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第三三話
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「ふざけるでない!」
王母は傍らに置かれていた卓を力任せに倒す。残りの酒器が割れ、破片が床の上に飛び散った。
「あの者は神ではないと申したのは、そなたじゃ!」
「ええ。神ではなく、神がわたくしの願いを叶えるために遣わしてくださった尊い御方でございます」
「願いだと? そなたの願いはすでに叶ったではないか。あの日、そなたが受けた神託のとおり、我が君がこうして玉座におわすのだから」
重要なのはゼンが神の使者であるということで、願いの中身ではないのだが、王母は気づかない。
この女性は己の興味が最優先なのだ。
だから目先のことに囚われて、辿るべき道筋を誤る。
なんと幸せな人なのか。
不遇の時代を健気に耐えしのび、王位継承権第三位と少しばかり玉座から遠くにいた息子が、あれよあれよという間に王になった。
それは偶然の産物ではない。
王母とアガリエがこの十年余り尽力した賜物でもある。喜びは一塩であったに違いない。
誰が彼女を責められるだろう。
国の最高位に近い身分。己の一挙一側に敏感に反応し、へりくだる重鎮たち。財力は充分にある。望めば何でも手に入る。気に入らなければ切り捨ててしまえばいいのだ。代わりなど吐いて捨てるほどあるのだから。それが物であろうと、人であろうとも。
誰しも不愉快な思いをして暮らしたくはない。
アガリエとてそうだ。幼少期を過ごした牢のような部屋では二度と寝起きしたくはない。
そうだ。誰しも、そうなのだ。
己にとって都合が良いことばかりで周りを固め、できれば不都合な事実には目を背け、何事も起こらず、平穏であればよいと願う。
「畏れながら、人の手で叶えられるものを神に希うなど、愚か者のすることでございますよ。さて、方々に問いましょう。わたくしが耳にした情報によれば、西ではまだ多くの武人が生き延びているようです。加えてこの王都まで攻め入ろうというのですから、相応の兵糧を蓄えているに違いありません。この局面において誰を頭上に戴くべきか、今一度お考えいただきたいと存じます」
静観していた周囲の空気が変わる。
セイシュからの報告が確かであれば、ここにいるのは王母の血族がほとんどのようだ。
先頃、王位継承に際して起きた戦は、同時に第二王子の弔い合戦でもあったため、第二王子の後ろ盾であった家と手を組んだものの、王母が己の身内ばかりを徴用して政を行ったため、やがてそれを不服とした者たちと騒動となったのは記憶に新しい。今では完全に決裂している。
第二王子の同母妹であり、正統な月神女であるアガリエが軟禁に近い扱いを受けているにも関わらず、誰も表立って異を唱えないでいるのもまた、味方となるべき家の者が不足しているためだった。
それだけではない。王母は先王の妃や生家に厳しい責務を課し、玉座から遠ざけている。
特に元々敵対していた第四、第五王子の母妃への仕打ちは徹底していた。彼女は先王の死後、不義密通の咎で廃され、その王子たちの王位継承権も剝奪されている。
当然、彼女の生家は反論したが、王母の圧倒的な権力を前に屈し、取り潰されてしまった。
その隙間を埋めるようにして権力を得たのが、ここに座する面々だ。
王母の生家にまつわる者もいれば、どこの家の者とも知れない男がいつの間にか当然のように加わっている。後者に至っては王母の寵を得、取り立ててもらったのだという噂がある。遠目にも見目麗しいのがわかる。実際噂通りなのだろう。
彼らは下座のアガリエを見やり、そして玉座を振り返った。
広がる動揺と混乱。彼らとて王母の逆鱗に触れればただではすまない。
だからこそ今までご機嫌取りに徹し、己の利益ばかりを追い求めていたのだ。民がどうなろうとも、そうしていれば彼らは安泰だ。己の保身を守ることを愚かだとはアガリエも思わない。
だからこそ彼らに問いかける。
問う、その価値がある。
事は瞬きのその間にはじまり、終わった。
権力がなければ、彼女は驚くほどに非力だ。
圧倒的な力を前に成す術もなく王母は崩れ落ちる。床に広がる血だまりからして、すでに息がないであろうことは明白だった。
縁とは不思議なものだ。閨に呼び寄せた時、よもやその男の手で最期を迎えることになろうとは、王母も思ってはいなかっただろう。
男が手にしていたのは、装飾として王の傍らに置かれていた豪勢な刀だった。彼は王の御前で帯刀することは許されていない。かわりに装飾品を手に取ったのだろうが、抜き身の刀身にも複雑な装飾が施され、色鮮やかな玉が埋め込まれているような代物だ。王母の死因はおそらく刺殺ではなく撲殺になる。
にわかに周囲が騒々しくなる。
「痴れ者が! カーヤカーナ様にあれほど目をかけていただいておきながら、そのご恩に報いるどころか刃を突き立てるとは何事か!」
「いやだな、随分と寝惚けたことを仰せですね。カーヤカーナ様ならばそちらにおわすではございませんか」
男は刀についた血を薙ぎ払うと、アガリエの前に膝をつき、恭しく頭を垂れた。
「月神女を騙る不届き者は、このユクサが成敗いたしました。どうぞご安心めされよ」
「大儀であった。今後、わたくしの警護はそなたに一任しよう」
「しかと心得ました」
不要なものは切って捨てる、変わり身の早い男だ。
とはいえ目的が明確であり、それが権力や地位であるならば、アガリエとしては扱いやすいが。
まっすぐに前を見据える。
動かなくなった母の体を見つめていた王は、ぎこちない動作で視線をアガリエへ向けた。
「王よ。このような事態となり、まこと無念でございましょうが、ご理解いただけるものと存じます」
「……うむ。約束であったからな」
「ではお許しいただけますね」
「うむ。すべての権限を月神女カーヤカーナに一任する。皆、これより先はカーヤカーナに従うように。よいな」
御意、と頷くより他の選択肢は用意されていない。
こうしてアガリエは再び国の頂に昇りつめた。
王母は傍らに置かれていた卓を力任せに倒す。残りの酒器が割れ、破片が床の上に飛び散った。
「あの者は神ではないと申したのは、そなたじゃ!」
「ええ。神ではなく、神がわたくしの願いを叶えるために遣わしてくださった尊い御方でございます」
「願いだと? そなたの願いはすでに叶ったではないか。あの日、そなたが受けた神託のとおり、我が君がこうして玉座におわすのだから」
重要なのはゼンが神の使者であるということで、願いの中身ではないのだが、王母は気づかない。
この女性は己の興味が最優先なのだ。
だから目先のことに囚われて、辿るべき道筋を誤る。
なんと幸せな人なのか。
不遇の時代を健気に耐えしのび、王位継承権第三位と少しばかり玉座から遠くにいた息子が、あれよあれよという間に王になった。
それは偶然の産物ではない。
王母とアガリエがこの十年余り尽力した賜物でもある。喜びは一塩であったに違いない。
誰が彼女を責められるだろう。
国の最高位に近い身分。己の一挙一側に敏感に反応し、へりくだる重鎮たち。財力は充分にある。望めば何でも手に入る。気に入らなければ切り捨ててしまえばいいのだ。代わりなど吐いて捨てるほどあるのだから。それが物であろうと、人であろうとも。
誰しも不愉快な思いをして暮らしたくはない。
アガリエとてそうだ。幼少期を過ごした牢のような部屋では二度と寝起きしたくはない。
そうだ。誰しも、そうなのだ。
己にとって都合が良いことばかりで周りを固め、できれば不都合な事実には目を背け、何事も起こらず、平穏であればよいと願う。
「畏れながら、人の手で叶えられるものを神に希うなど、愚か者のすることでございますよ。さて、方々に問いましょう。わたくしが耳にした情報によれば、西ではまだ多くの武人が生き延びているようです。加えてこの王都まで攻め入ろうというのですから、相応の兵糧を蓄えているに違いありません。この局面において誰を頭上に戴くべきか、今一度お考えいただきたいと存じます」
静観していた周囲の空気が変わる。
セイシュからの報告が確かであれば、ここにいるのは王母の血族がほとんどのようだ。
先頃、王位継承に際して起きた戦は、同時に第二王子の弔い合戦でもあったため、第二王子の後ろ盾であった家と手を組んだものの、王母が己の身内ばかりを徴用して政を行ったため、やがてそれを不服とした者たちと騒動となったのは記憶に新しい。今では完全に決裂している。
第二王子の同母妹であり、正統な月神女であるアガリエが軟禁に近い扱いを受けているにも関わらず、誰も表立って異を唱えないでいるのもまた、味方となるべき家の者が不足しているためだった。
それだけではない。王母は先王の妃や生家に厳しい責務を課し、玉座から遠ざけている。
特に元々敵対していた第四、第五王子の母妃への仕打ちは徹底していた。彼女は先王の死後、不義密通の咎で廃され、その王子たちの王位継承権も剝奪されている。
当然、彼女の生家は反論したが、王母の圧倒的な権力を前に屈し、取り潰されてしまった。
その隙間を埋めるようにして権力を得たのが、ここに座する面々だ。
王母の生家にまつわる者もいれば、どこの家の者とも知れない男がいつの間にか当然のように加わっている。後者に至っては王母の寵を得、取り立ててもらったのだという噂がある。遠目にも見目麗しいのがわかる。実際噂通りなのだろう。
彼らは下座のアガリエを見やり、そして玉座を振り返った。
広がる動揺と混乱。彼らとて王母の逆鱗に触れればただではすまない。
だからこそ今までご機嫌取りに徹し、己の利益ばかりを追い求めていたのだ。民がどうなろうとも、そうしていれば彼らは安泰だ。己の保身を守ることを愚かだとはアガリエも思わない。
だからこそ彼らに問いかける。
問う、その価値がある。
事は瞬きのその間にはじまり、終わった。
権力がなければ、彼女は驚くほどに非力だ。
圧倒的な力を前に成す術もなく王母は崩れ落ちる。床に広がる血だまりからして、すでに息がないであろうことは明白だった。
縁とは不思議なものだ。閨に呼び寄せた時、よもやその男の手で最期を迎えることになろうとは、王母も思ってはいなかっただろう。
男が手にしていたのは、装飾として王の傍らに置かれていた豪勢な刀だった。彼は王の御前で帯刀することは許されていない。かわりに装飾品を手に取ったのだろうが、抜き身の刀身にも複雑な装飾が施され、色鮮やかな玉が埋め込まれているような代物だ。王母の死因はおそらく刺殺ではなく撲殺になる。
にわかに周囲が騒々しくなる。
「痴れ者が! カーヤカーナ様にあれほど目をかけていただいておきながら、そのご恩に報いるどころか刃を突き立てるとは何事か!」
「いやだな、随分と寝惚けたことを仰せですね。カーヤカーナ様ならばそちらにおわすではございませんか」
男は刀についた血を薙ぎ払うと、アガリエの前に膝をつき、恭しく頭を垂れた。
「月神女を騙る不届き者は、このユクサが成敗いたしました。どうぞご安心めされよ」
「大儀であった。今後、わたくしの警護はそなたに一任しよう」
「しかと心得ました」
不要なものは切って捨てる、変わり身の早い男だ。
とはいえ目的が明確であり、それが権力や地位であるならば、アガリエとしては扱いやすいが。
まっすぐに前を見据える。
動かなくなった母の体を見つめていた王は、ぎこちない動作で視線をアガリエへ向けた。
「王よ。このような事態となり、まこと無念でございましょうが、ご理解いただけるものと存じます」
「……うむ。約束であったからな」
「ではお許しいただけますね」
「うむ。すべての権限を月神女カーヤカーナに一任する。皆、これより先はカーヤカーナに従うように。よいな」
御意、と頷くより他の選択肢は用意されていない。
こうしてアガリエは再び国の頂に昇りつめた。
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