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第一帖 巽丸
1-4 月陰
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◆◇
男は箱根を超え、さらに西に向かっていた。
それを追う巽丸もまた、同じ方角へと走る。
関を通らずに道なき道をゆき、飛脚よりも速く、山林を駆けていった。
おおよそ二日半、その追跡はつづいた。
やがて男はひとつの国に入ったところで、その領知の城を目指す方向へ進む。
巽丸はその頃にはまた、頭巾も巻いた忍び装束の姿になっていた。
木々を抜けて追うには、そのほうが動きやすかった。
ひそかに国境を確認する。
「高須――」
美濃国石津郡高須、現在でいう岐阜県海津市のあたりであった。
この時より少し前に、下総より小笠原家が二万二千石で入封した地である。
その高須の城に、男は人目につかないように入っていった。
巽丸も忍び込む。
男は城の、二の丸の中庭で、跪いていた。
「先に報せが着いておるかと思いますが――」
男の言に答えたのは、笑い声だった。
茂みに身を潜めた巽丸の場所からは、声の主は見えないが、老いた色だった。
「これを見てみろ」
と、怒り混じりの声がする。
しばらく間を置いて、
「なっ、こ、これは――ッ」
と男が唸る。
巽丸はひそかに、ほくそ笑んでいた。
鳩に付けた密書はすり替え、ここに届いたのは巽丸が記した落書きであった。
「易々としてやられおって」
嗄れた声がため息をこぼす。
「まあよい。下がれ」
「しかし――」
「下がれッ」
一喝された男が深々と頭を下げてから、消えた。
「さて……」
声の主が呟く。
巽丸はまだ、灌木の間に隠れていた。
そこからそろりと、後ろに下がろうとした時だった。
「――まだ、子供ではないか」
巽丸の背後に、人がいた。
右に飛び退こうとした蹴り足を刀の鞘で取られ、転ぶ。
しかし巽丸はその勢いのまま横転して人影から距離を取ろうとする。
「ほっ」
歓心のような、嘲りのような、老いた声が巽丸の上から降ってきた。
裃をつけたさむらいが、そこにいた。
「小僧のくせに、やりおる」
声ほどに老けた様子のない風貌の男だった。
半ば白くなった髷と、同じく白黒混じりの髭をたくわえてはいるが、皺は少ない。
先程は部屋から言葉を発していたはずの男だった。
巽丸は低い体勢で腰に手をやるが、それ以上の動きを取れずにいた。
「しかしこの生駒の目を欺けると思うたか、小癪な」
「な――何者だっ」
巽丸が声を上げ、刀の柄に手をかける。
「それはこちらの言うことじゃ」
生駒、と名乗った男がずいと巽丸との間合いを詰める。
「おおかた小浦家中の者に相違ないのであろうが、こうも虚仮にされては面目が立たぬ。もっとも、こんな小僧にしてやられたあ奴にも仕置をせねばならぬが、な」
鞘尻で右の肩口から押し倒された巽丸が生駒を見上げて言う。
「こ、殺せっ」
生駒がにいい、と唇を横に広げていた。
「よい覚悟じゃ。だが、それでは面白うない」
両手で何かの印を組む。
生駒の手を離れたはずの刀はしかし、巽丸の肩を圧して直立していた。
地に埋まりそうなほどの力で押し付けられ、左手や足で抵抗してもそれが緩む兆しはない。
「人を呼んでもよいが、それもやはり気は晴れぬ。
お前から何か聞き出さねばならぬことはない。
ゆえに、我が秘術をくれてやる。運が良ければ命は残るやも知れんぞ、小僧」
「いいからここで殺せよっ。おれに何かしても無駄だぞっ」
「ふふ……無駄かどうかは、天が決める」
生駒が、手に力をこめた。
短く唱える。
「月陰」
聞き慣れない名だった。
生駒の手から淡黄がかった何かが放出された。
まっすぐ迸るそれは狙い違わず巽丸を打つ。
それは、泡であった。
「わっ、な、なんだこれ――っ!?」
細かな泡の奔流が巽丸を包みこんでゆく。
生駒の刀がふい、と浮いてかれの足元まで飛んだ。
巽丸の全身を包んだものはちりちりと細かな音を立てていた。
解放された巽丸が泡の中でもがく。
顔にかかったものを払い取り、巽丸は生駒を見上げた。
「へっ、毒だか何だか知らないけどさ、このとおり効いてないぞっ」
泡は弾けるように、あるいは溶け込むように、消えつつあった。
跳ね起きて低い姿勢のまま、巽丸はあらためて柄に手をやる。
「さて、どうかな――」
卑な笑みを絶やさず、生駒は足元の刀を拾った。
その佇まいに隙を見いだせず、巽丸が舌を打つ。
「ちぇっ、退いてやるよっ。殺さなかったことを悔いるんだなっ」
と、煙玉を叩きつけた。
生駒のにやついた顔が白煙の向こうになり、同時に巽丸は体じゅうのばねで跳ぶ。
追い打ちの来る様子はなかった。余程、この『月陰』なる術に自信でもあるのだろうか。
巽丸は塀を数歩で飛び越え、城を脱出する。
それを見送る生駒はまだ、薄く企みごとのような口を貼り付かせていた。
「死なばよし、死なぬばなお、面白いことになるじゃろうて。
甲賀五人が一人、生駒弧月斎の秘術――とくと味わえ、小僧」
そう呟いて、生駒弧月斎はゆっくりと歩きはじめた。
巽丸は、城の北を流れる大江川を越え、国への帰路を急いでいた。
先に父に渡した密書と、どこから来た間者か報告すれば、自身の知識では追いつかなくとも、父や鴻上舎人などの読みも加わり、向こうの狙いも見当がつくだろう、巽丸はそう考えていた。
早々に街道を外れ、山中に入る。
道中にあった川で、体と着ているものを洗った。万が一意識せずあの泡を飲んでいたときの用心にと、喉に指を突っ込んで胃の腑の中身も絞り出す。
しかし、そこからしばらく道中を進んだ、夜半のことであった。
巽丸の身体を鈍重な衝撃が襲った。
「これが――あの術、っ!?」
まだ少年の柔軟な体を丸め、地にうずくまる。
「先を急ぎたい、の、に……っ」
耐える表情で地を蹴る。
下から見えない、葉の茂る枝に腰を落ち着けて、頭巾を取る。
頭巾は一枚の布でできており、まっすぐにすると二メートル程度の長さがある。
それで自分の体を木の幹に縛り付けたところで、巽丸はぐったりと気を失った。
洗ったはずの巽丸の身から、ふつふつと泡が流れる。
月が煌々とした光を放ち、巽丸の隠れる森の上にあった。
男は箱根を超え、さらに西に向かっていた。
それを追う巽丸もまた、同じ方角へと走る。
関を通らずに道なき道をゆき、飛脚よりも速く、山林を駆けていった。
おおよそ二日半、その追跡はつづいた。
やがて男はひとつの国に入ったところで、その領知の城を目指す方向へ進む。
巽丸はその頃にはまた、頭巾も巻いた忍び装束の姿になっていた。
木々を抜けて追うには、そのほうが動きやすかった。
ひそかに国境を確認する。
「高須――」
美濃国石津郡高須、現在でいう岐阜県海津市のあたりであった。
この時より少し前に、下総より小笠原家が二万二千石で入封した地である。
その高須の城に、男は人目につかないように入っていった。
巽丸も忍び込む。
男は城の、二の丸の中庭で、跪いていた。
「先に報せが着いておるかと思いますが――」
男の言に答えたのは、笑い声だった。
茂みに身を潜めた巽丸の場所からは、声の主は見えないが、老いた色だった。
「これを見てみろ」
と、怒り混じりの声がする。
しばらく間を置いて、
「なっ、こ、これは――ッ」
と男が唸る。
巽丸はひそかに、ほくそ笑んでいた。
鳩に付けた密書はすり替え、ここに届いたのは巽丸が記した落書きであった。
「易々としてやられおって」
嗄れた声がため息をこぼす。
「まあよい。下がれ」
「しかし――」
「下がれッ」
一喝された男が深々と頭を下げてから、消えた。
「さて……」
声の主が呟く。
巽丸はまだ、灌木の間に隠れていた。
そこからそろりと、後ろに下がろうとした時だった。
「――まだ、子供ではないか」
巽丸の背後に、人がいた。
右に飛び退こうとした蹴り足を刀の鞘で取られ、転ぶ。
しかし巽丸はその勢いのまま横転して人影から距離を取ろうとする。
「ほっ」
歓心のような、嘲りのような、老いた声が巽丸の上から降ってきた。
裃をつけたさむらいが、そこにいた。
「小僧のくせに、やりおる」
声ほどに老けた様子のない風貌の男だった。
半ば白くなった髷と、同じく白黒混じりの髭をたくわえてはいるが、皺は少ない。
先程は部屋から言葉を発していたはずの男だった。
巽丸は低い体勢で腰に手をやるが、それ以上の動きを取れずにいた。
「しかしこの生駒の目を欺けると思うたか、小癪な」
「な――何者だっ」
巽丸が声を上げ、刀の柄に手をかける。
「それはこちらの言うことじゃ」
生駒、と名乗った男がずいと巽丸との間合いを詰める。
「おおかた小浦家中の者に相違ないのであろうが、こうも虚仮にされては面目が立たぬ。もっとも、こんな小僧にしてやられたあ奴にも仕置をせねばならぬが、な」
鞘尻で右の肩口から押し倒された巽丸が生駒を見上げて言う。
「こ、殺せっ」
生駒がにいい、と唇を横に広げていた。
「よい覚悟じゃ。だが、それでは面白うない」
両手で何かの印を組む。
生駒の手を離れたはずの刀はしかし、巽丸の肩を圧して直立していた。
地に埋まりそうなほどの力で押し付けられ、左手や足で抵抗してもそれが緩む兆しはない。
「人を呼んでもよいが、それもやはり気は晴れぬ。
お前から何か聞き出さねばならぬことはない。
ゆえに、我が秘術をくれてやる。運が良ければ命は残るやも知れんぞ、小僧」
「いいからここで殺せよっ。おれに何かしても無駄だぞっ」
「ふふ……無駄かどうかは、天が決める」
生駒が、手に力をこめた。
短く唱える。
「月陰」
聞き慣れない名だった。
生駒の手から淡黄がかった何かが放出された。
まっすぐ迸るそれは狙い違わず巽丸を打つ。
それは、泡であった。
「わっ、な、なんだこれ――っ!?」
細かな泡の奔流が巽丸を包みこんでゆく。
生駒の刀がふい、と浮いてかれの足元まで飛んだ。
巽丸の全身を包んだものはちりちりと細かな音を立てていた。
解放された巽丸が泡の中でもがく。
顔にかかったものを払い取り、巽丸は生駒を見上げた。
「へっ、毒だか何だか知らないけどさ、このとおり効いてないぞっ」
泡は弾けるように、あるいは溶け込むように、消えつつあった。
跳ね起きて低い姿勢のまま、巽丸はあらためて柄に手をやる。
「さて、どうかな――」
卑な笑みを絶やさず、生駒は足元の刀を拾った。
その佇まいに隙を見いだせず、巽丸が舌を打つ。
「ちぇっ、退いてやるよっ。殺さなかったことを悔いるんだなっ」
と、煙玉を叩きつけた。
生駒のにやついた顔が白煙の向こうになり、同時に巽丸は体じゅうのばねで跳ぶ。
追い打ちの来る様子はなかった。余程、この『月陰』なる術に自信でもあるのだろうか。
巽丸は塀を数歩で飛び越え、城を脱出する。
それを見送る生駒はまだ、薄く企みごとのような口を貼り付かせていた。
「死なばよし、死なぬばなお、面白いことになるじゃろうて。
甲賀五人が一人、生駒弧月斎の秘術――とくと味わえ、小僧」
そう呟いて、生駒弧月斎はゆっくりと歩きはじめた。
巽丸は、城の北を流れる大江川を越え、国への帰路を急いでいた。
先に父に渡した密書と、どこから来た間者か報告すれば、自身の知識では追いつかなくとも、父や鴻上舎人などの読みも加わり、向こうの狙いも見当がつくだろう、巽丸はそう考えていた。
早々に街道を外れ、山中に入る。
道中にあった川で、体と着ているものを洗った。万が一意識せずあの泡を飲んでいたときの用心にと、喉に指を突っ込んで胃の腑の中身も絞り出す。
しかし、そこからしばらく道中を進んだ、夜半のことであった。
巽丸の身体を鈍重な衝撃が襲った。
「これが――あの術、っ!?」
まだ少年の柔軟な体を丸め、地にうずくまる。
「先を急ぎたい、の、に……っ」
耐える表情で地を蹴る。
下から見えない、葉の茂る枝に腰を落ち着けて、頭巾を取る。
頭巾は一枚の布でできており、まっすぐにすると二メートル程度の長さがある。
それで自分の体を木の幹に縛り付けたところで、巽丸はぐったりと気を失った。
洗ったはずの巽丸の身から、ふつふつと泡が流れる。
月が煌々とした光を放ち、巽丸の隠れる森の上にあった。
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