かぁ……」
福井さんには多分、クラスに友達が居ないと思う。けど、そんな学校生活を選んだのも福井さんだ。
『一万円で、どこまでオッケーなのさ?』
火遊びの相手が息を呑むほどの美少女だと知った瞬間、あの男はどんな気分だっただろう? 男に組み敷かれたまま天井をじっと見つめる夜。そうやって福井さんのあの目は、少しずつ、少しずつ、黒く淀んでいくのかもしれない。
三百六十五段の階段を登りながら、僕はそんなくだらない妄想を巡らせていた。
『あの丘の公園』の見晴らし広場に咲くチューリップは満開を少し過ぎたらしく、生け垣の手前に煉瓦で囲った花壇に花弁が数枚落ちていた。
「結局はさ、綺麗だから愛されてるだけなんだろ?」
僕は開きすぎた花首を片っ端から毟《むし》りとった。
「葉と茎だけのチューリップになんて、誰も見向きはしないんだから」
自分でそう言ってから、僕も綺麗な福井さんに欲情しただけなんだと痛感した。
「俺が友達になってもやってもいいけど?」
手の中のチューリップを空にばら撒いて、花吹雪の中で告白してみる。
白んできた東の空には、うっすらとぼやけて霞む細い月が見えていた。有明の月は、太陽に追われて消える儚い月だ。
今からでも家に戻って、制服を着替える方がいいような気もしたけど、僕はバームクーヘンに腰掛けて文庫本を開いた。
世に知らぬ 心地こそすれ 有明の
月の行方を 空にまがへて
[第八帖 花宴]
奔放で美しい姫君と出会った光源氏が、素性も分からない彼女を有明の朧月に擬えて詠んだ歌。それそれの愛すべき人は他にいるというのに、それでも心惹かれ合う。そんな浮ついた物語の最後に、朧月夜の姫君は自分を愛してくれる人を求め、源氏の元を去ってしまう。
あれが失敗談なのか美しい回想記なのかは、僕には分からない。
「けど…… 他に好きな子がいるんだ」
僕とはなんの関係もない隣の席のクラスメイトに、それでも僕は清廉でいて欲しいと願っている。そんな気持ちは、どこかで『好き』と似ていた。
足元に撒き散らした花弁はレジ袋に拾い集める。
チューリップでいっぱいになったコンビニ袋は、それでもカレーパンの匂いがしていた。もしかすると昔の人が僕と同じことをしてチューリップを鬱金香と名付けたのかもしれないと思うくらいに。
結局、僕にはやっぱりチューリップの香りは分からないんだ。
朝の教室で、ホームルーム開始のチャイムギリギリに教室に来た福井さんの目はやっぱりドロリと濁っていた。けど、だらしなく半開きの、それでも綺麗なあの唇が、僕に向かって確かに「おはよう」と動いた。
本当に眠かったから、ちゃんと「おはよう」と返すことができたのかどうかは、よく覚えていない。
交差点の南西角の閉店時間を過ぎたパン屋の二階からは聞き覚えのある優しいピアノ曲が流れてくる。
「悲愴だよ。入学早々赤信号だな。春休み中は何やってィクシン!」明は小言を全部言い終える前に派手なくしゃみを披露する。
制服ズボンとトレーナーの上に詰襟をジャケットみたいに羽織って、けど、右耳の上あたりには寝癖がついていた。
提出前日に新品の『中学まとめワーク』を見つけた僕は、明に泣きついたんだ。
「春って言っても夜はまだ寒いな。温ったかいコーヒーくらい奢れよ? 緑のヤツ。そもそも、結構な物量だ。今からやって間に合うのか?」
「今日は写して…… 返ってきたら見直すよ」
ピアノはどんどん不安な印象に変わって焦燥感を煽ったけど、信号はちゃんと青になった。
午後十時三十分の店内では、駐車場からも見える本棚の前で黒いキャミソールにデニムホットパンツを合わせた金髪の女性がファッション誌を立ち読みしているくらいで、他に客はいなかった。
天井から吊るされているカラフルなポスターが『フィンランドフェア開催中』と宣伝していて、キャンペーンコーナーのハート型のドーナツや風変わりなお菓子はもちろん、いつもとの違いが分からないサーモン弁当や惣菜パンなんかにも青十字のシールが貼られていた。
「今年は南米産のシルバーサーモンが安いらしい。どうせ便乗商法だろ?」と、明は今日も夢が広がらなさそうな裏事情を推察する。
「フィンランドって南米の国だっけ?」
僕の率直な質問に、明は溜息だけで答えた。
ホットショーケースの缶コーヒーを二本指でつまむと、すぐに店員がレジに回り込んでくれた。
「119円になります」消費税を入れるとそんな値段になる。
『いざという時には必ず助けに行きます。でも、気軽に呼んだりしないように』
春休みの終わりに明と菜摘と三人で行った救命講習で、救助隊の指導官がそう言った。明が119円にこだわるようになったのは、あの日からだった気がする。
「じゃ、俺は先に帰るからな。ワークは宅配ボックスでいい」
明が押した扉の隙間から、またピアノが聴こえてきた。そのメロディーは悲しげで、それでいて軽やかで……
「そうだ。晴史はもう、部活は決めたか? 俺は、演劇部に入ることにした」
明の言葉尻に合わせて“ガーン”と低い音を鳴らしたピアノは、そのままパラパラと崩れていく。
僕が質問の答えを見つけるより前にガラス扉は閉まった。
「部活なんて、考えたこともなかった」
僕の呟きは、ガラスを隔てたずっと向こうの背中になんて届きはしない。
明は飲みもしない緑の缶コーヒーをビニール袋のままブラブラさせながら信号を待って、それから通りを渡って暗がりに消えた。
白いレースアップサンダルがコンビニの入店チャイムを鳴らしたのは、四十八ページ目のコピーボタンを押した時だった。
瑠璃色の膝上丈ワンピースは、滑らかなボリュームの中に素肌色のシルエットを浮かべるほど柔らかくて、薄くて、僕の視線は無意識にその悩ましいラインを下から上へと辿っていく……
「あ。」
それは、世界一単純な友好の挨拶だ。
けど、あの艶やかな黒髪は、僕と目が合ってしまった今夜の不幸をなかった事にしたいかのように、見覚えのある横顔を覆い隠した。
コピー機から漏れ出た鮮緑の光が右から左へと流れていく。
「……」
偶然か意図してか、瑠璃色のワンピースはちょうど金髪さんの影に隠れてしまった。
「ちょっとトイレに行くだけだ……」
僕は自分の中でわざわざそんな言い訳してから歩き出した。
福井さんは唇を尖らせて立ち読みしていたけど、思った通り、僕の存在を無視し続ける算段らしい。僕なんかにはお構いなしにページをめくる。
もしかすると、伝説の吸血鬼の正体なんて僕みたいなどうしようもないポンコツなのかもしれない。そんなことを考えてしまうほどに福井さんの首筋は綺麗だった。
そんな肩越しに見えた雑誌の見開きには、すぐ隣にある生え際の黒い金髪とは全然違う金髪碧眼の美少女がビキニ姿でポーズをとっている。
単なる印刷物と目が合っただけでも僕は動揺して、浅葱色の瞳から目を逸らした。
無表情で日本人形みたいな福井さんが、白いビキニ姿で弾けるような笑顔を見せる金髪美少女のグラビアを見つめる。ご飯の上にジャムを乗せたみたいなミスマッチを感じながら、僕は福井さんのほんの十センチ後ろを素通りした。
「福井さんはワークやった? 僕は明日が提出なの、すっかり忘れててさ……」
鏡の前でそんな台詞を練習してからトイレを出ると、福井さんは高級アイスのショーケースに文字通りべったりとへばりついていた。
僕はそれだけで意気消沈して、瑠璃色のヒップラインを遠目にすごすごとコピー機前に撤退する。ほかに道は残されていなかった。
さっきまで福井さんが読んでいた『週刊ゴールド五月号』の表紙は去年テレビの企画でデビューしたスピカと言うアイドルで、けど、その笑顔のすぐ下には『止まらない?! 青少年に蔓延する薬物汚染』と白抜きの太ゴシックで書いてある。
記事の内容は想像できるけど、実際に青少年に分類される僕から見ると、それは遠い別世界の出来事でしかない。青少年はテレビで言うほど悲愴じゃない。かといって、青少年はドラマみたいに夢や希望を抱いたりもしない。リアルな青少年は、もっと平凡で、もっと普通で、もっと退屈なんだ。
福井さんは、僕と関わりたくないから適当に雑誌を手に取ったのかもしれない。そんな可能性を思いついたのは、いつの間にか金髪さんの影の向こうに瑠璃色のスカートの裾が見えたからだ。
コンビニのBGMは午前零時をまたいで僕の知らない歌謡曲を歌う。この四角い世界には今日が昨日になった実感なんてどこにもないんだから、仮に人生の日記帳に同じページが何枚かあったとしても、僕はきっと気付かない。
僕が気付いたことといえば、なぜかコピー機が英語ワークの四十九ページだけを五枚も吐き出していたということくらいだ。
ガラスの向こうにあの缶コーヒーと同じ深緑色のセダンが停まって、ヘッドライトが消える。
シックな煉瓦色の革靴に高そうな濡羽色のスーツ、左手に大きな腕時計と結婚指輪をはめたその男は、三十代か四十代。僕にはそれくらいの年齢に見えた。
「やぁ、待たせてしまったかな?」
男は入店チャイムがまだ鳴りやまないうちに金髪さんの背中に声を掛けた。
僕の感想は『やっぱりな』の一言だ。
黒いキャミソールの肩口に真紅のストラップが見えていても気にしないような金髪さんなら、それくらい十分にあり得る。
「は? おっさん、誰よ?」
振り向いた金髪さんは見た目そのままの物言いで、けど、予想とは正反対の返事をしたんだ。
「あぁ、すみません。人違いでした」
男は頭を下げて丁寧な口調で詫びる。
僕がなによりショックだったのは、それに続いた「結衣です」という響きが、教室を支配したあの声そのままだったからだ。
「すまない」男は気まずそうに頭を掻いて「間違えてしまったよ」と笑みをこぼす。
教室の福井さんは、いつも憂鬱な顔をしている。けど、あの男と腕を組む福井さんはそんな『いつも通り』の自分らしさを忘れてしまったのか、真っ黒に淀んでいるはずの瞳を三日月みたいな細くて緩いカーブに変えていた。それはどこかで見たような気がする、まさに弾けるような笑顔だったんだ。
コンビニを出ていく福井さんとは、もう目が合うことはなかった。
中年男は、右手に緑の缶コーヒーと白黒のチェック柄のタバコサイズの箱が透けて見えるビニール袋を、左腕には福井さんをぶら下げて、またあの入店チャイムを鳴らした。
駐車場の暗がりで抱き合うふたりを出来るだけ見ないようにして、僕は一心不乱にワークブックをコピーした。しばらくするとヘッドライトがふたつ、グルりと回って暗闇に消えていった。
カレーパンとコーヒー牛乳を買ってコンビニを出ると、交差点のパン屋はすでにシャッターをあげて明かりもつけていた。空っぽの木棚にもうすぐ並ぶパンを想像するだけで、本格ビーフカレーを使ったカレーパンの香りが交差点にまで漂っている気がする。
だからと言って、コンビニでカレーパンを買ったことを後悔したわけじゃない。どうせこのパン屋が店を開けるのは五時四十五分ごろなんだから。
自転車を押して坂を少し登った先に明が住む高層マンションがある。エントランス裏にある宅配ボックスに0119の暗証番号でワークブックを返した。
「一度家に帰るか、それとも……」
四時を少し過ぎたまだ暗い空にもどことなく朝の色が混ざっている気がして、僕は自転車を漕ぎ出した。
朝食が要らないことも朝の農作業をサボることもメッセージで自宅に伝えたけど、両方とも小言の対象になるのは間違いない。
それに制服も昨日の朝から着た切り雀だから、だれかが『アンタ臭い』とか話しかけてくれるかもしれない。
みゆき坂下から国道七十七号線を南に4キロ、月代口駅前の交差点を西に曲がって緩い坂を登ったところに月代台高校の正門はある。
けど、正門は鉄扉を閉ざしていて、校舎どころか校庭にさえ入れそうになかった。
『遅刻しないためには教室で寝てればいい』そんな作戦が通用するのは、空想の高校だけなのだと思い知る。
結局、僕は通用門まで回ってその前に自転車を止めて、長い階段を登った。
「徹夜かぁ……」
福井さんには多分、クラスに友達が居ないと思う。けど、そんな学校生活を選んだのも福井さんだ。
『一万円で、どこまでオッケーなのさ?』
火遊びの相手が息を呑むほどの美少女だと知った瞬間、あの男はどんな気分だっただろう? 男に組み敷かれたまま天井をじっと見つめる夜。そうやって福井さんのあの目は、少しずつ、少しずつ、黒く淀んでいくのかもしれない。
三百六十五段の階段を登りながら、僕はそんなくだらない妄想を巡らせていた。
『あの丘の公園』の見晴らし広場に咲くチューリップは満開を少し過ぎたらしく、生け垣の手前に煉瓦で囲った花壇に花弁が数枚落ちていた。
「結局はさ、綺麗だから愛されてるだけなんだろ?」
僕は開きすぎた花首を片っ端から毟《むし》りとった。
「葉と茎だけのチューリップになんて、誰も見向きはしないんだから」
自分でそう言ってから、僕も綺麗な福井さんに欲情しただけなんだと痛感した。
「俺が友達になってもやってもいいけど?」
手の中のチューリップを空にばら撒いて、花吹雪の中で告白してみる。
白んできた東の空には、うっすらとぼやけて霞む細い月が見えていた。有明の月は、太陽に追われて消える儚い月だ。
今からでも家に戻って、制服を着替える方がいいような気もしたけど、僕はバームクーヘンに腰掛けて文庫本を開いた。
世に知らぬ 心地こそすれ 有明の
月の行方を 空にまがへて
[第八帖 花宴]
奔放で美しい姫君と出会った光源氏が、素性も分からない彼女を有明の朧月に擬えて詠んだ歌。それそれの愛すべき人は他にいるというのに、それでも心惹かれ合う。そんな浮ついた物語の最後に、朧月夜の姫君は自分を愛してくれる人を求め、源氏の元を去ってしまう。
あれが失敗談なのか美しい回想記なのかは、僕には分からない。
「けど…… 他に好きな子がいるんだ」
僕とはなんの関係もない隣の席のクラスメイトに、それでも僕は清廉でいて欲しいと願っている。そんな気持ちは、どこかで『好き』と似ていた。
足元に撒き散らした花弁はレジ袋に拾い集める。
チューリップでいっぱいになったコンビニ袋は、それでもカレーパンの匂いがしていた。もしかすると昔の人が僕と同じことをしてチューリップを鬱金香と名付けたのかもしれないと思うくらいに。
結局、僕にはやっぱりチューリップの香りは分からないんだ。
朝の教室で、ホームルーム開始のチャイムギリギリに教室に来た福井さんの目はやっぱりドロリと濁っていた。けど、だらしなく半開きの、それでも綺麗なあの唇が、僕に向かって確かに「おはよう」と動いた。
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