魔の女王

香穂

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幕間 クムイ

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 私は物心がつくより以前から体が弱かった。微熱は当たり前。吐き気に頭痛、腹痛。寝台から起き上がれない日もままあった。

 私の世界は随分と長い間、寝所と廊下と厠と庭でできていて、そのすべてに苦々しい薬草の匂いが立ち込めていた。

 父母は健在だったけれど、ろくに顔を合わせない生活だった。

 商人の父は子を産めそうにもない病弱な娘には興味が薄く、そんな父に遠慮しているのかどうか、母もまた私に無関心で、乳母に任せきりだった。ほかに兄弟が幾人かいたようなのだが、病がうつると危険だからという理由で会ったことはなかった。

 でもそれが私にとっての普通だった。だから寂しいと感じることは少なく――そもそも体調を崩している時間の方が長かったので、寂しさを覚える暇もなく、乳母と時折回診に来る侍医、そして私だけの日々を過ごしていた。

 私が寂しさという感情を理解したのは、くだんの侍医が弟子の少年を連れて来るようになってからだ。

 不思議と彼が来る日は気分が良く、私たちは縁側に座って他愛のない話をした。私は彼の話すすべてが珍しく、羨ましかった。薬草が生えている深い森も、澄んだ水を湛える井戸も、侍医の妻に仕立ててもらった着物をすぐに破ってしまい叱られたことも、何もかもすべてが。

 だってそのすべてが、私には望んでも決して与えられないものだと知っていたから。

 だから彼が来ない日は気持ちが沈んだ。

 お寂しいのですね、と乳母が言ったので、私はその感情が寂しいという名であることを知った。

 知ると余計に寂しさが募る。まるで己に呪いをかけるように、私は彼が来ないと意気消沈し、次はいつ来るのかと乳母や侍医にせがんで困らせ、彼に会える日を指折り数えるようになった。

 会いたい。

 でも今日は来ない。いつ来るかもわからない。

 会いたい。

 会いたい。

 そんなある日、少年には父母がいないことを知った。彼の父母は信頼を置いていた相手に裏切られ、命を落としたそうだ。

 おそらくは口封じのために家人までも皆殺しにされ、屋敷には火が放たれた。少年自身もひどい火傷を負い、行く当てもなく彷徨い歩いていたところを侍医に救われ、そのまま弟子となった。彼は淡々とした口調でそう語った。

 ほら、と見せてくれた胸元や腕には、いびつに歪んだ赤黒い皮膚があり、私は恐ろしくなって泣いた。――その所為で彼は侍医や乳母に叱られる羽目になってしまったので、大変申し訳ないことをしてしまったと、後から反省した。

 悪夢を見るのだと、彼は言った。

 父母や家人を殺され、己も火に炙られる夢。その夢を見た後は必ずと言っていいほど熱を出す。

 恐ろしい夢だ。肉体的苦痛もさることながら、火に焼かれた魂はこの世を永久に迷い、苦しみ続けることになる。彼はかろうじて免れたが、その恐怖にさらされたのだ。心労は計り知れない。

 私は、私以外の病人というものに出会ったことがなかった。

 目から鱗が落ちる心持ちだった。熱のつらさは身に染みている。会いに来ることができなくて当然だ。私だって未だに床から起き上がれない時があるのだから。

 私は寂しいと口に出すことができなくなった。

 会いたい、とも。

 少年に会えない日は、きっと彼も今つらい思いをしているのだろうと案じ、時間を持て余せば庭に出て鍛錬に励んだ。体を動かしている間は余計なことを考えずに済む。疲労困憊になった体は眠りも深く、悪夢を遠ざけてくれる。

 それに何より彼と約束をしたのだ。

 強くなろう、と。

 それが功を奏したのか、私は床に就く日が年々減っていった。時折寝込むことはあるものの、それでも幼少期に比べれば随分と元気になった。

 乳母はある日、ひとりの老女を連れてきた。

 私の師となった老女は武術にも剣術にも優れ、私よりよほど快活な人で、私は何度も何度も彼女に足蹴にされ、叩きのめされ、病とは違う痛みに呻き、床に伏せる日もあった。

 私の名誉のために言っておくけれど、何もそれは私が虚弱だったからではない。時には同じように指導を受けていた少年もそうだったのだから、どちらかといえば師匠が幼子相手にも容赦なく、常に手厳しかったのだ。

 時を経るにつれ、私は強くなった。

 体も、心も、――武人としても。

 屋敷から抜け出て、市井を見て回ることもあった。それでも疲れない体が嬉しかった。乳母は良い顔をしなかったけど、父母に報告する素振りも見せなかったので、私はたびたび外出をして、少年と外で日が暮れるまで遊んだ。

 少年は長じて、すでに青年と呼ばれる年頃になっていた。幼い頃はわからなかったけれど、彼は私よりも年嵩だったのだ。背が高いだけかと思っていた。手が大きいのは、男女の体格差なのかと。

 どうやら私は世間知らずというものらしい。

 彼はよく、そう言って、私をからかった。

 別れの日も、そうだった。

 泣きじゃくる私をなだめ、年頃の子女はそんな風にあられもなく泣くもんじゃない、と困ったように笑っていた。

 私は守人クムイにならなければならないらしい。

 そんなものになりたくない。離れたくない。ずっと一緒にいたい。

 でも行かないと、彼が罰せられると言う。行くしかない。

 それに王城へ上がり、役目を得ることができれば、給金というものがもらえるようになるそうだ。私たちには給金が必要で、そのために私は彼と離れて守人になる必要があった。

 王城での生活は困難を極めた。

 はじめての共同生活。ひとつの部屋に多い時は十人ほどが寝起きを共にしていた。朝早くから鍛錬を重ね、屋敷の掃除やまかない作り、繕い物などの雑務と、するべきことは山のようにあって、慣れるまではとても大変だった。一通りのことは師匠から学んでいたけれど、私は大勢の人間に囲まれるという経験がほとんどなかったので、他人に調子を合わせるという意味がわからなくて、幾度も失敗したものだ。

 同僚と言っても顔も違えば性格も違う。はげましてくれる娘もいれば、足を引っ張るなと叱責されたこともある。多様な考え方があるのだと、最初の頃はいちいち驚いていた。

 半年、一年と時が過ぎるうちに、任務に就くことが増えた。

 王家の子女に仕え、彼女たちを危険から守ることが守人クムイの使命だ。神女でもある守人は、城内はもちろん斎場の奥まで護衛として傍にいることができるので重宝される。

 それまで私は本当の意味で、己の役目を理解していなかった。

 理解したのは、主人を襲った暴漢を切り殺して、その際、自らも手傷を負った時だ。

 守人の任務は常に死と隣り合わせなのだ、と。

 返り血を浴びた手が震えた。けれどその手は暴漢にとどめを刺すことを戸惑わなかった。主人に向って振りかざされた刃に反応し、気づけば相手の胸元に短刀を突き刺していた。

 その夜は久々に熱を出して、二日ほど寝込んだ。どれだけ体や髪を洗っても拭えない血生臭ささに吐き気がした。

 でも城を出ることはできない。

 これが私の果たすべき役目だから。

「そなた、その胸元にあるのは何じゃ? 文ではないのか?」

 王妃様は目敏い。

 胸元に入れていたのは、彼からの文だった。

 寄こせと言われれば逆らえない。そこに書き記された文字にさっと目を走らせると、王妃様は柳眉をひそめた。

「子が、病なのか?」

 是と頷くと、堪えていたものがこみ上げてきた。

 彼との間にもうけた娘だ。

 幼少期の私と同じく病弱で、私はその治療費を工面するために城仕えをすることになった。給金のほとんどは彼と娘の元に送っている。彼が医術師なのは幸いだった。娘の傍には彼がいる。私はここで働いて治療費を稼ぎ、娘が元気になるのを待てば良い。

 そう考えていたけれど、娘の病状は思わしくないらしい。だから彼は文を寄こした。難しいことはわからないけれど、金さえあればもっと効能の高い薬を娘に与えてやることができるので、どうにか工面できないかという相談だった。

 でもどうすれば良いかわからなくて、肌身離さず持ち歩いていたところを王妃に見つかってしまったのだ。

「容易いことだ。それ、このかんざしをやろう。これを金に換え、娘に必要な治療を受けさせてやれば良い」

 恐縮する私に、かまうなと王妃様は微笑んでくださった。

 お優しい、お優しい王妃様。

 おかげで娘は無事に危機を乗り切った。

 すると不思議なことに、父から文が届いた。

 父とは疎遠になって久しい。かんざしを質に金を借りるとしても当てがなく、悩んだ末に商人である父を頼った。私が屋敷を出て彼と暮らすようになってからは、一度として実家とは交流を持っていなかった。娘が産まれたことを彼が伝えに行った時も、門前払いだったと聞いていた。

 そのような状況だったから、かんざしを売りたいという申し出も正直断られるものだとばかり思っていたので、二つ返事をもらった時はひどく驚いたものだ。

 その父がどういう心境の変化か、娘の面倒はこちらで見るので、心配ないと書いて寄こした。

 よかった。これもすべて王妃様のご温情があってこそだ。

 それからの私は王妃様の傍にお仕えすることが日に日に増えていった。

 時には危険な任務もある。すると大抵、王妃様はそのねぎらいにと言っては、身に着けていた宝飾品を下げ渡してくれる。それを私は実家へ送り、彼と娘を養ってもらう。私は七歳の時に彼と出会い、少しずつ元気になっていった。娘が同じ年になるまであと数年。それまでの辛抱だ。

 そんなある日、私はとんでもない失態を犯した。

「まあまあ、我が君! そのように泣いて、一体どうなさったのじゃ。……渋い、とは?」

 食べかけの果実を指さし、幼い王子は泣き叫ぶ。

「そなた毒身をしたのではなかったか?」

 王妃様は縁側に座り、庭で起きた一部始終をご覧になられていた。だから木になる果実を欲しがった王子のために、私が木に登り、念のためにとその一部を小刀で切り取り、食べたこともご存知だった。

 同僚の守人が王子の手から果実を受け取り、一口食べて、すぐさま顔をしかめた。

 毒ではない。毒ではないが、曰く、異様なほど渋くて不味い。

 要は熟しきっていない果実を食べた王子が、その味に驚いて泣きだした、という顛末らしかった。

「なんとまあ、呆れたこと。そなたほど優秀な守人クムイが、旨い不味いの区別がつかぬとはのう」

 面目次第もない。たしかに私は生まれてこの方、食べ物を不味いと思ったことがない。薬でさえそうだ。嫌いな臭いというものはあれど、それを口にしたところで不味いと感じることはない。

 平伏する私に、王妃様は微笑んだ。

「さあ、顔をお上げ。此度のことは罰せぬ。これからも職務に励むように」

 お優しい王妃様。

 私は王妃様のためなら、どのようなことも厭いません。
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