魔の女王

香穂

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第十五話

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「殿方というものは、若くて身分の高い女なら誰でも良いものかと思っておりました」

 顎がもげるかと思った。





 それほどゼンは驚いて、開いた口を塞ぐのにずいぶん時間を要した。

「……あのさ、アガリエの男の基準って、全部ジンブンなのか?」

「まさか」

「じゃあ、アガリエがジンブンを選んだ理由はなに?」

「父王が選んだ婿候補の中で、一番わたくしの身分に興味があり、わたくし自身には興味がない御方だったからです。利害関係の一致した、とても理想的な伴侶だと思っています」

 イリ、きみの心配事は杞憂じゃなかったよ!

 この調子でいくと、ゼンのことも利害関係を考慮したうえで、利用できると判断しているのだろう。利用されている自覚があるだけに、なんとも言えない気持ちになる。

 着物を干し終え、ゼンはアガリエの隣に腰を下ろす。濡れたふたりを温めるべく背後にマヤーが座り込んだ。

 鳥のさえずりが耳に優しい。梢が風に揺れ、静けさを取り戻した湖面は二人の足が動くたび、緩やかに波紋を描く。

「なあ、もう一度聞くけどさ。もしも月神女になったとして、アガリエはオルと第二王子と、どっちを選ぶつもりなんだ?」

「わたくしは二の兄上が王になることを望んでいます。そのことはすでに兄上がたにもお伝えしています」

「えっ、いつの間に……」

「ゼン様が気づいていない間に。いろいろな方がわたくしを得ようと動いておられるのですよ。その中には二の兄上のように、ゼン様を味方にしたいと望む者もおります」

「俺?」

「正しくは神を、です」

「……もしかして俺がこの人を王にしたいって言ったら、そうなるのか?」

 アガリエは神妙な面持ちで首肯した。

「いやいや、まさか。……嘘だろ?」

「嘘だと思うのであれば、ためしに突拍子もないことを命じてみられてはいかがでしょう。そうですね、たとえば城にあるあらゆる屋根を青にしろ、とか。断言できます。翌朝にはすべての屋根が青くなっていることでしょう」

「待て待て。そんな無茶苦茶な。だって屋根の瓦が赤いのは魔除けだろ。それを塗り替えるなんて……」

「しますよ。神の勅命ですから」

「でもさ」

「では、城に戻ったら命じてみてください」

 そんな度胸はない。

 そもそも月神女からも言動には気を付けるようにと注意を受けたばかりで、反省していたからこそ、今これこのようにアガリエとふたりここにいるのだ。じゃあ一度ためしに、と何かを命じる心持ちにはなれない。

 長い長い溜息がこぼれる。己の掌に顔を埋め、ゼンは肩を落とした。

 まさか世継ぎ争いに巻き込まれるとは思いもしなかった。

「皆の注目を集めている理由がわかりましたか?」

「うん。よくわかった。俺とアガリエは、王位継承に関して、王よりも強い発言力を持ってるってことなんだな」

 だからその動向を皆が監視し、ふたりの発言に聞き耳を立てる。となれば接触してきた第二王子だけではなく、その他の者たち――当代の王ですらゼンとアガリエに対して思うところがあると考えるべきだろう。

 用心しなければ。そう気を引き締めてから、不意に気づいた。

 つつがなく済ませたいと言うわりに、アガリエの口から具体的にどの王子を玉座に据えて欲しいと、希われたことはない。

「さあ、気欝なお話はここまでにしましょう。せっかくですから、今度はゼン様のことを聞かせてください」

「俺のこと? 俺の何が聞きたいの?」

「何でも。実はわたくし、ゼン様のことをほとんど知りませんもの。ゼン様がどこから来て、どこへ帰っていくのかも」

 言われてみればそうだ。

 だがどこから話せばよいものか見当もつかない。アガリエたちにとってこの島がすべてであるように、ゼンにとっても生まれ育ったあの島だけが世界のすべてで、誰かにその尊さを伝えようとしたことなどなかった。

 目を閉じればすぐ傍に感じる気配。

 遠くて近い。目に見えて触れるようでいて、もどかしいほど遠く隔絶されているこちらの世界とあちらの世界。

 その島は海の彼方、きらめく波の果てにある。

「俺たちの故郷はアオヌスマって言うんだけど、海を渡ったマナが最後に流れ着く海岸がある島なんだ」

「マナが海を渡る……」

「そう。マナは海を渡る。ほら、この国では死者を海辺の洞窟に葬るだろ。小舟に乗せて海に流すところもあるみたいだけど。とにかく宿り主を失ったマナは、遅かれ早かれいずれは海を渡るんだ。アオヌスマのその海岸には守り人がいて、たくさんある中からこれだっていうマナを選ぶ。そのマナを糧に生まれるのが俺やタキみたいなマナ使い。人でも魔物でも、ましてや死者や神でもない。俺たちは物心ついた時からずっとマナ使いなんだ」

 水にひたした足先に力を込める。

 軽く水面を蹴ると、飛び散った滴が星のように輝いた。マナを利用した小さな悪戯だ。

 きらきらと輝きながら幾重にも広がる波紋を、アガリエの双眸は食い入るようにじっと見つめている。

「マナとは、真の名のことではなく、魂のことなのでしょうか」

「どうかなあ。でもほら、手を貸して。……この光も、またマナなんだ」

 差し出された右手に触れる。

 その指先からアガリエにマナを注ぐと、彼女の肌が淡く光った。

「今のはアガリエのマナ。海にも大地にも人にもマナは宿る。マナがたくさんあると元気だし、失うと命を落とすことだってある」

「……ということは、父王の病を治すことが、ゼン様にはやはりできるのでは?」

 上目遣いのその問いに、ゼンは惜しげもなく渋面を作ってみせた。まさかここでいつぞやの質問が再び持ちあがるとは。

「無理だって。俺がどれだけマナを注いでも、病を得た体はそのマナを体内に取り込むことができない。むしろ身に余る力に体が耐えられないんじゃないかな。無理を強いて、まだ遠くにある死を招き寄せるだけかもしれない。それでもやってみたほうがいいと思う?」

「少しずつなら……」

「あのな、俺が片時も離れず王様と手を繋いでたらおかしいだろうが。それもこの先アガリエが良いと判断するまでずっと、何年も何十年も繋いでいろって言うんだろう? 無理だって」

 それでもアガリエは諦めがつかないようだったが、言い募ることはしなかった。

 ただ繋がる指先から生まれる光に視線を落とす。

 そこにあるマナを、彼女も感じることができているだろうか。

 世界にマナはあふれている。

「マナは世界をめぐるんだ。生まれるマナがあれば、役目を終えて海を渡るマナもある。それが自然の摂理で、マナ使いはそれを力任せに曲げるために在るわけじゃない」

「では、何のために?」

「さあ? 実はそこのとこは俺たちにも明確にわかってるわけじゃないんだよね。ただ俺たちは聴こえてくる祈りに耳を傾ける。誰に強要されるわけでもなく、その祈りを叶えたいと思った時、海を渡ってこちらに来るんだ」

 ゼンにはアガリエの祈りが聴こえた。

 何を願っていたのかはわからない。ただただ彼女の悲痛な祈りが届いて、この願いを叶えてあげたいと心から思った。

 だからアオヌスマから海を渡って、この島へやってきたのだ。

 アガリエの体がほのかに光る。その光はやがて周囲の風や水を揺らし、小さな光がふいに灯っては消えてゆく。これで濡れた髪や着物から水分が抜け、少しは心地良くなるだろう。

「これは、ゼン様がわたくしにマナを注いでいる、ということなのですか?」

「違う。アガリエが持っているマナを使ってちょっと遊んでるだけ」

「……マナ使いの感覚がよくわかりません。それに神よマナ使いよと敬い慕われているわりに、できることが少ないですね」

「なんてこと言うんだよ。本気になれば、もっとすごいこともできるんだぞ!」

「それは、どのような?」

「ほら、立って!」

 ゼンはアガリエの手を引いて立たせると、その勢いのまま水面に足を乗せた。

 深い青が美しい、水の、上に。

「沈まない……」

「水のマナを使うと、こういうこともできる」

 アガリエが声を失うほど驚く様が面白い。

 ふたりの足元から広がる波紋がきらきらと光を放ち、踊る。

「マナ使いは二人で一人。だから俺はタキがいたらもっとできることが増える……んだけど、タキ置いてきちゃったからなあ」

「思えば初めてお会いした時もおひとりでしたね」

「うん。タキってすぐにどっかに行っちゃうんだよね。姉様にもよく怒られる。その時は俺も一緒に怒られるわけだけど。ああ、姉様っていうのは、姉弟子のことでさ。マヤーの主でもあるんだけど」

「マヤーの? 主はゼン様ではなかったのですか」

「残念ながら、マヤーは俺たちのお目付け役みたいなもんなんだよね。なあ、マヤー」

 ゆらりと巨体が動き、マヤーの足が水面に乗る。いくつもの波紋を広げながらアガリエの腰元にすりよった。

「マヤーもアオヌスマ育ちのマナ使いなんだよ。島に流れ着くマナは人のものばかりじゃないから」

「マナ使いは不思議ですね。どうして見ず知らずの相手の願いを叶えようと思えるのですか? ……わたくしには到底できそうにありません」

「そうかな。べつに特別なことだとは思わないけどなあ。アオヌスマにいるとさ、時々聴こえてくるんだ。声にマナが宿って、アオヌスマに届くほど強く何かを望む祈りの声が。アガリエと海辺で会った時、すぐにわかったよ。ああ、あの声はこの娘のもので、誰より強く願うことがあるんだなって。……アガリエがどんなに嘘つきでも、嫌がっても、俺はあの必死な声を知ってるから、だから心配しなくても大丈夫だよ。俺はちゃんとアガリエの傍にいるから」

 だから繋いだこの手を離さない。

 アガリエは今にも泣きだしそうな顔で、それでも静かに微笑んでいた。

 視線をそらす彼女が、震えを隠そうと強張る肩が、ゼンの心の琴線を揺らす。

 どうしてアガリエはこんなにも不安そうなのだろう。

 ゼンや周囲を利用し、何事かを成そうと画策していることはすでに感じている。それをゼンに打ち明け、助力を乞うつもりが毛頭ないことも。

 それなのにゼンに触れる指先が、交わる視線が、すがるように震えているのは何故なのか。それはまるで助けを求めているようにも、離れていくことを恐れているかのようにも見える。

 その憂いから彼女を解放してやりたい。

 奥底にある本当の気持ちに触れたい。

 いっそのこと泣いてすがってくれればいいのに。彼女が望むなら、どんな願いだって叶えてあげたいと心から思っているのに、どうして一言助けてほしいと言わないのか。ゼンの言葉にこんなにも心を震わせているくせに。

 待ってあげて欲しいと、イリは言ったけれど。

 ただ待つことはこんなにも難しい。

 体の芯が熱くて呼吸がくるしい。繋いだ指先が離れていきそうで、さらに強く握りしめる。

「嘘じゃない。俺はアガリエの傍にいるよ」

「……うそつきは、ゼン様のほうです」

「信じて」

 アガリエは首を振り、頑なに拒絶する。

 なおも否定の言葉を紡ごうとする顎を捕らえ、その赤い唇にゼンは噛みついた。

 痛い、という悲鳴ごと塞ぐ。

 やわらかくて、あまい。触れたところから伝わる熱と官能的な香りに意識を攫われる。

 もう嘘は聞きたくない。だから唇を塞ぐ。でもそれでは足りない。全然足りない。もっと触れたい。もっともっと彼女の心の内側にまで。

 唇から、抱きしめた腕から伝わればいい。彼女の傍にいて、守りたいと思う嘘偽りのないこの気持ちが。

 誰が彼女を傷つけても、ゼンだけは絶対に傷つけない。守ってみせる。

 だから信じてほしい。

 アガリエの咽喉からくぐもった悲鳴が零れる。力を緩めると、彼女は大きく呼吸をした。そのわずかに開いた唇を追いかけて塞ぐ。逃げる舌を捕らえ、言葉にできずにもどかしく思う気持ちの分だけくちづけを深くした。

 ゼンの胸元を握りしめていた指から力が抜ける。膝が折れ、崩れそうになるアガリエの体を支える。

 そこでようやくゼンは異変に気づいた。

「アガリエ?」

「……ゼ、ンさま」

 ゼンの腕の中で、アガリエはそのまま意識を失った。

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