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第六帖 忍道
6-4 結路
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◆◇
灯りを点けなおした部屋で、菊羽と弧月斎は向かい合って座った。
回ってきた城兵に弧月斎は異常のないことを告げ、茶まで用意した。
「名を、教えてくれんか」
つい先ほどの戦いなどなかったかのように穏やかに、老忍びが言う。
「――菊羽」
その雰囲気に呑まれ気味になっていた菊羽は、素直に名乗る。
茶には口をつけずにいた。
弧月斎の笑みと視線は、ただ孫娘を見るようでもあった。
「ようやったな、菊羽。わしの負けじゃ」
「――えっ?」
菊羽は目を丸くして、正面の老忍びを見た。
「叛意を暴き、家中を守り、まして水戸の手まで入れさせた。わしの策の不備か酉谷が愚かであったか、何にせよ此度のことは我らの負けじゃ。敵ながらあっぱれ、と言うほかあるまい」
「えっ、そ――そんな……」
菊羽が言葉を詰まらせる。
「私、てっきり……恨まれているものと思っておりました。水戸どのの庇護を受けたことでさらに、尾張からは疎まれることになったのかと――」
ほっ、と弧月斎は笑う。
「些事拘泥――とは言わんが、ひとつに執らわれておってはつとめにならぬよ」
自分の茶を飲み干して、老忍びが続ける。
「おぬしも忍びであれば、心しておくとよい。その時々のつとめは、片がつけばそれまでのこと。そこに囚われるのは未熟である証よ」
菊羽への呼び方が、前に対した時とは変わっていた。
「では今は、かたきとは――」
「思うておらんよ」
柔らかな口調だった。
菊羽は少し身を下げてひれ伏した。
「夜討ちなど無礼極まりないこと、ご容赦を――」
「よいよい」
老忍びがまた笑う。
「たまにはこうして体を動かさんと、鈍ってしまうからな。それに藤林のもとで修行しておるのじゃろう、強くなっておって前より楽しめた」
もう一度頭を下げてから、菊羽はあっと声をあげた。
「索冥――という忍びのことは」
ああ、と弧月斎が苦笑をこぼす。
「おぬしのところへ、藤林の書のことでふたたび遣っておったな。まあ――あれは今も気になってはおるが、あ奴がしくじったことでこれも今どうこう言うものではのうなった。
それに、今持っておるわけではないのじゃろう?」
菊羽が頷き、弧月斎も首肯する。
「ここでおぬしを人質にとって藤林を脅したとて、応じることもあるまい」
それよりも、と菊羽を促す。
「今はわしは、おぬしの体が気にかかる。脱いで、見せてくれぬか」
「えっ」
「全部脱げとは言わぬ――それだけでよい」
言われるままに、忍び装束を脱いで体の線が判る状態になる。
「近う」
手で招かれ、膝立ちで菊羽は弧月斎に数歩寄る。
弧月斎は菊羽に触れずに、菊羽の全身をじっとりと観察していた。
「ふむ――これはこれは」
「あ……あの」
菊羽は顔を赤らめ、胸と股を隠すように自分を抱く。
「男に戻るすべは、ないのですか」
菊羽が、もっとも知りたいことであった。
孤月斎の答えは、単純だった。
「ない」
菊羽は目を大きくして、息を呑んだ。
「それでは、もう一度同じ術を私に――」
「おそらく、今度こそ死ぬるぞ。そんな真似はわしはせぬ」
肩を落とした菊羽はそれでも老忍びを見つめていた。
孤月斎は、教え諭すように続ける。
「あれはな、菊羽。男にしか効果を顕さぬ薬術じゃ。男には女の種を植えて体を変えるが、女には何人試そうとも人外の化生になるかその身が崩れて命を落とすかのどちらかしか起こっておらぬ。今のおぬしにやってみたとして、そうなるとしか思えぬ」
「そんな……」
菊羽は自分の体をなぞり、呟く。
「男でも、あの索冥のように男を残しておったり、醜く変わったり、であった。おぬしほど見事に効いて、ここまでおなごと化したものは初めてじゃ。
――そうじゃ、おぬし、わしの女忍びとしてここへ来ぬか。悪いようにはせん」
菊羽にとって思ってもいなかった勧誘であった。
「お、男に戻りたいのです、私は……」
「忍びに、男も女もあるまい」
老忍びの口調は、冷静な中に優しさを秘めていた。
「わしの術を受けてから女として酉谷を落とし、つとめを果たしたのじゃろう?」
「しかし……」
瞳を震わせていた菊羽は急に「うくっ」と喉を詰まらせた。
身を縮こまらせるように屈めて、股間に手を伸ばす。
おそるおそる戻してきて開いた手に、うっすらと血が滲んでいた。
「えっ……な、なに、これ――腑が、重い……」
「ほっほう」
孤月斎が嬌声をあげた。
「菊羽、それはまさにおぬしが女となった証じゃ」
「お……んな?」
「子を成せる体になった、ということじゃ」
孤月斎は立ち上がり、菊羽の手を取った。
「ますます手放すのは惜しい。どうかこの孤月斎に我が術の行く末を見届けさせてはもらえぬか」
「そ……それ、は」
くっと唇を結び、菊羽はその手から柔らかく抜けた。
つつ、と距離を取って、姿勢を直して頭を下げる。
「お断り、いたします。
私は、藤林の弟子でございます。それに、酉谷のことは片が付いたとはいえ、環さまに仕える忍びであることは変わりありませぬ。
――男に戻れぬのなら、ここにいる理由はありませぬ」
声を上げて孤月斎が笑った。
「見上げた忠義じゃ」
老忍びも、もとの場所に戻る。
「戻れぬ、と言わぬほうがよかったのう。わしもまだまだ、抑えが足りぬな」
「生駒――どの」
菊羽は腰を上げた。
「夜分に失礼いたしました。私はこれにて――」
「仕様ないのう」
心底残念そうに孤月斎は言って、菊羽に手を払って見せた。
「行くがいい。我が術が最も能く効いた菊羽に、いま手出しはせぬ。
また、わしのかたきとなったときは容赦せぬが、な」
「それは――望むところでございます」
応えた菊羽もまた、歯を見せていた。
その夜の内に菊羽は宿に戻り、翌朝には装いなおして何食わぬ顔で、そこをあとにしたのだった。
灯りを点けなおした部屋で、菊羽と弧月斎は向かい合って座った。
回ってきた城兵に弧月斎は異常のないことを告げ、茶まで用意した。
「名を、教えてくれんか」
つい先ほどの戦いなどなかったかのように穏やかに、老忍びが言う。
「――菊羽」
その雰囲気に呑まれ気味になっていた菊羽は、素直に名乗る。
茶には口をつけずにいた。
弧月斎の笑みと視線は、ただ孫娘を見るようでもあった。
「ようやったな、菊羽。わしの負けじゃ」
「――えっ?」
菊羽は目を丸くして、正面の老忍びを見た。
「叛意を暴き、家中を守り、まして水戸の手まで入れさせた。わしの策の不備か酉谷が愚かであったか、何にせよ此度のことは我らの負けじゃ。敵ながらあっぱれ、と言うほかあるまい」
「えっ、そ――そんな……」
菊羽が言葉を詰まらせる。
「私、てっきり……恨まれているものと思っておりました。水戸どのの庇護を受けたことでさらに、尾張からは疎まれることになったのかと――」
ほっ、と弧月斎は笑う。
「些事拘泥――とは言わんが、ひとつに執らわれておってはつとめにならぬよ」
自分の茶を飲み干して、老忍びが続ける。
「おぬしも忍びであれば、心しておくとよい。その時々のつとめは、片がつけばそれまでのこと。そこに囚われるのは未熟である証よ」
菊羽への呼び方が、前に対した時とは変わっていた。
「では今は、かたきとは――」
「思うておらんよ」
柔らかな口調だった。
菊羽は少し身を下げてひれ伏した。
「夜討ちなど無礼極まりないこと、ご容赦を――」
「よいよい」
老忍びがまた笑う。
「たまにはこうして体を動かさんと、鈍ってしまうからな。それに藤林のもとで修行しておるのじゃろう、強くなっておって前より楽しめた」
もう一度頭を下げてから、菊羽はあっと声をあげた。
「索冥――という忍びのことは」
ああ、と弧月斎が苦笑をこぼす。
「おぬしのところへ、藤林の書のことでふたたび遣っておったな。まあ――あれは今も気になってはおるが、あ奴がしくじったことでこれも今どうこう言うものではのうなった。
それに、今持っておるわけではないのじゃろう?」
菊羽が頷き、弧月斎も首肯する。
「ここでおぬしを人質にとって藤林を脅したとて、応じることもあるまい」
それよりも、と菊羽を促す。
「今はわしは、おぬしの体が気にかかる。脱いで、見せてくれぬか」
「えっ」
「全部脱げとは言わぬ――それだけでよい」
言われるままに、忍び装束を脱いで体の線が判る状態になる。
「近う」
手で招かれ、膝立ちで菊羽は弧月斎に数歩寄る。
弧月斎は菊羽に触れずに、菊羽の全身をじっとりと観察していた。
「ふむ――これはこれは」
「あ……あの」
菊羽は顔を赤らめ、胸と股を隠すように自分を抱く。
「男に戻るすべは、ないのですか」
菊羽が、もっとも知りたいことであった。
孤月斎の答えは、単純だった。
「ない」
菊羽は目を大きくして、息を呑んだ。
「それでは、もう一度同じ術を私に――」
「おそらく、今度こそ死ぬるぞ。そんな真似はわしはせぬ」
肩を落とした菊羽はそれでも老忍びを見つめていた。
孤月斎は、教え諭すように続ける。
「あれはな、菊羽。男にしか効果を顕さぬ薬術じゃ。男には女の種を植えて体を変えるが、女には何人試そうとも人外の化生になるかその身が崩れて命を落とすかのどちらかしか起こっておらぬ。今のおぬしにやってみたとして、そうなるとしか思えぬ」
「そんな……」
菊羽は自分の体をなぞり、呟く。
「男でも、あの索冥のように男を残しておったり、醜く変わったり、であった。おぬしほど見事に効いて、ここまでおなごと化したものは初めてじゃ。
――そうじゃ、おぬし、わしの女忍びとしてここへ来ぬか。悪いようにはせん」
菊羽にとって思ってもいなかった勧誘であった。
「お、男に戻りたいのです、私は……」
「忍びに、男も女もあるまい」
老忍びの口調は、冷静な中に優しさを秘めていた。
「わしの術を受けてから女として酉谷を落とし、つとめを果たしたのじゃろう?」
「しかし……」
瞳を震わせていた菊羽は急に「うくっ」と喉を詰まらせた。
身を縮こまらせるように屈めて、股間に手を伸ばす。
おそるおそる戻してきて開いた手に、うっすらと血が滲んでいた。
「えっ……な、なに、これ――腑が、重い……」
「ほっほう」
孤月斎が嬌声をあげた。
「菊羽、それはまさにおぬしが女となった証じゃ」
「お……んな?」
「子を成せる体になった、ということじゃ」
孤月斎は立ち上がり、菊羽の手を取った。
「ますます手放すのは惜しい。どうかこの孤月斎に我が術の行く末を見届けさせてはもらえぬか」
「そ……それ、は」
くっと唇を結び、菊羽はその手から柔らかく抜けた。
つつ、と距離を取って、姿勢を直して頭を下げる。
「お断り、いたします。
私は、藤林の弟子でございます。それに、酉谷のことは片が付いたとはいえ、環さまに仕える忍びであることは変わりありませぬ。
――男に戻れぬのなら、ここにいる理由はありませぬ」
声を上げて孤月斎が笑った。
「見上げた忠義じゃ」
老忍びも、もとの場所に戻る。
「戻れぬ、と言わぬほうがよかったのう。わしもまだまだ、抑えが足りぬな」
「生駒――どの」
菊羽は腰を上げた。
「夜分に失礼いたしました。私はこれにて――」
「仕様ないのう」
心底残念そうに孤月斎は言って、菊羽に手を払って見せた。
「行くがいい。我が術が最も能く効いた菊羽に、いま手出しはせぬ。
また、わしのかたきとなったときは容赦せぬが、な」
「それは――望むところでございます」
応えた菊羽もまた、歯を見せていた。
その夜の内に菊羽は宿に戻り、翌朝には装いなおして何食わぬ顔で、そこをあとにしたのだった。
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