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第三帖 江戸
3-2 環
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翌朝早くに庵を出て、五日後の朝には菊羽は姫木の領内に入った。
往路のときと同じく、娘姿である。
中山道を途中で外れて南下して、東海道に入り、箱根を越えた。
女手形は原則として発行から翌月の末までの期限であり、とうに切れてしまっていたのだが、袖の下と菊羽の娘らしい演技で、それほど足止めされずに関所を通ることができていた。
行きのときに、箱根関でこと細かに調べられていたことが、むしろ功を奏した。
箱根の関所では『出女』に対する監視と検査が厳しかったことは、現代でも知られているところである。
人見女という女性を検分する役職もおかれていた。
菊羽ももちろん、調べられていた。
その時、菊羽の前に吟味されたのが男装していた女で、菊羽の検分が終わってもなお解放されていなかった。
それを見ていた菊羽はさすがに、関所で男を主張することはかえって面倒になると悟っていたところもあり、女装で旅路をゆくことへの抵抗は薄くなっていた。
止められたとはいえ、西へ行くときよりも簡単な手続きで関所を通った菊羽は、街道から町に入ってまっすぐ陣屋へ――己の家に向かった。
はたして、菊羽が旅立つ前と変わらぬ佇まいの大叔父のみが、家にはいた。
さらに女らしくなっていることに驚く順影老がそれでも、玄信が登城していることを菊羽に教える。
ゆっくりと旅の疲れをほぐすことはせず、菊羽は旅装から着替え――男物の装いで、髪は髷を結わない総髪にして、刀は差さずに役所へと赴いた。
大手門の門番に、用人霾玄信の娘で父に火急の用あり、と伝える。
しばらく待たされたのちに、用人部屋の隣にある客間へ通された。
そこでまた、一人にされる。
「……ん?」
しん、となった客間に、他からの音が届く。
「書院のほう――?」
以前、潜入した身である。
この陣屋の構造はおおむね、頭に入っている。
役所の、それも深部のほうがざわついていた。
「何か、あったのかな……」
ひとりごちる。
とはいえ、部屋を出て勝手に動き回ることもできず、菊羽はただ客間で耳をすますばかりであった。
半刻ほども、そうして菊羽は一人、部屋の中で待たされていたが、急に足音が近づいてきた。
姿勢を崩し――というより、部屋の端で意識をそばだてていた菊羽は慌てて戻り、座り直す。
――入ってきたのは、父ではなかった。
「そなたか、左兵衛の娘などと謀るのは」
女性であった。
菊羽よりは年上のようだが、若い。
萌黄の小袖に蘇芳の打掛を羽織り、結い上げた髪は控えめながらも櫛簪に彩られ、いかにも身分のある立ち居であった。
廊下にもう一人、端女が控えていた。
菊羽がひれ伏す。
しかし、疑問符をこぼした。
「妹姫、さま――?」
領主治昭の妹であった。
名を、環という。
領主とは年齢の離れた妹だ。
まだ眉を落としていない娘で、この陣屋の奥で暮らしている。
その環が現れ、つり気味で切れ長の目を訝しげに、菊羽に向けていた。
「左兵衛には息子しかおらなんだはずじゃが?」
間をとって、座る。
落ち着いた、涼しげというより冷ややかに近い声だった。
環のほうが、菊羽よりいくぶん、身長があった。
菊羽はこの環とは数年前、巽丸だった頃に会ったことがある。
「その、巽丸でございます」
「嘘を申すな。そなたは男のなりをしておるが、どう見てもおなごではないか」
環の口調がさらに温度を下げる。
「此度のこと、そなたの手のものの仕業か。なれば容赦はせぬぞ」
「な、何のことですか妹姫さまっ」
菊羽はいくぶん距離を詰め、すがりつくような目で環を見上げた。
「私はまことに、霾玄信の息子――でした。こうなったのは敵の術なのですっ」
訴える。
人を呼びそうな素振りだった環はぴくりと片眉を上げ、手を止めた。
「申してみよ」
と、帯に挟んでいた扇子で菊羽を指し、促す。
「ありがとうございますっ」
菊羽は再度畳に額を付け、環に命じられるままに、近寄って抑えめの声量で話しはじめた。
「少し前のことでございました――」
緊張も、必死さもあったか、早口気味だった。
「――偽りは、ないのじゃな?」
念押しのように、環が言う。
菊羽が説明をはじめた四半刻ほど前よりなお、二人の間合いは近くなっていた。
何度も菊羽は頷く。
「どう証を立てれば信じていただけるか――」
困り顔を浮かべる菊羽の顎を取って、環はしばし考えるように目を細める。
「そうじゃな――」
おお、と何か思い出したか、笑った。
「脱げ」
簡潔に命じる。
菊羽は目を丸くして、わずかに腰を引いた。
「えっ、そ、なにゆえ――」
「いいから、脱げ」
環は菊羽の片手を掴み、押し倒す勢いで迫ると袴に手をかけた。
菊羽は身をひねって躱そうとするが、環の手のほうが早かった。
着物が引っ張られて緩まり、上体が剥かれる。
腕で胸のふくらみを隠す菊羽に、環はふふと笑う。
「おなごの仕草じゃの。
そう怯えるな。背を見たいだけじゃ」
と、環は菊羽の背を覗き込んだ。
「ひゃっ!?」
環の指が、菊羽の背――にある傷痕をすっと撫でていた。
ひやりと肌を滑る感触に菊羽は声をもらす。
「――ふむ」
また思案顔を見せながら、環は菊羽の着崩れを少し戻す。
「手荒な真似をして、すまなかった」
「妹姫、さま――?」
環は適度な間合いに戻り、姿勢を整えた。
菊羽はそそくさと襟を合わせ直し、帯を締める。
「巽丸から、何となったのじゃ」
「――菊羽、です」
答えてから、菊羽はあっと目を大きくする。
「それでは妹姫さま、私のことを――」
環は柔らかな笑顔で頷く。
「その傷、懐かしいの。
――斯様に、稀有なこともあるものじゃな」
環の声から、さきほどまでの険が取れていた。
菊羽の背に残る傷は、以前、笄年より前の環の目の前で負ったものであった。
その時に、当時の巽丸は治療のためとはいえ、環に体をすべて見られていた。
ようやく、菊羽は瞳に安堵を漂わせる。
ところが、環は腰を上げて廊下に向かい――襖をぴしりと閉めた。
菊羽と膝のつくくらいの位置に座って、その上で小声で言う。
「では菊羽――いま、不穏なものはおらぬか」
菊羽は、はっと目を見開いてから、すぐに集中を見せる。
素早く左右に視線を走らせ、目を閉じた。
「――おりませぬ、妹姫さま」
菊羽も、声を潜める。
環が頷いた。
「いやあ、疑うてすまなかった、菊。
そうかそうか、昔は男子と思うておったが、実はおなごであったとはの。妾が無礼であった、許せ」
明るい声をあげる。
菊羽が元服前の昔に、その男子のしるしを見たこともある環が、本当は女子であったことに気付いていなかった、という体で、自嘲のような苦笑をこぼしていた。
菊と親しげに呼び、「近う」と、反応に困っている面持ちの菊羽を寄せた。
「すっかり年頃の娘というに、なにゆえこんな装いをする。女らしゅうすればよかろう」
軽い口調で続ける。
菊羽の肩をゆるく抱き、耳元に口をつけんばかりになる。
「兄上が倒れられた」
その位置で、短く低く素早く、環が言った。
環にとって兄とは、この姫木領を治める治昭のほかに、いない。
往路のときと同じく、娘姿である。
中山道を途中で外れて南下して、東海道に入り、箱根を越えた。
女手形は原則として発行から翌月の末までの期限であり、とうに切れてしまっていたのだが、袖の下と菊羽の娘らしい演技で、それほど足止めされずに関所を通ることができていた。
行きのときに、箱根関でこと細かに調べられていたことが、むしろ功を奏した。
箱根の関所では『出女』に対する監視と検査が厳しかったことは、現代でも知られているところである。
人見女という女性を検分する役職もおかれていた。
菊羽ももちろん、調べられていた。
その時、菊羽の前に吟味されたのが男装していた女で、菊羽の検分が終わってもなお解放されていなかった。
それを見ていた菊羽はさすがに、関所で男を主張することはかえって面倒になると悟っていたところもあり、女装で旅路をゆくことへの抵抗は薄くなっていた。
止められたとはいえ、西へ行くときよりも簡単な手続きで関所を通った菊羽は、街道から町に入ってまっすぐ陣屋へ――己の家に向かった。
はたして、菊羽が旅立つ前と変わらぬ佇まいの大叔父のみが、家にはいた。
さらに女らしくなっていることに驚く順影老がそれでも、玄信が登城していることを菊羽に教える。
ゆっくりと旅の疲れをほぐすことはせず、菊羽は旅装から着替え――男物の装いで、髪は髷を結わない総髪にして、刀は差さずに役所へと赴いた。
大手門の門番に、用人霾玄信の娘で父に火急の用あり、と伝える。
しばらく待たされたのちに、用人部屋の隣にある客間へ通された。
そこでまた、一人にされる。
「……ん?」
しん、となった客間に、他からの音が届く。
「書院のほう――?」
以前、潜入した身である。
この陣屋の構造はおおむね、頭に入っている。
役所の、それも深部のほうがざわついていた。
「何か、あったのかな……」
ひとりごちる。
とはいえ、部屋を出て勝手に動き回ることもできず、菊羽はただ客間で耳をすますばかりであった。
半刻ほども、そうして菊羽は一人、部屋の中で待たされていたが、急に足音が近づいてきた。
姿勢を崩し――というより、部屋の端で意識をそばだてていた菊羽は慌てて戻り、座り直す。
――入ってきたのは、父ではなかった。
「そなたか、左兵衛の娘などと謀るのは」
女性であった。
菊羽よりは年上のようだが、若い。
萌黄の小袖に蘇芳の打掛を羽織り、結い上げた髪は控えめながらも櫛簪に彩られ、いかにも身分のある立ち居であった。
廊下にもう一人、端女が控えていた。
菊羽がひれ伏す。
しかし、疑問符をこぼした。
「妹姫、さま――?」
領主治昭の妹であった。
名を、環という。
領主とは年齢の離れた妹だ。
まだ眉を落としていない娘で、この陣屋の奥で暮らしている。
その環が現れ、つり気味で切れ長の目を訝しげに、菊羽に向けていた。
「左兵衛には息子しかおらなんだはずじゃが?」
間をとって、座る。
落ち着いた、涼しげというより冷ややかに近い声だった。
環のほうが、菊羽よりいくぶん、身長があった。
菊羽はこの環とは数年前、巽丸だった頃に会ったことがある。
「その、巽丸でございます」
「嘘を申すな。そなたは男のなりをしておるが、どう見てもおなごではないか」
環の口調がさらに温度を下げる。
「此度のこと、そなたの手のものの仕業か。なれば容赦はせぬぞ」
「な、何のことですか妹姫さまっ」
菊羽はいくぶん距離を詰め、すがりつくような目で環を見上げた。
「私はまことに、霾玄信の息子――でした。こうなったのは敵の術なのですっ」
訴える。
人を呼びそうな素振りだった環はぴくりと片眉を上げ、手を止めた。
「申してみよ」
と、帯に挟んでいた扇子で菊羽を指し、促す。
「ありがとうございますっ」
菊羽は再度畳に額を付け、環に命じられるままに、近寄って抑えめの声量で話しはじめた。
「少し前のことでございました――」
緊張も、必死さもあったか、早口気味だった。
「――偽りは、ないのじゃな?」
念押しのように、環が言う。
菊羽が説明をはじめた四半刻ほど前よりなお、二人の間合いは近くなっていた。
何度も菊羽は頷く。
「どう証を立てれば信じていただけるか――」
困り顔を浮かべる菊羽の顎を取って、環はしばし考えるように目を細める。
「そうじゃな――」
おお、と何か思い出したか、笑った。
「脱げ」
簡潔に命じる。
菊羽は目を丸くして、わずかに腰を引いた。
「えっ、そ、なにゆえ――」
「いいから、脱げ」
環は菊羽の片手を掴み、押し倒す勢いで迫ると袴に手をかけた。
菊羽は身をひねって躱そうとするが、環の手のほうが早かった。
着物が引っ張られて緩まり、上体が剥かれる。
腕で胸のふくらみを隠す菊羽に、環はふふと笑う。
「おなごの仕草じゃの。
そう怯えるな。背を見たいだけじゃ」
と、環は菊羽の背を覗き込んだ。
「ひゃっ!?」
環の指が、菊羽の背――にある傷痕をすっと撫でていた。
ひやりと肌を滑る感触に菊羽は声をもらす。
「――ふむ」
また思案顔を見せながら、環は菊羽の着崩れを少し戻す。
「手荒な真似をして、すまなかった」
「妹姫、さま――?」
環は適度な間合いに戻り、姿勢を整えた。
菊羽はそそくさと襟を合わせ直し、帯を締める。
「巽丸から、何となったのじゃ」
「――菊羽、です」
答えてから、菊羽はあっと目を大きくする。
「それでは妹姫さま、私のことを――」
環は柔らかな笑顔で頷く。
「その傷、懐かしいの。
――斯様に、稀有なこともあるものじゃな」
環の声から、さきほどまでの険が取れていた。
菊羽の背に残る傷は、以前、笄年より前の環の目の前で負ったものであった。
その時に、当時の巽丸は治療のためとはいえ、環に体をすべて見られていた。
ようやく、菊羽は瞳に安堵を漂わせる。
ところが、環は腰を上げて廊下に向かい――襖をぴしりと閉めた。
菊羽と膝のつくくらいの位置に座って、その上で小声で言う。
「では菊羽――いま、不穏なものはおらぬか」
菊羽は、はっと目を見開いてから、すぐに集中を見せる。
素早く左右に視線を走らせ、目を閉じた。
「――おりませぬ、妹姫さま」
菊羽も、声を潜める。
環が頷いた。
「いやあ、疑うてすまなかった、菊。
そうかそうか、昔は男子と思うておったが、実はおなごであったとはの。妾が無礼であった、許せ」
明るい声をあげる。
菊羽が元服前の昔に、その男子のしるしを見たこともある環が、本当は女子であったことに気付いていなかった、という体で、自嘲のような苦笑をこぼしていた。
菊と親しげに呼び、「近う」と、反応に困っている面持ちの菊羽を寄せた。
「すっかり年頃の娘というに、なにゆえこんな装いをする。女らしゅうすればよかろう」
軽い口調で続ける。
菊羽の肩をゆるく抱き、耳元に口をつけんばかりになる。
「兄上が倒れられた」
その位置で、短く低く素早く、環が言った。
環にとって兄とは、この姫木領を治める治昭のほかに、いない。
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