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第三帖 江戸
3-4 江戸
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◆◇
江戸はこの頃、延宝年間である。
いわゆる文治政治への転換をおこない、農政に重点が置かれるようになった時代だ。
全国的な流通・経済政策が広がり、徳川幕府が安定へと進んでゆく時代でもある。
しかし、明暦のころに大火があって江戸城が焼失したのもこの時であった。
また、家綱には子はなかった。
家綱の弟である綱吉を後継として、養子に迎え入れたのである。
しかし、菊羽が環の女中となった時にはまだ、綱吉は館林宰相であった。
その菊羽は環に従って、江戸へとゆく。
抑えた花菱柄の小紋に、髪はまた島田に結っている。
身体の変わり具合もあいまって、いっそう、女らしくなっていた。
出立前に、国の外へ調べに出ていた玄信とも会うことができた。
白翁とのことと、菊羽に妙な術をかけたのが尾張の者であることを報告し、環の忍びとなることも伝えると、父はそうか、と頷いた。
「それでこそ忍びとして、一人前とも言えよう。しっかりやれよ」
そう言って、菊羽の肩を叩いた。
「尾張と高須のことも、よう知らせてくれた。
こちらは任せて、菊羽は菊羽のお役目を果たせ」
「はいっ」
――江戸への道中では、菊羽は環にここまでのことを事細かに訊かれていた。
二人で乗れる大きさの駕籠であり、他に聞かれることなく話をするにはそれなりに適していた。
「――尾張、と」
「はい」
先日は端折っていたことまで、仔細に話す時間がじゅうぶんにあった。
環は扇子で、己の膝を何度も叩く。
考え事をする時の癖なのだろう。
「当家の資源について探っておった曲者は高須小笠原のもとへ帰り、しかしその曲者が報告していたのは尾張のもの、とそういうことか……」
菊羽に返答を求めていない音量であった。
「姫木を、手土産にとでも目論んでおるのか――」
環は、菊羽の体にも相変わらず興味を抱いている様子だった。
「菊に術をかけたという者も、同じなのじゃな」
菊羽はうなずく。
「なんじゃ、何か不満か」
その表情を見て、環が扇子を向ける。
「私は――男です」
「まだ言うか」
環はくすりと笑って、三割ほど開いた扇子で自分をあおぐ。
「おなごでおればよかろう。それとも、男に戻る手立てでもあるのか?」
「――それを、探りとうございます」
菊羽は仏頂面気味になっていた。
「おそらく、生駒なる者にその鍵があるかと」
「戻りたいのか」
「はい」
即答だった。
環が、小首を傾げる。
「よいではないか」
菊羽との距離をずい、と詰めた。
もともとそれほど広くはない駕籠で、寄り添うくらい近くなる。
「たっ、環さま……?」
「妾は、今のほうがよい」
環の手が、菊羽の顎に触れる。
「かつての、男のそなたもよかったが、妾は――」
さらに、迫る。
顎にあった手が、菊羽の衿の奥へと移動してゆく。
もう片方の手が扇子を帯に戻し、菊羽の腰に回る。
「女同士のほうが、よいな」
目を細めて、環はいっそう、菊羽を抱き寄せた。
「環、さま……」
駕籠が揺れた。
外から声がかかる。
「そろそろ御府内に入ります」
環が顔を上げ、不服そうな瞳で菊羽を見下ろした。
「なんとも、間の悪いことじゃ」
と、ほとんど密着していた体を離す。
菊羽はため息をこぼしながら、乱れた裾と衿を整える。
「お、お戯れは――おやめください」
「戯れではないぞ」
環が言う。
「妾は今の菊が、よい」
環の扇子が、菊羽の胸元を押す。
「まあよい、楽しみはまたいずれ、じゃ」
そう言って扇子を戻し、環はわずかに肩をすくめた。
小浦家の江戸屋敷は、江戸城よりけっこうな距離があった。
昼過ぎにそこに到着して早々に、環は菊羽を連れて留守居役をつとめている酉谷宗丈の前で、国での出来事を報せた。
宗丈は頬骨の張った輪郭を覆う髭をなでて、旅の労をねぎらう。
その日はそれで終わり、江戸屋敷での環の部屋にふたりで落ち着く。
上に報告するにもその日にはできぬ話ではあるし、万が一のことも想定して、今後のことを方向づけておかねばならない。
そのあたりを話し合うことも必要であろう。
さて、旅装を解いた環は、菊羽を江戸の町に引っ張り出した。
「環、さま――?」
「中では、迂闊な話はできぬ」
明るく振る舞っている環の目は、真剣だった。
菊羽だけを連れて日本橋のほうへおもむき、江戸見物や買い物を楽しむ中、ふたりともまったく見慣れない人の多さに紛れ、打ち合わせをおこなう。
その夜――菊羽は、忍び装束で体を締め、江戸屋敷の天井裏に入った。
ここに至るまでに頭に入れた屋敷の図面を脳裏に思い浮かべながら、酉谷宗丈のいる奥座敷へ向かう。
夜もすっかり更け、ここまで旅をしてきた面々のほとんどは疲れ切って寝ている。
奥座敷にて、宗丈は起きていた。
誰かと話をしている。
そこに到着した菊羽は薄く穴を開け、耳を澄ませる。
「――おり、じゃ」
うっすらと、宗丈の声が届く。
やや酒に灼けた、上機嫌な響きであった。
「こ――疑われ――となく、治昭のやつが――」
もう一人に向かって話をしているようだが、もっぱら宗丈のみが声を出していた。
それが、ふと止まる。
「何奴ッ!」
宗丈が、天井を見ていた。
飾ってあった槍をつかみ、さっと払って突き上げる。
菊羽はその切っ先をかわし、静かに移動をはじめた。
奥座敷とは離れた庭に降りたところに、飛んでくるものがあった。
苦無であった。
跳び避けて、打った相手を見る。
「何者だ――っ」
月明かりが、対峙した二人を照らす。
「それはこちらの言うことだ――女か」
江戸詰めの、男のひとりであった。
抜いた刀を横に構え、菊羽を睨む。
「酉谷とともに、何を企んでいるんだ」
気圧されないよう、菊羽は低く言う。
「その構え、身のこなし、苦無の扱い――お前も忍びだな」
無言で間合いを詰めてくるのが、肯定と戦闘の合図だった。
菊羽は背負っていた脇差を抜いて刀を受ける。
縦横無尽に走る剣戟を受け続ける。
「どこの者だッ」
菊羽が跳ぶ。
距離を取って手裏剣――棒手裏剣を打つが、男に叩き落される。
「我らを探る目的は、なんだッ」
男がまた切り込んでくる。
菊羽は懐を探る。
隙が生まれてしまった。
男が苦無を拾う。
男の刀が上段から振り下ろされる。
菊羽は身を沈めて刀を受ける。
男が踏み込む。
刀がさらに押し込まれ、菊羽は腰を下げる。
菊羽はじりじりと身をずらしてゆく。
男が菊羽の腹を蹴った。
「っ!」
蹴り飛ばされずそのまま踏み込んできた男の下になってしまう。
男の剣が菊羽の衣を地面に縫い止める。
「ふふふ……」
男が、薄く笑った。
菊羽の両手首を掴んで頭上に上げる。
「か――は」
肘が捻られる。
男が菊羽の上にのしかかった。
「やっ――やめっ」
男が苦無で菊羽の装束を引き上げて――切った。
裂かれた装束をさらに破るように開く。
菊羽の丸みをおびた双丘が、月明かりのもと、さらされた。
江戸はこの頃、延宝年間である。
いわゆる文治政治への転換をおこない、農政に重点が置かれるようになった時代だ。
全国的な流通・経済政策が広がり、徳川幕府が安定へと進んでゆく時代でもある。
しかし、明暦のころに大火があって江戸城が焼失したのもこの時であった。
また、家綱には子はなかった。
家綱の弟である綱吉を後継として、養子に迎え入れたのである。
しかし、菊羽が環の女中となった時にはまだ、綱吉は館林宰相であった。
その菊羽は環に従って、江戸へとゆく。
抑えた花菱柄の小紋に、髪はまた島田に結っている。
身体の変わり具合もあいまって、いっそう、女らしくなっていた。
出立前に、国の外へ調べに出ていた玄信とも会うことができた。
白翁とのことと、菊羽に妙な術をかけたのが尾張の者であることを報告し、環の忍びとなることも伝えると、父はそうか、と頷いた。
「それでこそ忍びとして、一人前とも言えよう。しっかりやれよ」
そう言って、菊羽の肩を叩いた。
「尾張と高須のことも、よう知らせてくれた。
こちらは任せて、菊羽は菊羽のお役目を果たせ」
「はいっ」
――江戸への道中では、菊羽は環にここまでのことを事細かに訊かれていた。
二人で乗れる大きさの駕籠であり、他に聞かれることなく話をするにはそれなりに適していた。
「――尾張、と」
「はい」
先日は端折っていたことまで、仔細に話す時間がじゅうぶんにあった。
環は扇子で、己の膝を何度も叩く。
考え事をする時の癖なのだろう。
「当家の資源について探っておった曲者は高須小笠原のもとへ帰り、しかしその曲者が報告していたのは尾張のもの、とそういうことか……」
菊羽に返答を求めていない音量であった。
「姫木を、手土産にとでも目論んでおるのか――」
環は、菊羽の体にも相変わらず興味を抱いている様子だった。
「菊に術をかけたという者も、同じなのじゃな」
菊羽はうなずく。
「なんじゃ、何か不満か」
その表情を見て、環が扇子を向ける。
「私は――男です」
「まだ言うか」
環はくすりと笑って、三割ほど開いた扇子で自分をあおぐ。
「おなごでおればよかろう。それとも、男に戻る手立てでもあるのか?」
「――それを、探りとうございます」
菊羽は仏頂面気味になっていた。
「おそらく、生駒なる者にその鍵があるかと」
「戻りたいのか」
「はい」
即答だった。
環が、小首を傾げる。
「よいではないか」
菊羽との距離をずい、と詰めた。
もともとそれほど広くはない駕籠で、寄り添うくらい近くなる。
「たっ、環さま……?」
「妾は、今のほうがよい」
環の手が、菊羽の顎に触れる。
「かつての、男のそなたもよかったが、妾は――」
さらに、迫る。
顎にあった手が、菊羽の衿の奥へと移動してゆく。
もう片方の手が扇子を帯に戻し、菊羽の腰に回る。
「女同士のほうが、よいな」
目を細めて、環はいっそう、菊羽を抱き寄せた。
「環、さま……」
駕籠が揺れた。
外から声がかかる。
「そろそろ御府内に入ります」
環が顔を上げ、不服そうな瞳で菊羽を見下ろした。
「なんとも、間の悪いことじゃ」
と、ほとんど密着していた体を離す。
菊羽はため息をこぼしながら、乱れた裾と衿を整える。
「お、お戯れは――おやめください」
「戯れではないぞ」
環が言う。
「妾は今の菊が、よい」
環の扇子が、菊羽の胸元を押す。
「まあよい、楽しみはまたいずれ、じゃ」
そう言って扇子を戻し、環はわずかに肩をすくめた。
小浦家の江戸屋敷は、江戸城よりけっこうな距離があった。
昼過ぎにそこに到着して早々に、環は菊羽を連れて留守居役をつとめている酉谷宗丈の前で、国での出来事を報せた。
宗丈は頬骨の張った輪郭を覆う髭をなでて、旅の労をねぎらう。
その日はそれで終わり、江戸屋敷での環の部屋にふたりで落ち着く。
上に報告するにもその日にはできぬ話ではあるし、万が一のことも想定して、今後のことを方向づけておかねばならない。
そのあたりを話し合うことも必要であろう。
さて、旅装を解いた環は、菊羽を江戸の町に引っ張り出した。
「環、さま――?」
「中では、迂闊な話はできぬ」
明るく振る舞っている環の目は、真剣だった。
菊羽だけを連れて日本橋のほうへおもむき、江戸見物や買い物を楽しむ中、ふたりともまったく見慣れない人の多さに紛れ、打ち合わせをおこなう。
その夜――菊羽は、忍び装束で体を締め、江戸屋敷の天井裏に入った。
ここに至るまでに頭に入れた屋敷の図面を脳裏に思い浮かべながら、酉谷宗丈のいる奥座敷へ向かう。
夜もすっかり更け、ここまで旅をしてきた面々のほとんどは疲れ切って寝ている。
奥座敷にて、宗丈は起きていた。
誰かと話をしている。
そこに到着した菊羽は薄く穴を開け、耳を澄ませる。
「――おり、じゃ」
うっすらと、宗丈の声が届く。
やや酒に灼けた、上機嫌な響きであった。
「こ――疑われ――となく、治昭のやつが――」
もう一人に向かって話をしているようだが、もっぱら宗丈のみが声を出していた。
それが、ふと止まる。
「何奴ッ!」
宗丈が、天井を見ていた。
飾ってあった槍をつかみ、さっと払って突き上げる。
菊羽はその切っ先をかわし、静かに移動をはじめた。
奥座敷とは離れた庭に降りたところに、飛んでくるものがあった。
苦無であった。
跳び避けて、打った相手を見る。
「何者だ――っ」
月明かりが、対峙した二人を照らす。
「それはこちらの言うことだ――女か」
江戸詰めの、男のひとりであった。
抜いた刀を横に構え、菊羽を睨む。
「酉谷とともに、何を企んでいるんだ」
気圧されないよう、菊羽は低く言う。
「その構え、身のこなし、苦無の扱い――お前も忍びだな」
無言で間合いを詰めてくるのが、肯定と戦闘の合図だった。
菊羽は背負っていた脇差を抜いて刀を受ける。
縦横無尽に走る剣戟を受け続ける。
「どこの者だッ」
菊羽が跳ぶ。
距離を取って手裏剣――棒手裏剣を打つが、男に叩き落される。
「我らを探る目的は、なんだッ」
男がまた切り込んでくる。
菊羽は懐を探る。
隙が生まれてしまった。
男が苦無を拾う。
男の刀が上段から振り下ろされる。
菊羽は身を沈めて刀を受ける。
男が踏み込む。
刀がさらに押し込まれ、菊羽は腰を下げる。
菊羽はじりじりと身をずらしてゆく。
男が菊羽の腹を蹴った。
「っ!」
蹴り飛ばされずそのまま踏み込んできた男の下になってしまう。
男の剣が菊羽の衣を地面に縫い止める。
「ふふふ……」
男が、薄く笑った。
菊羽の両手首を掴んで頭上に上げる。
「か――は」
肘が捻られる。
男が菊羽の上にのしかかった。
「やっ――やめっ」
男が苦無で菊羽の装束を引き上げて――切った。
裂かれた装束をさらに破るように開く。
菊羽の丸みをおびた双丘が、月明かりのもと、さらされた。
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