転娘忍法帖

あきらつかさ

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第五帖 旅立

5-4 別れ

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◆◇

 事態は、急速に流転しはじめた。
 跡継ぎのいないまま、あるじがこの世を去ってしまいそうな小浦家には、水戸の手助けが入ることとなった。
 尾張の力を不用意に強めないための、策であった。
 酉谷宗丈は国の資源を手土産に、尾張に取り入ることを画策していた。
 しかし、小浦治昭はそれに反対していたために、宗丈に一服盛られたのだった。
 そうして領主が危篤状態の内に、宗丈は遺書を偽造して自分が家督を継ぐよう仕向け、それを認めてもらう資金と後見にと、尾張に目をつけたのだった。
 菊羽が暴き、環が証拠もそろえて幕府へと報告し、宗丈の計画は潰えた。
 その時、環は家の窮状もあわせて相談し、そこに居合わせた水戸徳川家の者が、手を差し伸べたのだった。
 さて、高須については、こののち一旦廃藩となり、さらに十年ほどあとの元禄十三年に徳川光友の次男、松平義行が治めることとなる。
 それ以降、尾張徳川家の御連枝ごれんしとなるのだが、それはこの物語よりものちのことである。

 旅立ちの日となった。
 先の江戸行きとは段違いの、できるかぎりの贅を凝らした行列が組まれ、姫木の地を発つこととなった。
 行列の中心は、環の乗る駕籠である。
 環は、水戸徳川家家中のものに、嫁ぐこととなった。
 それが、家の取り潰しを防ぐ、条件であった。
 治療が進み、治昭は起きてまつりごとのできる程度には回復したが、毒の影響が残り、全快には至れなくなっていた。
 ここに、水戸から養子が入ることとなっていた。
 環に子が生まれれば、その子も姫木へ戻されるよう配慮されている。
 環の乗る駕籠のそばには、女中として、菊羽が控えていた。
 駕籠に共に乗せようと環はしたのだが、そこは厳しく諭されての、外だった。
 水戸に向かっての、行列が進みはじめる。
 小浦家中のものは、途中で先方に引き渡すまでである。
 菊羽も、その例にもれない。
 ――出立の前夜、菊羽は環に言っていた。
「書を、お師さまに返さねばなりません」
 藤林白翁のところへ行くきっかけとなった曲者の件から、宗丈のはかりごとを止められたことで、この騒動は落着を見ている。
 その話や、書き写さずともすべてそらんじられるほど何度も何度も熟読をした『萬川集海』ばんせんしゅうかいの一部は、もともと白翁に返しに来いと言われていた。
 そのことを説明しても、環は「いやじゃ」と涙を浮かべた。「離れとうない。菊は、妾の忍びじゃ」とも。
「私も、離れたくはありません……」
 環の手を取って、菊羽は言った。
「されど、私はただの乱破です。これからの水戸で、私の立場はむしろ、余計です」
「そんなことはない。あっても、無視すればよい」
「なりませぬ……」
 菊羽は、環の涙に誘われたように、己も瞳を潤ませていた。
「では、こうする」
 環が、言った。
「書を返し、来れる時になれば、妾のもとへ必ず帰ってこい。妾は待っておるぞ」
「環さま……」
 菊葉から、環のくちびるを奪った。
 環からばかりしていた行為をされて、驚いて涙を止めた環に、菊羽が頭を下げる。
「私は、環さまのしるしを頂きました。なれば環さまにも、私のしるしをさせていただきとう思い――」
 菊羽の言は、飛びついた環が終わらせなかった。
「つけろ、つけておくれ、妾に菊のしるしをおくれ――」
 環が涙を散らし、震える手つきで菊羽を脱がせる。


 この時、菊羽と環は、結ばれた。


 そのことを駕籠の中で思い出していたのか、環が外にいる菊羽に明るい声をかけようとした、その時だった。
 行列の先のほうが、騒々しくなっていた。
「――何事じゃ?」
 環が言ったのは、結局そんな言葉であった。
「見て参ります」
「不要じゃ」
 飛び出そうとした菊羽を、環が止める。
「わざわざ菊が行くほどのこともあるまい。そばにいておくれ」
 と、菊羽もそのままでいたところに、騒ぎは近づいてくる。
「環の――ッ!」
 怒声をあげながら、一人の男が周囲を蹴散らして走ってきた。
 顔を確認した菊羽が「げっ」ともらす。
「どうした、誰じゃ、菊」
「――酉谷でございます、環さま」
 髷を落とされて髪を振り乱し、罪人の風体そのままで、駆け込んできていた。
 環の駕籠の前で、止まる。
「ばばあッ!」
 得物を構えた役人が遠巻きに宗丈を囲んでいた。
 行列は乱れ、環の駕籠のみがその輪の中にある。
 駕籠の前で、菊羽は宗丈と対峙する。
「菊」
 環が、菊羽を呼んだ。
 薄く開けて、そこから鞘ごと小太刀を出していた。
「これを使え。菊に預けておくから――返しに来い」
 小太刀を受け取って、すっと抜く。
「菊かァ――おまえにも、礼をせねばなァ」
 病的な、何かに囚われたような、れた声だった。
「わしの漁火を壊したのは、おまえだろ――ッ」
「壊し……? 生きてたのか」
 己に宗丈の注意が向いていることを知り、菊羽はじわりと位置を変える。
「犬のようになってしまったわ。面白い趣向ではあったが、そんなものは最初だけじゃ」
 菊羽は返事をせず、宗丈を睨みつける。
「わしの可愛い漁火を、返せッ!」
 飛びかかってくるのを避けて、斬る。
 宗丈は額から血をしぶかせて、もんどり打った。
「今は、どうしてるんだ――?」
 菊羽が尋ねる。
 宗丈が、異様な動きで跳ね起きた。
「人を忘れて、衣もつけず四ツ足で歩き――犬どもと、山へ行きおったわッ」
 それこそけだもののように低い姿勢で、宗丈が怒鳴る。
「ばばあッ! お前の飼っておる小娘の所業を知っておるのかッ」
「環さま! 耳を貸してはなりませぬ」
「――知っておるわ」
 駕籠が開いた。
 環が、姿を現す。
 丁寧に着飾った、嫁入りの正装であった。
「菊のことはすべて、知っておる。
 それが何だという、この謀反の大罪人めがッ」
「ばばあッ――!」
 火花の飛びそうな歯ぎしりを鳴らす。
「菊」
 菊羽にだけ聞こえるくらいの声で、環が言った。
「菊が何をしておっても――いや、何者であろうとも、妾は菊のことが、好きじゃ」
「環さま……」
 菊羽は、環の言葉を胸に刻み込むように、拳を胸元で抱く。
「任せたぞ」
 菊羽が頷く。
 奇声を上げて宗丈が踏み込んでくる。
 手枷を振り上げて――その横腹を、菊葉が薙いだ。
 それと同時に、反対側を鞘で引っ掛けて、宗丈の体をくるりと半回転させる。
 血が吹く。
 駕籠を背にして、ほとばしる。
 腕を上げた体勢のまま、ゆっくりと宗丈は倒れていった。
 今更ながらに役人たちが近付いてきて、菊羽と環に一礼してから宗丈の骸を運び去った。

 静まり返った周囲を戻したのは、環の号令だった。
「いつになったら、進むのじゃ」
 慌てて隊列を整え直した行列が、歩みを再開する。
 菊羽は、何事もなかったように、環の乗る駕籠に随行する。
「――菊」
 中から声がかかる。
 環が、顔を出した。
「環さま――なりませぬ」
「少しだけじゃ」
 軽く言って、環は続ける。
「やはり、一緒に来てくれぬか。
 菊がおらなんだら、今のもどうなっていたかと思うと……」
 菊羽は、答えない。
 やがて、
「環さま」
 菊羽が、そっと言う。
「私も、環さまを好いております。男も女もない、私が女の――菊羽でも、男に戻ったとしても、気持ちは変わりませぬ」
 環は嬉しそうに、優しげな微笑みで頷く。
「ですが、私は――やはり、乱破です。いま宗丈を斬り、前に漁火なる女忍びを人でなくなるほどにした、所詮は陰のものでございます」
 環が目を伏せた。
「その心は、変わらぬのじゃな」
 微笑みが寂しげな色に変わってゆく。
 環が、菊羽の手を引いた。
「ちょっ、環さま――」
 駕籠に連れ込まれた菊羽は――唇を奪われた。
 目を丸くして――閉じる。
 環は、菊羽のくちびるを、むさぼった。
 菊羽も、応える。
 しばらく絡み合って、菊羽を解放した環は、笑顔を見せていた。
「達者でな、菊。
 それ、返しに来いよ」
 つり気味の瞳に、涙を溜めていた。
 菊羽は深々と一礼して、駕籠から降りる。


 引き渡しは、もうしばらく先であった。

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