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第二八話
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熱い。痛い。熱い。
灼熱の日差しを直に浴びた大地は歩くもの大変だ。
草履はすでにぼろぼろで、かろうじて足にひっかけているだけの状態になって久しい。おかげで足裏は熱に焼かれ、小石を踏んでできた傷が日毎に増えている。
ゼンは空を仰いだ。
雲一つない。無論、雨が降る気配など皆無だ。
視線を落とせば見渡す限り広がる荒涼とした平地。足元の草が黒く焦げているのは、熱を持った大地が自然発火した名残だろう。時折見える不自然な凹凸は大抵が草木の燃え痕か、干からびた動物の躯だった。
熱い。
王都を離れて幾日か。
森など身を隠す場所があるうちは太陽が昇る日中に体を休め、宵闇に紛れて西を目指していたのだが、やがて森がなくなり、町や村が姿を消し、休息をとることさえできなくなってしまった。
――否。正確には心休まる場所がなくなったのだ。
ようやく見つけた岩陰にも、水が枯れた川や古井戸、木の根元にも、すでに事切れた躯があった。
誰もが涼を、水を求め息絶えていったのであろう。
火を放たれ焼け焦げた村もいくつも見た。
疫病が蔓延しているのだ。
その侵攻を防ごうと火を放つ。
その行いが正しいのかどうかはわからないが、功を奏しているとは言えそうにない。ひとつ焼けた村を見つければ、その先にある村も、その先も焼かれていた。
潤いを見失ったこの地で、疫病は広がり続けているのだ。
王都に、城にいては見えなかったものが、ここにはある。
口惜しい。己の迂闊さが、無力さが。
わかっているつもりだった。
そのために努力もした。
けれど結局は己の手が届く範囲でしか見聞きしてこなかったのだ。それが誰かに守られ、囲われた小さな箱庭だと気づきもせずに、知ったつもりになっていただけだった。
本当に外の世界を知りたいのであれば、もっと早くに城を出て、民の声に耳を傾けるべきであったのに。
どれほど悔いても涙は出ない。この身にある水分という水分はとうの昔に蒸発してしまった。いかなマナ使いであろうと手負いの上、この生命力の乏しい地では非力だ。
覚束ない足が干上がった川を過ぎる。
川底であっただろう窪地に女と思しき亡骸が横たわっていた。
腕に何かを抱えている。
赤子だ。
知らず足はそちらへ向かっていた。
水を求めて来たのか、それとも赤子の亡骸を少しでも海を感じられる場所に葬りたかったのか。今となってはもう知る由もない。
ゼンの手が赤子の頭を撫でると、骨は脆く崩れ落ちた。
「ごめんな。今の俺では海まで連れて行ってやることはできないんだ。そのかわり必ず雨を降らせてみせるから」
それまで待っていてほしい。
西へ向かうこの旅の中、幾度そう告げたことだろう。
無力だ。
何がマナ使いだ。
知らず知らずのうちに驕っていた己が疎ましい。
マナを使える。ただそれだけで誰かの――アガリエの願いを何だって叶えてやることができると信じていた。
雨を降らせることも、この哀れな幼子に一滴の水を与えることもできないというのに。
それでも一歩一歩、ただ前に進む。
待っている人がいる。
それだけが折れそうになる心を支えてくれている。
太陽が沈み、月が昇り、それを幾度か繰り返した後、ゼンの行く手に生きた木が姿を現し、やがて遠くに城が見えた。
西の神女イリを主とする城だ。
*
やかましい。
沈んだ意識がゆるゆると覚醒するとともに、初めに思ったのは騒々しさに対する苛立ちだった。
「ひどいわ。だってあれはタキ様が先に仰ったのよ、そうしようって。わたくしが止める暇もないままに」
「城門が閉ざされていたのですから、城壁を飛び越えるより他に選択肢はなかったではないですか。おかげで」
「あったわよ!」
「おかげで、病に感染することもなく、無事に城の中に入ることができましたよね。あのまま城の外にいては、いつまでたってもシシたちと合流することもできず、きみはただ泣いていることしかできなかったはずですよ。それなのに何がそんなに不満なのか」
「待ってとお願いしたのに、無視されたことに決まっているではないの!」
「では待ちましょうか」
「今のお話ではありません! 今この場で一体何を待つというのよ!」
「きみが落ち着くのを」
「わたくしは落ち着いています!」
「額に青筋を立ててどの口が言うのか。気が知れませんね」
「立てていません! もう、シシ! この方をどうにかしてちょうだい。減らず口ばかりたたいて、いっこうにゼン様をお助けしようとしないのよ。ゼン様は我が国にとってとても大切な御方なのに!」
「何故に僕と彼とでそのように扱いに差が出るのか、甚だ不思議でなりません」
頬に触れる生温かいもの。その感触に意識を揺り動かされる。
夢現のままに視線を彷徨わせれば、頬にすり寄るマヤーの姿が見えた。猫のように舌を出し、ゼンの頬をなめている。
マヤー、と呼ぼうとするが、咽喉に痛みを覚えて声が出なかった。
かわりに撫でてやろうとするも、関節を動かすだけで痛みが走り、腕を持ち上げるのも難儀だった。
気づけば腕はおろか体中が重たい。
まるで体を動かすという些細な動作を忘れてしまったかのようで、ゼンは戸惑った。何が起きたのか。
唯一満足に動かすことができる視線をめぐらせる。
見上げれば木組みの天井。どうやら板間に敷かれた布団に寝かされているらしい。開け放たれた木戸の向こうには石畳の庭があり、庭に面した縁側には人影があった。言い争う声の主だ。
見知った横顔に安堵する。
それと同時に知らない顔があることにも気づいた。
日に焼けた精悍な顔や腕にはいくつもの傷跡がある。肩幅のある体躯。腰に帯刀していることからしても武人であることは間違いないが、城にいた隊士とはまた違う雰囲気を醸しており、ただ彼がそこにいるというだけで固唾を飲むような威圧感があった。要するに、なかなか強面のおっかなそうな御仁だ。
シシと呼ばれた壮年の彼は、細い目元をさらに細くすると、縁側で言い合うふたりを睥睨した。
「ふたりともお静かに」
「ですが」
「だって」
「お目覚めになられたようですよ」
タキとイリが同時にこちらを向いた。
目が合ったので、とりあえず笑おうとして、失敗した。
「ちょっと、どうなさったの、ゼン様が泣くだなんて!」
そんな大声で状況説明しないでほしい。
そう言いたいのに、ろくに言葉が出てこなかった。
胸の奥も目の奥も熱い。目尻から溢れる涙をマヤーが舐めとってくれる。それが嬉しくて、また泣けてきた。情けない。
悲しいわけではない。
ただ、帰って来たんだなと思った。
独りではないということが、こんなにも心を震わせるなんて知らなかった。
「きみは町はずれで倒れていたんですよ。覚えていますか?」
憎らしいほどタキは冷静だ。無遠慮に泣き顔を覗き込んでくる彼を睨みながら、ゼンはここに辿り着いた経緯を思い起こした。
城が見えたと思ったことはかすかに覚えているが、その後の記憶がない。どうやら緊張の糸が切れて昏倒してしまったようだ。
「僕がきみの気配に気づかなければ、きみはマナが枯渇して、間違いなく干からびて野垂れ死にしていましたよ。僕と、そこのシシに感謝してください。城の外に蔓延る疫病を恐れず、きみを迎えに行ってくれたのは彼ですから」
「……あ、っ」
こほ、と乾いた咳をすると、わずかだが咽喉が動いた。改めてシシに向き直る。
「ありがとう」
「勿体ないお言葉です」
縁側に座した彼は敬礼した。武人らしく無駄のない動きだった。
そんな彼の態度を前にすると、泣いている己が急激に恥ずかしくなってきた。苦労して腕を動かし、手の甲で頬に残る涙をぬぐう。
次いで寝床から起き上がろうとしたが、これはイリに止められた。
「いけませんわ。まだ安静にしていなくては。こんなにやつれて、随分と無茶な旅をなさったのでしょう。王都からここまでおひとりでいらしたの?」
「ああ、うん。王家の墓所から地下にある鍾乳洞に入って、どこをどう通って地上に出たのかはわかんないんだけど、そこから西を目指してずっと歩いて来た。……途中で、焼かれた村をたくさん見て来たよ。疫病が、ここにも?」
イリは黙したまま首肯する。
陰りを帯びているその表情に、彼女もまたつらい経験をしたのだろうと察せられる。
しかし彼女の対面に座すタキは平然としていた。
「西のこの一帯は特にひどい有様ですよ。どこかの誰かが早々に国庫を解放してしまったせいで病人に配る食糧も薬もなく、それどころか最も切迫した状況下に主が不在ときた。ああ、主とはここにいるイリ様と、政を任されていた方がもうお一方いらしたようですが、城下に疫病が流行りだした時にはすでに姿がなかったとか。嘆かわしいことです」
「こんな時ばかり、しっかり覚えているのだから」
「記憶に不備がなかったようで何よりです」
気が合うのか合わないのか、ゼンを間に挟んだままタキとイリは再び言い争いを始める。
ゼンはすでに慣れ親しんでいるのでどうとも思わないが、タキの無遠慮な物言いがイリはどうしても気に喰わないらしい。
そんなふたりを仲裁したのは、やはりシシだった。
「お二方とも戯れはほどほどになさってください。ゼン様がお目覚めになられたのですから、この先どうするのか早々にご決断いただかなくてはならないのですよ。遊んでいる暇はありません」
イリが反論しようとして、開きかけた口をおもむろに閉じた。
何を決断するのかは知らないが、彼女の表情からして気乗りのする話ではなさそうだ。
話をしやすいようにと、イリが未だ廊下に控えるシシを傍に呼び寄せた。
「イリ様が援助を求めるため王都へ向かわれた後、城の周辺では疫病が流行し、民の暴動が起きました。暴動自体はすぐさま鎮圧することができましたが、その間に城下に疫病が蔓延したため、一度閉ざした門を開けることも叶わず、以来ずっと籠城する羽目になってしまっているのです」
ゼンは褥に横たわりながら、薄れた記憶を呼び起こす。
そうだ。アガリエが確かに言っていた。西からの情報が少ないと。あれは疫病や籠城が原因だったのか。
しかし、と告げるシシの声は重い。
「残る備蓄もわずか。行動を起こすならもう猶予は幾ばくも残されておりません」
「行動って……」
「悪政を敷く月神女カーヤカーナから、王をお救いするのです」
灼熱の日差しを直に浴びた大地は歩くもの大変だ。
草履はすでにぼろぼろで、かろうじて足にひっかけているだけの状態になって久しい。おかげで足裏は熱に焼かれ、小石を踏んでできた傷が日毎に増えている。
ゼンは空を仰いだ。
雲一つない。無論、雨が降る気配など皆無だ。
視線を落とせば見渡す限り広がる荒涼とした平地。足元の草が黒く焦げているのは、熱を持った大地が自然発火した名残だろう。時折見える不自然な凹凸は大抵が草木の燃え痕か、干からびた動物の躯だった。
熱い。
王都を離れて幾日か。
森など身を隠す場所があるうちは太陽が昇る日中に体を休め、宵闇に紛れて西を目指していたのだが、やがて森がなくなり、町や村が姿を消し、休息をとることさえできなくなってしまった。
――否。正確には心休まる場所がなくなったのだ。
ようやく見つけた岩陰にも、水が枯れた川や古井戸、木の根元にも、すでに事切れた躯があった。
誰もが涼を、水を求め息絶えていったのであろう。
火を放たれ焼け焦げた村もいくつも見た。
疫病が蔓延しているのだ。
その侵攻を防ごうと火を放つ。
その行いが正しいのかどうかはわからないが、功を奏しているとは言えそうにない。ひとつ焼けた村を見つければ、その先にある村も、その先も焼かれていた。
潤いを見失ったこの地で、疫病は広がり続けているのだ。
王都に、城にいては見えなかったものが、ここにはある。
口惜しい。己の迂闊さが、無力さが。
わかっているつもりだった。
そのために努力もした。
けれど結局は己の手が届く範囲でしか見聞きしてこなかったのだ。それが誰かに守られ、囲われた小さな箱庭だと気づきもせずに、知ったつもりになっていただけだった。
本当に外の世界を知りたいのであれば、もっと早くに城を出て、民の声に耳を傾けるべきであったのに。
どれほど悔いても涙は出ない。この身にある水分という水分はとうの昔に蒸発してしまった。いかなマナ使いであろうと手負いの上、この生命力の乏しい地では非力だ。
覚束ない足が干上がった川を過ぎる。
川底であっただろう窪地に女と思しき亡骸が横たわっていた。
腕に何かを抱えている。
赤子だ。
知らず足はそちらへ向かっていた。
水を求めて来たのか、それとも赤子の亡骸を少しでも海を感じられる場所に葬りたかったのか。今となってはもう知る由もない。
ゼンの手が赤子の頭を撫でると、骨は脆く崩れ落ちた。
「ごめんな。今の俺では海まで連れて行ってやることはできないんだ。そのかわり必ず雨を降らせてみせるから」
それまで待っていてほしい。
西へ向かうこの旅の中、幾度そう告げたことだろう。
無力だ。
何がマナ使いだ。
知らず知らずのうちに驕っていた己が疎ましい。
マナを使える。ただそれだけで誰かの――アガリエの願いを何だって叶えてやることができると信じていた。
雨を降らせることも、この哀れな幼子に一滴の水を与えることもできないというのに。
それでも一歩一歩、ただ前に進む。
待っている人がいる。
それだけが折れそうになる心を支えてくれている。
太陽が沈み、月が昇り、それを幾度か繰り返した後、ゼンの行く手に生きた木が姿を現し、やがて遠くに城が見えた。
西の神女イリを主とする城だ。
*
やかましい。
沈んだ意識がゆるゆると覚醒するとともに、初めに思ったのは騒々しさに対する苛立ちだった。
「ひどいわ。だってあれはタキ様が先に仰ったのよ、そうしようって。わたくしが止める暇もないままに」
「城門が閉ざされていたのですから、城壁を飛び越えるより他に選択肢はなかったではないですか。おかげで」
「あったわよ!」
「おかげで、病に感染することもなく、無事に城の中に入ることができましたよね。あのまま城の外にいては、いつまでたってもシシたちと合流することもできず、きみはただ泣いていることしかできなかったはずですよ。それなのに何がそんなに不満なのか」
「待ってとお願いしたのに、無視されたことに決まっているではないの!」
「では待ちましょうか」
「今のお話ではありません! 今この場で一体何を待つというのよ!」
「きみが落ち着くのを」
「わたくしは落ち着いています!」
「額に青筋を立ててどの口が言うのか。気が知れませんね」
「立てていません! もう、シシ! この方をどうにかしてちょうだい。減らず口ばかりたたいて、いっこうにゼン様をお助けしようとしないのよ。ゼン様は我が国にとってとても大切な御方なのに!」
「何故に僕と彼とでそのように扱いに差が出るのか、甚だ不思議でなりません」
頬に触れる生温かいもの。その感触に意識を揺り動かされる。
夢現のままに視線を彷徨わせれば、頬にすり寄るマヤーの姿が見えた。猫のように舌を出し、ゼンの頬をなめている。
マヤー、と呼ぼうとするが、咽喉に痛みを覚えて声が出なかった。
かわりに撫でてやろうとするも、関節を動かすだけで痛みが走り、腕を持ち上げるのも難儀だった。
気づけば腕はおろか体中が重たい。
まるで体を動かすという些細な動作を忘れてしまったかのようで、ゼンは戸惑った。何が起きたのか。
唯一満足に動かすことができる視線をめぐらせる。
見上げれば木組みの天井。どうやら板間に敷かれた布団に寝かされているらしい。開け放たれた木戸の向こうには石畳の庭があり、庭に面した縁側には人影があった。言い争う声の主だ。
見知った横顔に安堵する。
それと同時に知らない顔があることにも気づいた。
日に焼けた精悍な顔や腕にはいくつもの傷跡がある。肩幅のある体躯。腰に帯刀していることからしても武人であることは間違いないが、城にいた隊士とはまた違う雰囲気を醸しており、ただ彼がそこにいるというだけで固唾を飲むような威圧感があった。要するに、なかなか強面のおっかなそうな御仁だ。
シシと呼ばれた壮年の彼は、細い目元をさらに細くすると、縁側で言い合うふたりを睥睨した。
「ふたりともお静かに」
「ですが」
「だって」
「お目覚めになられたようですよ」
タキとイリが同時にこちらを向いた。
目が合ったので、とりあえず笑おうとして、失敗した。
「ちょっと、どうなさったの、ゼン様が泣くだなんて!」
そんな大声で状況説明しないでほしい。
そう言いたいのに、ろくに言葉が出てこなかった。
胸の奥も目の奥も熱い。目尻から溢れる涙をマヤーが舐めとってくれる。それが嬉しくて、また泣けてきた。情けない。
悲しいわけではない。
ただ、帰って来たんだなと思った。
独りではないということが、こんなにも心を震わせるなんて知らなかった。
「きみは町はずれで倒れていたんですよ。覚えていますか?」
憎らしいほどタキは冷静だ。無遠慮に泣き顔を覗き込んでくる彼を睨みながら、ゼンはここに辿り着いた経緯を思い起こした。
城が見えたと思ったことはかすかに覚えているが、その後の記憶がない。どうやら緊張の糸が切れて昏倒してしまったようだ。
「僕がきみの気配に気づかなければ、きみはマナが枯渇して、間違いなく干からびて野垂れ死にしていましたよ。僕と、そこのシシに感謝してください。城の外に蔓延る疫病を恐れず、きみを迎えに行ってくれたのは彼ですから」
「……あ、っ」
こほ、と乾いた咳をすると、わずかだが咽喉が動いた。改めてシシに向き直る。
「ありがとう」
「勿体ないお言葉です」
縁側に座した彼は敬礼した。武人らしく無駄のない動きだった。
そんな彼の態度を前にすると、泣いている己が急激に恥ずかしくなってきた。苦労して腕を動かし、手の甲で頬に残る涙をぬぐう。
次いで寝床から起き上がろうとしたが、これはイリに止められた。
「いけませんわ。まだ安静にしていなくては。こんなにやつれて、随分と無茶な旅をなさったのでしょう。王都からここまでおひとりでいらしたの?」
「ああ、うん。王家の墓所から地下にある鍾乳洞に入って、どこをどう通って地上に出たのかはわかんないんだけど、そこから西を目指してずっと歩いて来た。……途中で、焼かれた村をたくさん見て来たよ。疫病が、ここにも?」
イリは黙したまま首肯する。
陰りを帯びているその表情に、彼女もまたつらい経験をしたのだろうと察せられる。
しかし彼女の対面に座すタキは平然としていた。
「西のこの一帯は特にひどい有様ですよ。どこかの誰かが早々に国庫を解放してしまったせいで病人に配る食糧も薬もなく、それどころか最も切迫した状況下に主が不在ときた。ああ、主とはここにいるイリ様と、政を任されていた方がもうお一方いらしたようですが、城下に疫病が流行りだした時にはすでに姿がなかったとか。嘆かわしいことです」
「こんな時ばかり、しっかり覚えているのだから」
「記憶に不備がなかったようで何よりです」
気が合うのか合わないのか、ゼンを間に挟んだままタキとイリは再び言い争いを始める。
ゼンはすでに慣れ親しんでいるのでどうとも思わないが、タキの無遠慮な物言いがイリはどうしても気に喰わないらしい。
そんなふたりを仲裁したのは、やはりシシだった。
「お二方とも戯れはほどほどになさってください。ゼン様がお目覚めになられたのですから、この先どうするのか早々にご決断いただかなくてはならないのですよ。遊んでいる暇はありません」
イリが反論しようとして、開きかけた口をおもむろに閉じた。
何を決断するのかは知らないが、彼女の表情からして気乗りのする話ではなさそうだ。
話をしやすいようにと、イリが未だ廊下に控えるシシを傍に呼び寄せた。
「イリ様が援助を求めるため王都へ向かわれた後、城の周辺では疫病が流行し、民の暴動が起きました。暴動自体はすぐさま鎮圧することができましたが、その間に城下に疫病が蔓延したため、一度閉ざした門を開けることも叶わず、以来ずっと籠城する羽目になってしまっているのです」
ゼンは褥に横たわりながら、薄れた記憶を呼び起こす。
そうだ。アガリエが確かに言っていた。西からの情報が少ないと。あれは疫病や籠城が原因だったのか。
しかし、と告げるシシの声は重い。
「残る備蓄もわずか。行動を起こすならもう猶予は幾ばくも残されておりません」
「行動って……」
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