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第ニ帖 菊羽
2-3 伊賀
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◆◇
姫木から伊賀まで、玄信の言ったほどではないが、九十里ちかく離れていた。
菊羽は街道を通らない山林の中――ではなく、堂々と人の往来する道を、旅の娘らしい姿で進んでいた。
伊勢詣、という体で、箱根関も無事に通り抜けられていた。
路を急ぎたい菊羽への、玄信の策であった。
険しい山林の中を、関破りで捕まりかねない危険を冒してまで通るより、整備された街道をゆくほうが早く、また関所さえ越えられればよく、獣などに襲われる心配も少ない。
そのため、玄信は女手形も舎人に頼み手配してもらっていた。
一見『娘ひとりの旅』という注目はされそうではあるが、街道で降りかかる火の粉程度ならば、これまでも修練を積んでいる菊羽の腕があれば切り抜けられる、そうも見た上での玄信の判断だった。
むしろ、女(に見える菊羽の体)を偽った旅をして、それが露見した時のほうが、厄介でもある。
その菊羽が伊賀国阿拝郡に入ったのは、早朝に家を発ってから五日目の、日暮れにさしかかる時分であった。
出立するまでに三日をかけ、旅装を整え、道具を備え、という用意を抜かりなく行っていた。
懐には、玄信が仕立てた書状がある。厳重にも蝋で封じられたものだった。
この頃には忍びの仕事が減っていることは、書いたとおりである。
伊賀は古くより忍びの系譜の濃い地だが、その技をしても逆らえぬ潮流であった。藤堂氏のもと、無足としての扶持はあったものの、かつてのごとくは夢見るばかりであった。
百姓へと帰農した者も、少なくない。
それらは忍びを脱した、いわゆる抜け忍とは見做されず、無事とも云えた。
また、伊賀といえば服部半蔵――二代目か、三代目の――が有名であろうが、かれの功績がこの地の郎党すべてに恩恵のあったものではなかった。
それでも彼らは、己の技術を売り、幕府の安定のため働くこともあった。
さて、阿拝郡は、近江甲賀と接した地域である。
いくつもの村をまとめて、郡という。
向かっていた方向としてはその村のうちのひとつだったが、菊羽は集落に立ち寄ることなく、そこからさらに北を目指し、山を登ってゆく。
この山を越えた先は、甲賀の地だ。
菊羽は、地味な色味に格子柄の小袖と手甲脚絆、振り分けた荷物と小太刀、それに笠をかぶった、いかにも女の旅といった格好で、道とは云えないほどの山道を進み、中腹あたりでその道を逸れて木々の茂るそれこそ獣道でもない中へ分け入ってゆく。
やがて、菊羽の視線の先に、庵が現れた。
そもそもここまで来る者も少ないだろうが、そこにあると知った上でなお注意して観ないと見落としそうな、周囲の山林に溶け込んだつくりだった。
木の間を渡した屋根は枝葉の下で、壁も一見、木の幹かどうか判別に迷いそうな、炭焼き小屋よりも目立たない雰囲気であった。
「これか……」
笠を脱いで、菊羽がつぶやく。
音を立てないよう、裏手――菊羽の登ってきた方より鬱蒼とした方へ回り込んでみると、小さな畑が隠されるようにして、あった。
まわりはすでに、夜の帳を用意しつつあった。
獣よけの罠を避けて表に戻り、戸を叩く前にひと息つこうとしたところで、菊羽はその息を呑み込んだ。
菊羽の背後に、いつの間にか人がいた。
「娘――道に迷うたか、狐狸の類か。儂を狙うどこぞの手の者か。
何でもよいが、すぐに去るか、ここで肥やしとなるか、選べ」
嗄れた声だった。
菊羽は頭だけ振り返る。
声のとおりの、老いた男であった。
菊羽と変わらぬくらいの背丈で、髷を結わない伸びるままの真っ白な総髪に長い白髭という老人だが、菊羽を猛禽のごとき眼光で射抜き、手にした杖が腰を貫くような力で圧していた。
「そうではありませぬ。――霾玄信の息子の、菊羽と申します」
掠れそうな口の乾きを覚えながら、菊羽はどうにか絞り出すように発した。
「藤林どの、ですか」
「ほ」
肯定も否定もせず、老人が嗤う。
「息子、と。
おなごではないか、お主」
老人の手が風よりも速く疾ったかと思うと、菊羽の帯がすっぱりと切れた。
「あっ!」
菊羽はだらりと広がる着物を慌てて押さえる。
老人の杖が菊羽の腰から布を押し上げ、胸のふくらみが露になりかける。
「これでもまだ、我が弟子の息子と謀るか」
「まことに、息子なのです――」
菊羽は懐の、腰巻に挟んでいた書状を取り出して老人に渡した。
それを一瞥したのみで広げず、老人はなおも杖の先で菊羽の体を着物の上から弄る。
「声も、尻も、どこをしても小娘じゃな」
「――二十日ほど、前のことです」
菊羽は緊張感を隠せない調子で、いきさつを話す。
老人が目を細めた。
杖が菊羽を通り越し、戸を指した。
「菊羽というたか、入るといい」
姫木から伊賀まで、玄信の言ったほどではないが、九十里ちかく離れていた。
菊羽は街道を通らない山林の中――ではなく、堂々と人の往来する道を、旅の娘らしい姿で進んでいた。
伊勢詣、という体で、箱根関も無事に通り抜けられていた。
路を急ぎたい菊羽への、玄信の策であった。
険しい山林の中を、関破りで捕まりかねない危険を冒してまで通るより、整備された街道をゆくほうが早く、また関所さえ越えられればよく、獣などに襲われる心配も少ない。
そのため、玄信は女手形も舎人に頼み手配してもらっていた。
一見『娘ひとりの旅』という注目はされそうではあるが、街道で降りかかる火の粉程度ならば、これまでも修練を積んでいる菊羽の腕があれば切り抜けられる、そうも見た上での玄信の判断だった。
むしろ、女(に見える菊羽の体)を偽った旅をして、それが露見した時のほうが、厄介でもある。
その菊羽が伊賀国阿拝郡に入ったのは、早朝に家を発ってから五日目の、日暮れにさしかかる時分であった。
出立するまでに三日をかけ、旅装を整え、道具を備え、という用意を抜かりなく行っていた。
懐には、玄信が仕立てた書状がある。厳重にも蝋で封じられたものだった。
この頃には忍びの仕事が減っていることは、書いたとおりである。
伊賀は古くより忍びの系譜の濃い地だが、その技をしても逆らえぬ潮流であった。藤堂氏のもと、無足としての扶持はあったものの、かつてのごとくは夢見るばかりであった。
百姓へと帰農した者も、少なくない。
それらは忍びを脱した、いわゆる抜け忍とは見做されず、無事とも云えた。
また、伊賀といえば服部半蔵――二代目か、三代目の――が有名であろうが、かれの功績がこの地の郎党すべてに恩恵のあったものではなかった。
それでも彼らは、己の技術を売り、幕府の安定のため働くこともあった。
さて、阿拝郡は、近江甲賀と接した地域である。
いくつもの村をまとめて、郡という。
向かっていた方向としてはその村のうちのひとつだったが、菊羽は集落に立ち寄ることなく、そこからさらに北を目指し、山を登ってゆく。
この山を越えた先は、甲賀の地だ。
菊羽は、地味な色味に格子柄の小袖と手甲脚絆、振り分けた荷物と小太刀、それに笠をかぶった、いかにも女の旅といった格好で、道とは云えないほどの山道を進み、中腹あたりでその道を逸れて木々の茂るそれこそ獣道でもない中へ分け入ってゆく。
やがて、菊羽の視線の先に、庵が現れた。
そもそもここまで来る者も少ないだろうが、そこにあると知った上でなお注意して観ないと見落としそうな、周囲の山林に溶け込んだつくりだった。
木の間を渡した屋根は枝葉の下で、壁も一見、木の幹かどうか判別に迷いそうな、炭焼き小屋よりも目立たない雰囲気であった。
「これか……」
笠を脱いで、菊羽がつぶやく。
音を立てないよう、裏手――菊羽の登ってきた方より鬱蒼とした方へ回り込んでみると、小さな畑が隠されるようにして、あった。
まわりはすでに、夜の帳を用意しつつあった。
獣よけの罠を避けて表に戻り、戸を叩く前にひと息つこうとしたところで、菊羽はその息を呑み込んだ。
菊羽の背後に、いつの間にか人がいた。
「娘――道に迷うたか、狐狸の類か。儂を狙うどこぞの手の者か。
何でもよいが、すぐに去るか、ここで肥やしとなるか、選べ」
嗄れた声だった。
菊羽は頭だけ振り返る。
声のとおりの、老いた男であった。
菊羽と変わらぬくらいの背丈で、髷を結わない伸びるままの真っ白な総髪に長い白髭という老人だが、菊羽を猛禽のごとき眼光で射抜き、手にした杖が腰を貫くような力で圧していた。
「そうではありませぬ。――霾玄信の息子の、菊羽と申します」
掠れそうな口の乾きを覚えながら、菊羽はどうにか絞り出すように発した。
「藤林どの、ですか」
「ほ」
肯定も否定もせず、老人が嗤う。
「息子、と。
おなごではないか、お主」
老人の手が風よりも速く疾ったかと思うと、菊羽の帯がすっぱりと切れた。
「あっ!」
菊羽はだらりと広がる着物を慌てて押さえる。
老人の杖が菊羽の腰から布を押し上げ、胸のふくらみが露になりかける。
「これでもまだ、我が弟子の息子と謀るか」
「まことに、息子なのです――」
菊羽は懐の、腰巻に挟んでいた書状を取り出して老人に渡した。
それを一瞥したのみで広げず、老人はなおも杖の先で菊羽の体を着物の上から弄る。
「声も、尻も、どこをしても小娘じゃな」
「――二十日ほど、前のことです」
菊羽は緊張感を隠せない調子で、いきさつを話す。
老人が目を細めた。
杖が菊羽を通り越し、戸を指した。
「菊羽というたか、入るといい」
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