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第六帖 忍道
6-3 生駒
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◆◇
師の庵で、菊羽は数日を過ごした。
あらためて修行を浚い、忍びのわざを鍛え直し、数月前と変わらぬような師弟の生活となった。
戻った時に(酒混じりに)言っていたものの、菊羽はすぐに発つこともなく、師との暮らしをただ再開するために来たかのように振る舞っていた。
また、師が著しているものの手伝いも、以前よりも深く関わるようになっていた。
幾日か経った日の夕餉の場で、白翁から菊羽に尋ねた。
「行かぬのか」
「そう――ですね」
菊羽は曖昧に笑う。
「いまだ高須にいるのか、すでに他の地に移っていて、私が無闇に行ったとて無駄骨になってしまうのではないか、どうやってその情報を探ろうか、と思っておりました」
ほう、と師が感心した声をあげた。
「落ち着いた考えを持つようになったの。良いことじゃ」
「もう子供ではありませんゆえ」
「女でいることを受け入れたのかと思うたぞ」
「それは……」
菊羽は、いくぶん逡巡した様子を見せたのち、師を見つめた。
「男の体に戻りたい気持ちは変わりありませぬが――覚悟も、しております」
かたわらには、想い人から預けられた小太刀がある。
この、小太刀のわざも、白翁はあらためて菊羽に教えていた。
「男に戻れなかった時は女の、この体で生きねばならない――そのことをずっと、考えておりました」
師にも、自分にも言い聞かせるような、菊羽の口調だった。
己の胸に手をやる。
半年前よりもさらに、ふくらみは育っていた。
「環さまに仕え、この体で半年ほど過ごし、女としての暮らしにも少しは慣れました」
もともと男であったことを知っている環も、また『母の早世した男所帯で男として育てられた』と思っている鴻上舎人の妻も、菊羽に『女のこと』を折りにつけ、親切心か親心のような心境か――環は多分に菊羽が戸惑うさまを楽しむところがあったが――で、教えてきていた。
手を下腹部に下ろしてゆく。
「女の身としての己を考えるとなぜか、このあたりがじんじんします。心のどこかではすでに、これを受け入れているのやも、とも思います。
しかし、やはり、生駒に会うて、男に戻るすべを求めとうございます」
腰は締まり、尻には肉の乗った、年頃の娘の起伏を強めつつあった。
師はそんな弟子の肢体を、目を細めて眺めていた。
「――今も、高須におる」
「えっ」
菊羽が聞き直した。
「おぬしの国のことだけでなく、まだつとめがあるのじゃろうな」
「し――調べていてくださったのですか」
驚いた声とともに菊羽が平伏しようとするのを、白翁が止める。
「もののついで、というやつじゃ」
そう笑ってから、静かに言った。
「行ってくるとよい。おのれの得心ゆく答えを見つけ――必ず、帰ってこい」
「! はいっ」
師はもう一度目を細める。
「死ぬなよ」
菊羽は今度こそ深々と頭を下げて、師への感謝を表した。
藤林白翁の庵から高須へは、菊羽の足で一日ほどだった。
翌朝に庵を出た菊羽はほとんど夜を徹して、夜が白んできた頃には城の姿を視界におさめていた。
そこから一旦離れ、忍び装束で移動していたところから着替える。
昼まで時間を潰したのちに、いかにも奉公に出ていた娘の里帰りという風体になって、宿のひとつに入った。
月並みな世間話を交わしながら部屋に入り、長旅で疲れたから、と早々に休む姿勢を見せた。
そのまま、深夜までその通りのように眠る。
――亥の刻になって、菊羽は静かに寝床を抜け出した。
装っていたものをすっかり脱いで、自分の裸体を確かめる。
女らしいにくづきになってきている体の線に沿って指を這わせる。
自嘲のような苦笑をこぼして――着替えをはじめた。
揺れないよう胸に布を巻く。
体にぴったりと合った、柿渋で染めた薄布でさらに首から下を――上半身と下半身に分かれた、今で云うタイツかレギンスのようなもので――締める。
下腹部をそっと撫でて小首を傾げ――支度を続ける。
島田にしていた髪を解いて――男子だった頃からは随分と伸びた上に、付け毛を足して長くしている。その付け毛は外さずに――小さく纏詰める。
頭巾を巻く。
目だけを出した、体の起伏があらわになった格好になっていた。
それから、鎖帷子を仕込んだ、袖がなく丈の短い忍び装束を身につける。
腰に小太刀を差し、忍び道具と細い竹筒を巻きつける。
一度目を閉じ、大きく深呼吸して――きっ、と開ける。
よしと呟いて、着ていた衣や荷を集めて人のように模り、布団をかぶせておいて、菊羽は油を注ぎながら静かに薄く外への障子戸を開けた。
音もなく屋外へ出てそっと戸を閉め、するすると屋根へ登る。
月明かりのもとで目立たぬよう伏せ、城の方向を確かめる。
頷いて短く息を吐いて、足音を立てずに走りはじめた。
元服前の、男子であった巽丸の頃に、忍び込んだ城である。
体は変わっても、記憶は失っていなかった。
夜回りの城兵に見つからぬよう所々で身を潜めつつ、二の丸まで辿り着く。
――はたして、菊羽の狙いである生駒弧月斎は、そこにいた。
書を読んでいる様子の老忍びを天井からうかがい、そっと移動する。
やや離れたところから廊下に下りて、弧月斎のいる部屋まで戻る。
油を差しつつ襖を開けるが、自身はそこから入らずに一拍おき、大きく開けたのと反対側を薄く開けてするりと侵入した。
背後に、気配を殺して近寄る。
小太刀を抜いて、静かに声をかけた。
「生駒――覚悟っ」
ふわり、と煙が興った。
灯りが消える。
「なっ!?」
弧月斎の姿も消えた。
菊羽は振り返って背後に迫った刀を受け止め床に転がる。
斬撃は一度では止まずに畳を斬りつつ菊羽を狙い続ける。
闇に火花が飛ぶ。
菊羽は中庭まで一足飛びに退いた。
弧月斎が間を置かずに追う。
「女か――いや」
月光に映る菊羽の影にすうっ、と笑う。
「どこの者か」
菊羽は無言で低く弧月斎に切りかかる。
老体とは思えない体術で白刃をするりと躱した弧月斎が菊羽の背後に回り込んだ。
手首を狙う老忍びの手をはね退けて跳んだ菊羽は一回転して間合いを取る。
腰の竹筒を取り蓋を飛ばしてしゅっと振る。
水滴が周囲に散った。
「んっ……?」
「やッ!」
弧月斎が見上げたところに針状になったしずくが降り注ぐ。
「ほほう」
薄く笑った弧月斎が天に向かって切っ先でくるりと円を描いた。
水滴がぱしゃりと切られた。
「もらったッ!」
菊羽がそこに急接近していた。
右手で――弧月斎の左から小太刀を振るう。
「水刃っ!」
弧月斎がそれを刀で受けたところで下から水が伸びてその手を打った。
「ぬっ!?」
水で刀を成す、菊羽の術であった。
竹筒から半分ほどを空に撒いて囮とし、残りでこの水刃を作りあげたのだった。
水はそのまま弧月斎の手を包んで圧しはじめる。
弧月斎が刀を落とした。
菊羽が小太刀の峰で老忍びの膝裏を打つ。
小さく呻いて、弧月斎が腰を落とした。
片足首を踏んで抑え、両手首を捻り上げながら、菊羽が水の縛りを解く。
「生駒っ――答えてもらうぞっ」
「な……なにを、だ」
「お前の『月陰』を解くすべだっ」
「ほう――おぬし」
眉をぴくりと上げた老忍びは首を巡らせて、斜め後ろでかれの体を押さえ続ける菊羽を見る。
「見覚えがあるような気がしておったが、小浦に仕える小僧か」
弧月斎が力を抜いて、ふわりと笑った。
「生きておることは知っていたが、こうも変わっているとはな――ふふ」
と、自由だった片足をわずかに上げて地を打つ。
ずしん、と二人を中心にした直径二メートルほどが揺れた。
菊羽が体勢を崩し弧月斎がその拘束から逃れた。
そこから放たれた足払いを菊羽は跳んで避けるが足首を掴まれて引き落とされる。
「あっ!」
尻を打った菊羽と体を上げた弧月斎の体勢が逆になる。
「以前もそうだったが、腕を上げたな」
どこか嬉しそうに、老忍びは膝で強く菊羽の腰を締めていた。
竹筒を奪って放り、身を屈めて顔を寄せる。
頭巾をぐっと下げて鼻と口を外気にさらす。
「落ち着いて話をする気は、あるか」
「えっ、あ――ああ」
荒れ気味になった息を整えて、菊羽は頷いた。
よろしい、と老忍びは力を緩めて立ち上がった。
「来なさい――いや、その体、仔細に見せてくれんか」
そう言って、弧月斎は菊羽の手を取って引き上げた。
師の庵で、菊羽は数日を過ごした。
あらためて修行を浚い、忍びのわざを鍛え直し、数月前と変わらぬような師弟の生活となった。
戻った時に(酒混じりに)言っていたものの、菊羽はすぐに発つこともなく、師との暮らしをただ再開するために来たかのように振る舞っていた。
また、師が著しているものの手伝いも、以前よりも深く関わるようになっていた。
幾日か経った日の夕餉の場で、白翁から菊羽に尋ねた。
「行かぬのか」
「そう――ですね」
菊羽は曖昧に笑う。
「いまだ高須にいるのか、すでに他の地に移っていて、私が無闇に行ったとて無駄骨になってしまうのではないか、どうやってその情報を探ろうか、と思っておりました」
ほう、と師が感心した声をあげた。
「落ち着いた考えを持つようになったの。良いことじゃ」
「もう子供ではありませんゆえ」
「女でいることを受け入れたのかと思うたぞ」
「それは……」
菊羽は、いくぶん逡巡した様子を見せたのち、師を見つめた。
「男の体に戻りたい気持ちは変わりありませぬが――覚悟も、しております」
かたわらには、想い人から預けられた小太刀がある。
この、小太刀のわざも、白翁はあらためて菊羽に教えていた。
「男に戻れなかった時は女の、この体で生きねばならない――そのことをずっと、考えておりました」
師にも、自分にも言い聞かせるような、菊羽の口調だった。
己の胸に手をやる。
半年前よりもさらに、ふくらみは育っていた。
「環さまに仕え、この体で半年ほど過ごし、女としての暮らしにも少しは慣れました」
もともと男であったことを知っている環も、また『母の早世した男所帯で男として育てられた』と思っている鴻上舎人の妻も、菊羽に『女のこと』を折りにつけ、親切心か親心のような心境か――環は多分に菊羽が戸惑うさまを楽しむところがあったが――で、教えてきていた。
手を下腹部に下ろしてゆく。
「女の身としての己を考えるとなぜか、このあたりがじんじんします。心のどこかではすでに、これを受け入れているのやも、とも思います。
しかし、やはり、生駒に会うて、男に戻るすべを求めとうございます」
腰は締まり、尻には肉の乗った、年頃の娘の起伏を強めつつあった。
師はそんな弟子の肢体を、目を細めて眺めていた。
「――今も、高須におる」
「えっ」
菊羽が聞き直した。
「おぬしの国のことだけでなく、まだつとめがあるのじゃろうな」
「し――調べていてくださったのですか」
驚いた声とともに菊羽が平伏しようとするのを、白翁が止める。
「もののついで、というやつじゃ」
そう笑ってから、静かに言った。
「行ってくるとよい。おのれの得心ゆく答えを見つけ――必ず、帰ってこい」
「! はいっ」
師はもう一度目を細める。
「死ぬなよ」
菊羽は今度こそ深々と頭を下げて、師への感謝を表した。
藤林白翁の庵から高須へは、菊羽の足で一日ほどだった。
翌朝に庵を出た菊羽はほとんど夜を徹して、夜が白んできた頃には城の姿を視界におさめていた。
そこから一旦離れ、忍び装束で移動していたところから着替える。
昼まで時間を潰したのちに、いかにも奉公に出ていた娘の里帰りという風体になって、宿のひとつに入った。
月並みな世間話を交わしながら部屋に入り、長旅で疲れたから、と早々に休む姿勢を見せた。
そのまま、深夜までその通りのように眠る。
――亥の刻になって、菊羽は静かに寝床を抜け出した。
装っていたものをすっかり脱いで、自分の裸体を確かめる。
女らしいにくづきになってきている体の線に沿って指を這わせる。
自嘲のような苦笑をこぼして――着替えをはじめた。
揺れないよう胸に布を巻く。
体にぴったりと合った、柿渋で染めた薄布でさらに首から下を――上半身と下半身に分かれた、今で云うタイツかレギンスのようなもので――締める。
下腹部をそっと撫でて小首を傾げ――支度を続ける。
島田にしていた髪を解いて――男子だった頃からは随分と伸びた上に、付け毛を足して長くしている。その付け毛は外さずに――小さく纏詰める。
頭巾を巻く。
目だけを出した、体の起伏があらわになった格好になっていた。
それから、鎖帷子を仕込んだ、袖がなく丈の短い忍び装束を身につける。
腰に小太刀を差し、忍び道具と細い竹筒を巻きつける。
一度目を閉じ、大きく深呼吸して――きっ、と開ける。
よしと呟いて、着ていた衣や荷を集めて人のように模り、布団をかぶせておいて、菊羽は油を注ぎながら静かに薄く外への障子戸を開けた。
音もなく屋外へ出てそっと戸を閉め、するすると屋根へ登る。
月明かりのもとで目立たぬよう伏せ、城の方向を確かめる。
頷いて短く息を吐いて、足音を立てずに走りはじめた。
元服前の、男子であった巽丸の頃に、忍び込んだ城である。
体は変わっても、記憶は失っていなかった。
夜回りの城兵に見つからぬよう所々で身を潜めつつ、二の丸まで辿り着く。
――はたして、菊羽の狙いである生駒弧月斎は、そこにいた。
書を読んでいる様子の老忍びを天井からうかがい、そっと移動する。
やや離れたところから廊下に下りて、弧月斎のいる部屋まで戻る。
油を差しつつ襖を開けるが、自身はそこから入らずに一拍おき、大きく開けたのと反対側を薄く開けてするりと侵入した。
背後に、気配を殺して近寄る。
小太刀を抜いて、静かに声をかけた。
「生駒――覚悟っ」
ふわり、と煙が興った。
灯りが消える。
「なっ!?」
弧月斎の姿も消えた。
菊羽は振り返って背後に迫った刀を受け止め床に転がる。
斬撃は一度では止まずに畳を斬りつつ菊羽を狙い続ける。
闇に火花が飛ぶ。
菊羽は中庭まで一足飛びに退いた。
弧月斎が間を置かずに追う。
「女か――いや」
月光に映る菊羽の影にすうっ、と笑う。
「どこの者か」
菊羽は無言で低く弧月斎に切りかかる。
老体とは思えない体術で白刃をするりと躱した弧月斎が菊羽の背後に回り込んだ。
手首を狙う老忍びの手をはね退けて跳んだ菊羽は一回転して間合いを取る。
腰の竹筒を取り蓋を飛ばしてしゅっと振る。
水滴が周囲に散った。
「んっ……?」
「やッ!」
弧月斎が見上げたところに針状になったしずくが降り注ぐ。
「ほほう」
薄く笑った弧月斎が天に向かって切っ先でくるりと円を描いた。
水滴がぱしゃりと切られた。
「もらったッ!」
菊羽がそこに急接近していた。
右手で――弧月斎の左から小太刀を振るう。
「水刃っ!」
弧月斎がそれを刀で受けたところで下から水が伸びてその手を打った。
「ぬっ!?」
水で刀を成す、菊羽の術であった。
竹筒から半分ほどを空に撒いて囮とし、残りでこの水刃を作りあげたのだった。
水はそのまま弧月斎の手を包んで圧しはじめる。
弧月斎が刀を落とした。
菊羽が小太刀の峰で老忍びの膝裏を打つ。
小さく呻いて、弧月斎が腰を落とした。
片足首を踏んで抑え、両手首を捻り上げながら、菊羽が水の縛りを解く。
「生駒っ――答えてもらうぞっ」
「な……なにを、だ」
「お前の『月陰』を解くすべだっ」
「ほう――おぬし」
眉をぴくりと上げた老忍びは首を巡らせて、斜め後ろでかれの体を押さえ続ける菊羽を見る。
「見覚えがあるような気がしておったが、小浦に仕える小僧か」
弧月斎が力を抜いて、ふわりと笑った。
「生きておることは知っていたが、こうも変わっているとはな――ふふ」
と、自由だった片足をわずかに上げて地を打つ。
ずしん、と二人を中心にした直径二メートルほどが揺れた。
菊羽が体勢を崩し弧月斎がその拘束から逃れた。
そこから放たれた足払いを菊羽は跳んで避けるが足首を掴まれて引き落とされる。
「あっ!」
尻を打った菊羽と体を上げた弧月斎の体勢が逆になる。
「以前もそうだったが、腕を上げたな」
どこか嬉しそうに、老忍びは膝で強く菊羽の腰を締めていた。
竹筒を奪って放り、身を屈めて顔を寄せる。
頭巾をぐっと下げて鼻と口を外気にさらす。
「落ち着いて話をする気は、あるか」
「えっ、あ――ああ」
荒れ気味になった息を整えて、菊羽は頷いた。
よろしい、と老忍びは力を緩めて立ち上がった。
「来なさい――いや、その体、仔細に見せてくれんか」
そう言って、弧月斎は菊羽の手を取って引き上げた。
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