転娘忍法帖

あきらつかさ

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第三帖 江戸

3-3 あるじ

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◆◇

 菊羽は心底驚いた瞳で、環を見る。
 環はなおも警戒を漂わせたまま腰を上げ、菊羽も立たせた。
「しかし久しぶりじゃのう、菊」
 調子のみは、なお明るい。
「どうじゃ、妾の部屋で茶でも」
「――あ、ありがたきお言葉」
 菊羽はどうにか環に合わせ、頭を下げる。
 よしよし、と環は口だけ満足そうな笑みを発し、菊羽を連れて客間を出た。
 控えていた端女に、奥へゆくことと茶を用意するよう告げ、先に立って歩く。
 廊下を進む足は早かった。
 環の住まう奥は、役所とは渡りで繋がってはいるが、別の建物である。
 先の時は、菊羽はこちらにまでは入ってきていない。
 いま、この奥を使っている者はほとんどなく、ほぼ環のものであった。
 己の部屋に招いた環が他の女中なども払って、二人きりになる。
「さて、菊」
 それでもなお、外には漏れないくらいの大きさで環は話しはじめた。
「何度も訊くが、まことに巽丸なのじゃな」
「天地神明に誓って、まことでございます」
 ふうむ、と環は唸る。
「忍びの術は、男女の性をも変えてしまうのか。面妖じゃの」
「父も、師も、知らぬ術でした」
「ほう」
 菊羽が、茶を淹れた。
「そなたが――巽丸だとして、じゃが――この役所に忍び込んだ曲者を追っていたことは、先に聞いておった」
 環は探るような目つきで、菊羽を見る。
「霾は用人としておるが、忍びであることも知っておる。
 そこの子とは幼い頃に会っておるが、男であったぞ」
「私は、その巽丸に相違ありません」
 菊羽は、さらに言う。
「――偽るとして、わざわざ男である者を女が名乗るなど、面倒ではありませんか」
「一理あるな」
 環は、茶も観察する。
 が、
「――よかろう」
 と、環がその茶を飲んだ。
「こんな問答しておっても埒が明かん。そなたを、妾の知っておる巽丸として話を進める」
「ありがとうございますっ」
「もし謀っておったなら、それは妾が浅はかだった、ということじゃろう」
「そ、そのようなことは決して――」
 菊羽は慌てた表情で首を振る。
 よい、と環は菊羽を寄せる。
「曲者を追った末の、ということなのじゃな」
「はい。
 それで、殿に何があったのですか。
 あ、あの――妹姫、さま?」
 それでも菊羽の体をしげしげと見ていた環は、ごまかすように小さな咳をこぼす。
「急に、倒れられたのじゃ。何の病かも――と言うより、病かどうかも判らぬ」
 環の眉間にしわができる。
「幸い、まつりごとは家老と用人でどうにかなってはおるが……」
「何か、体のお弱いところなどが、あったのですか?」
 菊羽の問いを、環は否定する。
「剣の腕など大したことはないが、体にそのようなものはないはずじゃ」
「それでは、一体――」
 と言いかけて、菊羽ははっと目を大きくした。
、とお疑いなのですね?」
「察しがよいな。それとも、知っておるのか」
 菊羽は力いっぱい、首も手も横に振る。
「私を疑われるなら、父をお呼びください」
「あいにく、左兵衛は外へやっておる」
「それなら、家老の鴻上どのを」
 ほう、と環が低い声をもらす。
舎人とねりは古くからの重臣じゃ。それに見せてよいと申すか」
「私の――女としての元服の段取りを、していただきました」
「あの舎人が、か」
 環は目を丸くして、笑った。
「面白いこともあるものじゃ。菊の元服の儀、それは見たかったのう」
 と、まだ笑う。
「ご勘弁ください……見世物ではありませんゆえ」
「その時はさすがに、おなごをしておったのじゃろう?」
「そうですが……私のことなどより妹姫さま、殿の」
「――そう、じゃな」
 環はどこか残念そうに、頷く。
 まだ、菊羽をじっと見つめていた。
 考えを巡らせるように、扇子で膝を何度もとんとんと叩く。
「菊、そなた、今何かつとめをしておるか」
「いえ――恥ずかしながら、何も」
「責めておるのではない。むしろ、その方が都合がよい」
 扇子をわずかに開き、ぱちりと鳴らした。
「妾の忍びとなれ、菊」
「えっ、あ、えっと――?」
 唐突な話だった。
「妹姫、さま?」
「環でよい」
 環の表情が、さらにいくぶん和らいでいた。
「左兵衛は舎人に仕えておるが、そなたまで父と同じでなくともよかろう。どうじゃ、女同士」
「いや、女同士では……」
 もごもごと、口の中でためらいがちな抵抗をするが、菊羽は環の瞳に浮かんでいた意図を汲みとったか、周囲の気配を読む。
「――誰か、目星が?」
 性別うんぬんはどうあれ、環が自らの陣営に忍びを入れたい、というのは、何か密かに探らせたいことがあると想像に難くない。
 この話とは関係のないことならともかく、そんなものを持ち出す環ではなかった。
「江戸、じゃ」
 環も真剣な目を菊羽に向けて、短く言った。
「江戸……?」
 菊羽はしばらく考える。
 環が、先に答えを言った。
「従兄どの――酉谷とりや宗丈そうじょうのたくらみではないか、と見ておる」
 声はいっそう、ひそめられていた。
 血縁の少ない小浦家にあって、江戸にある定府にて御城使をつとめているのは、治昭の従兄にあたる酉谷であった。
 なお、江戸屋敷には通例、正室と嫡子の常住が定められているが、いまの小浦家にはどちらもいないことは、書いていたとおりである。
「それは……」
「乗っ取りたいのじゃろ。従兄どのでは叶わずとも、その子にでも」
 忌々しげな色が、環の口調に混じっていた。
「前に、そんなことを言ったことがあるらしい。
 酔った勢いで、などと後に弁解したようじゃが、その火が燻っておるのではないか」
 家督について、領主に子がなければ、原則は断絶である。
 緊急に縁組をおこなう末期養子は少し前に解禁されたが、年長者を養子とすることは認められていない。
 酉谷宗丈は治昭よりも年上であり、治昭の養子にはなれない。
 本人が家督を継ぐには治昭がその名を記した願書を作成せねば、難しい。
 あるいは、宗丈の子を治昭の養子として相続させることで、間接的に小浦家は酉谷のものとすることができる。
 しかし、その酉谷にもこの時まだ、子はいなかった。
「では、妹姫さまは、私にそれを――」
「環」
「た、環さま」
 環がよし、とうなずく。
「妾の妄想であれば、それに越したことはない。
 そなたが追ってくれた、件の国――何といったか」
「高須、ですか」
「そう、その高須じゃ。そこの陰謀であるとか、ただの病であるとか、そうであってほしいと思う心もある」
 ただ、と環は目を伏せる。
「何と言っていいのか、ざわつくのじゃ」
 環が、菊羽の手を取った。
「菊、妾とともに江戸へ行き、従兄どのを探ってくれ」
 大役であった。
 菊羽はこくりと喉を鳴らす。
「表向きは、妾のとする」
「はっ――えええっ!?」
 つい声を大きくしてしまって菊羽を、環がたしなめる。
「よろしく頼むぞ、菊」
 その頬にはどこか、笑みが醸されていた。
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