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春の思い出

中学一年 春

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 落書きを消した跡が残る教室の扉には、イラスト入りの座席表が貼ってある。僕の席は窓から二列目の五番目だ。
 中学生にもなるとさすがにみんな落ち着いていて、先月まで小学校ではしゃいでいた連中さえどこか大人びて見える。僕もどこかでまだ、そんな新しい四角い世界を楽しみにしていたような気がする。
「わぁ。ホントに女子が窓際なんだ。ラッキ~」
 左隣の机にバッグを置いたのは菜摘だった。小学校は一学年いちがくねんにひとクラスだけだったから、毎年春になるとこんな風に、必ず隣に菜摘がいた。
 入学式で早くも友達を作ったのか、幼馴染の俵木たわらぎ田守たもりの他にも知らない女子が二人、菜摘の席をとり囲んでの女子会が始まっている。
 菜摘がやたらと周りに人を集めてしまうのは、きっと親からの遺伝だと思う。
 窓際の列を女子にするのも、学校が荒れた時代からの遺伝らしい。ガラスを割ったり窓から外出するような生徒は、大抵男子だったんだそうだ。
 僕は机に置かれていた名札を胸につけて、胸から外した入学式のリボンバラを分解してみた。あんなに複雑な花飾りも、真ん中のピンを外すだけでシンプルな一本の長いリボンになる。
「菜摘、見てよこれ。バラを分解したらリボン一本になった!」
 知らないふたりが居なければ、すぐ隣の菜摘にそんなことを言えたと思う。
 すぐに荻畑おぎはたが「先生来た」と僕の前の席に着席して、女子会も解散する。椅子ごと出張してきていた田守もガリガリと音を立てて後ろの自分の机へと撤退していった。
 残った菜摘の横顔が妙に大人びて見えるのは、パリッと真新しい白い丸襟のせいに決まってる。それだけだ。中学生になったっていうのに、世界はなにひとつ変わってないんだから……
「がっかり。ちょっと、友達になれそうな先生じゃないよね」
「最悪だね。あの先生、家で電車の模型作ってそう」
 斜め右後ろから、ひそひそと話す俵木と田守の声がした。
 出席をとる寺岡先生は見るからに“地味な中年”って感じで、テレビも歌も日常も、僕らとの共通の話題はなさそうに見える。
 ボロボロのアパートで、独りでカップラーメンを作るのが似合いそうなんだ。


 先生は、ひとりひとりの顔を確かめながら名前を読み上げ始めた。
「五番、カザカミハルフミさん」
「はい」
「六番、オギハタジロウさん」
「へーい」いつも通りの荻畑だ。きっと荻畑は緊張なんてしないのだろう。
 漫画やアニメの学校では、入学式の後に自己紹介をする。
 まずは名前を言う。出身小学校を言う。趣味なんて人には言えない内容ばかりだから、好きなものはカレーパンだと紹介する。そんなシーンを想像して恐怖していた僕にとっては、とんだ肩透かしだ。
「二十七番、タモリミカさん」
「はーい」田守はやる気のない返事をした。
「次は…… 二十八番、タワラギミカさん」
「はい」俵木は冷めた返事をした。
「二十九番、トキヒサマシキさん」
 僕の右隣は空席だった。
 一年三組という四角い世界はすっきりと広くて、けど、思ったほど新鮮じゃなかった。


 僕の目の前に『運命の扉』が現れたのは、それから二週間ほど経った頃だった。
「では、五番の……風上さん」
 扉の向こうで先生が僕を呼ぶ。
「あれ? そういえば、風上はトイレだろ? 遅っそいな」
「ウンコしてんじゃねぇの?」
 素っ頓狂な声と、それに続く嘲笑。注意する先生の声。
 月曜日の四時間目は担任の寺岡先生の授業で、先生の言葉は怒っているでも困っているでもない形式通りって感じの注意だ。それでも教室はすぐに落ち着きを取り戻して、花の仕組みを説明する寺岡先生の声が聞こえてくる。
 今はもう、テレビドラマのような学級崩壊の時代じゃない。先生を怒らせない程度に要領よく悪さするのが中学生らしさだ。ただ……
 このまま戻って『ウンコ君』なんて目で見られたら人生終わりだ。時代がどれほど回っても、常識というものはそうそう変わることはない。
 大便は、遥か平安の時代から悪だった。
『君こそ大便を一日中大事に貯め込んでるのかい? このウンコ野郎』なんて言い返せるのは、それこそ空想世界の中学校だけなんだ。
 僕は教室の扉に左手を掛けたまま考える。
 僕の家は農家で朝食が早いから、昼過ぎにはトイレに行きたくなる。明日も明後日もきっと昼休みが終わるとトイレに行きたくなると思う。
 爺ちゃんの時代は違ったのかもしれないけど、今の日本では〝いじる〟という言葉を使えば〝いじめ〟が裁判でも認められる世の中なんだ。
 過去の悪行を美化する俳優、身体的特徴を自虐する芸人、人のセンスを馬鹿にして生きるファッションリーダー。僕にはコンプライアンスの意味は分からないけど、あら捜しをして誰かを貶めて自分が上だと証明する。それが社会正義だ。
 政治家もそうやって生きている。
 要するに、この扉を開けると僕は死ぬと思った。けど、僕はまだ死にたくない。ただそれだけのことだ……
「これはサボりじゃない。窮屈な現代社会へのささやかな抵抗なんだ!」
 そうやって、中学一年生の僕は月曜日に究極の選択をした。それも正義なのだと信じたかっただけかもしれないけど……
 ブロケードっていう人気漫画の〝アウトロー〟に少し憧れてたっていうのも、確かにある。金髪ヤンキーの金次は、いつも学校を抜け出して川べりで授業をサボる。
「僕のサボりの理由は、なにがいいかな?」
 最新の単行本で分かったことだけど、金次がサボる理由は川向こうの病院に入院する女の子に手を振るためだった。もちろん、今の僕にはそんな理由も学校を出る勇気もない。
 そんなわけで、結局僕が開いた『運命の扉』は教室と同じデザインで、けど、妙に綺麗な扉だったんだ。


「ひゅわぁ!」
 あの子は不思議な感嘆詞と一緒に立ち上がって、目を細めて笑った。
 この四角い世界に、僕とあの子だけ……
「あ、そうだね。大丈夫? 具合悪い?」
 血色のいい唇がそんな風に動くのを、僕はただぼんやり眺めていた。
「熱が、あるのかもしれないね」
 赤らんだ頬、パッチリした目、肩のあたりまである綺麗なセミロングの髪。そんなあの子が小さな身体を精一杯伸ばして棚の上段からタオルを引っ張り出す仕草がたまらないほど可愛いらしく見えて……
 あの子が言う通り、耳や頬から肩のあたりまで熱が広がっていくみたいな感じだった。
「……結婚しよう」
 僕の口から無意識にこぼれたそんな言葉に、「うん?」とあの子は目を見開いて頭を少し左に傾ける。
 胸まで広がっていたはずの熱が、頭の芯のあたりから凍りついていく。
 当然の反応だ。自分で思い起こしてみても意味が分からない。
 だから、僕は黙って奥のベッドに寝転がった。
『記憶にございません』『一線は越えていません』『一部誤解を招く表現がありましたが真意ではありません』『さっきのは捏造、フェイクニュースだ!』テレビで聞き知った言い訳を思い巡らせた結果辿り着いた僕の答えが、『熱のせいで朦朧と』を演じることだったんだ。
 シンクを叩く水の音がして、それから古い冷蔵庫が唸り始める。
「保健の先生、今日は出張で戻って来ないんだって」
 あの子の気配を背中に感じて、僕は息を止めて目をつぶった。体の下敷きになった左腕に伝わる鼓動は、いつもより随分速いように感じられた。
「チューリップの香り……」
 あの子が発した柔らかい言葉の意味を理解することはできず、怯えてしまった僕の身体はますます固まっていくみたいだった。


 天井あたりで聞こえたカーテンを引く音に薄目を開けると、カーテンの裾の下につま先がグリーンの上履きが四つ見えた。細い指先が大きいふたつをクルリとまわして綺麗に並べる。それから、小さいふたつがあの子の気配を遠ざけていく。
 扉がカラカラと軽い音を立てる。
「わたしは帰るけど、お大事にね。えっと…… 風上君」
 僕はカーテンをめくりあげる。
 あの子の後ろ姿はもう扉の向こうらしい。カラカラと軽い音を立てて閉じていく扉はほんの少しだけ隙間を残して一度止まって、それから音を立てずにストンと閉まった。
 あの子が残した扉の隙間に、僕は生まれて初めて『美しい』という印象を自覚する。それと同時に、上履きに名前を殴り書きしてしまったことを心底後悔した。


 あの子はそれが当たり前って風に隣の席に座って、それからこう訊く。
「わたしの席って、ここだよね?」
 僕はもうそれだけで虹色の気分で…… けど、僕の返事は始業チャイムに掻き消された。
 月曜の、三時間目と四時間の間の休み時間のことで、クラスメイトがあの子の初登校に気づいたのは四時間目の理科が始まってからだ。
 寺岡先生の目を盗んで教室を回る手紙は相変わらず僕を迂回したけど、内容なんてたかが知れている。
『あの子は誰?』
 その答えは、ちゃんと教室の後ろに全員分の名前が貼ってある。
『なんで不登校だったの?』
 その答えは、きっと本人に訊くしかないんだ。
 案の定、昼休みになると女子たちが僕の右隣りに集まって、興味津々それを訊いた。
 保健室での失言プロポーズを笑い話にでもされたら僕は本当におしまいだった。けど、あの子は「体調が悪くて保健室登校だったんだ」と、何度も同じことを手短に答えるだけだった。
 あの子もすぐにみんなと仲良くなれると思っていた。クラスにはまとめ役の菜摘がいるんだから……
 けど、今日に限って肝心の菜摘はいつになく無口で、真面目な顔でノートをまとめたりして、あの子に声を掛けたりはしなかった。


「あのさー。私、陸上部なんだけど……」
 菜摘が僕に向かって…… けど、まるで僕がここに存在していないかのように声をかけたのは、帰りのホームルームが終わってすぐのことだった。
「わたし、陸上は辞めちゃったんだ。文芸部に入ろうと思ってて……」
 左で菜摘が言い終える前に、右であの子が早口で返す。
 ぶかぶかのブレザーの袖先に、あの細い指が握りこぶしになって袖の中に消えた。
「ごめんね」と呟いたあの子は、僕なんかには目もくれず教室の後ろの扉から出て行く。
 菜摘は、見えなくなったあの子の背中に向けてなにかを投げつけた。それは……そのピンクの紙屑は教室の隅までまっすぐに飛んで、けど、ゴミ箱のヘリに当たって床に転がった。


 その日からあの子は、週に二日、三日と教室に来るようになった。
 けど……
 どこかクラスに馴染めないまま過ごしていたあの子を真っ先にイジメだしたのは、よりにもよって菜摘だったんだ。
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