魔の女王

香穂

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第六話

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 ふと彼らの背後にある赤いものに気づいた。――大きな日避けの傘だ。

 その傘が作り出す影の中に立つ青年に目を奪われる。

 紫だ。

 まとうのは鮮やかな紫電の衣。腰帯や扇子には赤が用いされ、目鼻立ちの整った面差しも相まって、随分と華やかな印象受ける。

 ひときわ目立つその姿にアガリエも気づいたらしい。そっと耳打ちしてきた。

「第二王子です。……兄上、お待たせしてしまいましたか?」

「なぜオルのところに?」

「魔物の傷を治療して参りました。王家の侍医に魔物を診せるわけにもまいりませんので」

「ああ、なるほどオルは適任だな。だが神が使役しておられる魔物なのであろう。ならば我らにとっては神獣に等しい。ゼン様、この者をどうぞお傍に置いてください。医術を心得ておりますので、必ずや御身のお力になりましょう」

「へえ。助かるよ。よろしく」

 第二王子の言葉に従い、若い娘がしずしずと進み出る。深く頭を垂れているので表情は窺い知れないが、その出で立ちからするに彼女も神女なのだろう。装束の袖からのぞく両手には、やはり複雑な紋様が刻み込まれていた。

 途中までお供しましょう、と申し出る第二王子に誘われるまま城の奥へと進む。

 ゼンと第二王子の後ろをアガリエ、そして護衛や女官たちが続くので、ちょっとした大行列だ。

 どうやら第二王子は魔物に興味があるらしい。道中、マヤーの他にはどんな魔物を使役しているのか、魔物の生態はどのようなものかなどと、しきりに話を聞きたがった。

「二の君は変わってるなあ。人はみんな魔物を嫌ってるものだとばかり思ってたよ」

「魔物は畑や森を荒らし、人を襲いますからね。しかし共存できればこれほど心強い味方もおりますまい。ぜひ騎乗してみたいものです」

「じゃあ、マヤーが元気になったら乗せてやるよ」

「まことですか? それは楽しみだ。神獣に相応しい鞍を仕立てさせましょう。そうそう、腕の良い絵師を呼んで、絵も描かせなければ」

「描かせるのはいいけど、マヤーはそんなに長い間大人しくしてくれないと思うよ」

「では大人しくさせるにはどうすれば良いのですか?」

「えー? 俺もそんなのお願いしたことないからな。どうだろう。こまめに食べ物をやって、気を紛らわせてやるとか? ……無理かな。主の命令には絶対服従の魔物もいるけど、マヤーはそうじゃないし、気まぐれだから」

「実に興味深い。ではひとまず鮮度の良い肉を用意しておきましょうか」

「肉は駄目。マヤーは魚が主食」

「なんと」

 第二王子は軽快に笑った。朗らかなその様子に、ゼンもつられて笑う。

 話しやすいし、親しみやすい。それがゼンからする第二王子の印象だった。魔物に興味があるという点も、好感度が高い要因だ。

 けれどこの王子を良しとせず、第一王子を支持する者がいるのだとアガリエは言っていた。

 話してる感じでは、べつに世継ぎとして問題があるようには思えないけどなあ。

 王城にはいくつもの建物が存在した。

 敷地の南に位置する正門。前庭と呼ばれる石畳の広場を挟んで向かい立つのは、王が日中執務を行う正殿だ。ゼンが王と謁見したのもこの建物にある一室だった。

 その正殿の裏には、前庭とよく似た作りの奥庭があり、周囲をぐるりと石垣に囲まれている。

 石垣の向こうへ行くには再び門をくぐる必要がある。こちら側は王族の居住区となっており、王の住まいがあるのは勿論、幾人もいる妃の数だけ御殿が存在しているらしい。奥御殿と呼ばれる男子禁制の場所だ。

 オルの住まいは敷地を明確に分けるためか、石垣や防風林に周囲を覆われていたため、他の御殿を間近で見ることはできなかったが、だからこそ広大な場所なのだろうと予測はできた。

 しかし驚くことに、それらの外周を覆うように再び石垣があり、斎場はさらにその奥に広がっているのだそうだ。

 東側には特に多くの拝所が設けられていると、第二王子が教えてくれた。

 東は太陽が昇る方角だ。この国がいかに太陽に傾倒しているかが窺える。

 一行は奥御殿を横切り、東側にある門へと向かった。

 斎場へとつながる豪奢な朱色の門をくぐる。

 石灰化した珊瑚が敷き詰められた内庭に、幾人もの神女がずらりと並んでいた。驚き息を呑むゼンの前に進み出たのは、謁見の間で王の隣にいた女性――月神女カーヤカーナだ。

「神よ、お待ち申しておりました。……日嗣の君もご一緒でしたか。ですが本日は厳粛なる儀式の日。これより先、男は何人たりとも足を踏み入れてはなりません」

「心得ておりますよ、伯母上。ではゼン様、またお会いしましょう」

 第二王子はあっさり身を翻し、来た道を戻って行った。ゼンの傍らには医術を心得ているという神女だけが残される。

「そういえばあの人、結局何しに来たんだ?」

「ゼン様は本当に恵まれた環境でお育ちになられたのですね」

「え? なに。遠回しの嫌味?」

「羨ましいと申し上げているのです。さあ、寝所を整えてくれているようですから参りましょう」

「ああ、……うん? 寝所?」

 アガリエが何かを言おうとして、やめてしまう。代わりにその目が切々と語っていた。今更何を言っているのかと呆れる彼女の心境を。

 はっ、しまった! 忘れてた!

 マヤーや次々現れる王子たちに気を取られてすっかり失念していたが、王は月神女に床を用意するようにと命じていたのだ。

 つまるところ月神女が先程口にした儀式というのは、神であるゼンと、その嫁となったアガリエの初夜ということだ。

 アガリエのことは知りたい。

 だが、これは違う。

 この状況は望んでいなかった。

 どっどどどどどうしよう!

 悶絶する。

 タキ、助けて!

 ――けれど悲しいかな、置き去った罰なのか、その声が相棒に届くことはなかった。



   *



 彼女と出会ったのは偶然ではなかった。

 ゼンがアガリエと王都へ向かった折、宮の混乱に乗じて彼女の後をつけたのだ。

 タキのことを、彼女は知らないようだった。――厳密に言うと、神使の顔を認識しておらず、それが目の前にいるタキだと気づいていないのだ。思えばゼンとタキを前にすると女官は大抵頭を垂れているので、顔の区別ができるほど眺めていたことがないのはこちらも同じだ。身なりや装飾品から、末席にあるのだろうと推察することはできるが。

「助けていただき、ありがとうございます」

 娘は深々と頭を下げるが、どうやらその所為でまた眩暈がしたらしい。足元がおぼつかなくなる彼女を庭先の木陰に連れて行き、木の根元に腰かけさせた。ここなら人目にもつかないだろう。

 背格好はよく似ているが、年の頃はアガリエよりいくらか上だろうか。装束の袖から覗く手足にはアガリエと同じように神女の紋様が施されている。

 この城に仕える女の多くは神女だ。女官が神女であってもおかしくはないが、タキの推察が正しければ、彼女はただの女官でも、神女でもない。

「体を厭わないといけませんよ」

「え?」

「腹に子が……」

 いるのだろう、と告げようとしたタキの口を、娘の両手が必死に塞いだ。

 痛い。

「どうか、どうか内密に!」

 先程よりも顔色が白い。声も手も震えていることから察するに、どうやら身籠っていることは事実らしい。

 別段腹が膨らんでいるわけでもないのだから、誤魔化すこともできただろうに、浅はかな……。

 とにかくこれ以上動揺させるのは得策ではない。苦しいし。

 口どころか鼻まで押さえつける手をはがし、できる限り温和な声で口角を上げて――タキは声も態度も考え方も冷たい、とゼンによく言われるので、こういう場面では気をつけるようにしている――告げる。

「安心してください。私はゼン様の従者です」

「……神、の?」

「アガリエ様がご夫君に対して身代わりを立てていたことも知っています。夜伽を任されていたのは、きみですね?」

 神使とわかり安堵したのか、娘の肩からすっと力が抜けた。

 そのまま首が縦に振られる。是、ということか。

 こんなに口が軽くて、よくアガリエの影武者に選ばれたものだと感心してしまうが、思えばこの城に来て以来、タキが乞うたことに対して難色を示した者はいない。それほど彼らにとって神という存在は大きなもので、その意向に歯向かうなど、あってはならないことなのかもしれない。

 どちらにしてもタキにとっては都合が良い。得られる情報は何一つ残さず聞き出しておきたい。

 彼女の前に膝を折る。一言断ってから細い手首を裏返し、脈打つ部分をやんわりと握り締める。そこからゆっくりとマナを流し込めば、娘の呼吸は少しずつ穏やかさを取り戻していった。

 妊娠して数日。つわりにしては随分と早い。おそらく気疲れによる体調不良だろう。

「どうかしましたか」

 タキの手元を凝視していた娘は、驚いて顔をあげた。

「あ、その……、神にまつわる御力は、神女の霊力とはまた違うものなのだと、思いまして」

「マナは霊力ではありませんからね」

「そうなのですか?」

「違いは明白でしょう。同じだと思う理由がどこに?」

 続く沈黙に、娘の表情がふたたび陰る。どうやら今のは冷たい反応だったらしい。

 とはいえ彼女にマナと霊力の違いを説明するのも億劫だ。何か別の話題を、と思った矢先、彼女の手が腹部に添えられていることに気づいた。落ち着いた頃合いを見計らって平然と嘯く。

「赤子のこと、アガリエ殿が気にかけておられましたよ」

 狙い通り娘の表情がやわらいだ。

「姫様が? あいかわらずお優しい方です」

「……優しい?」

 思わず口をついて出た言葉に、娘は目を瞠る。

「え? お優しく、ありませんか?」

「毎夜きみに無理を強いているのに、ですか?」

「ああ、そうでしたね。あなた様は神にお仕えする御方。ご存じないかもしれませんが、私のように親を亡くし身寄りもない娘が、はした金で身を売ることなど、特に珍しい話ではないのです。でも私はアガリエ様のおかげでこうして神女になることも、弟や妹を食べさせることだってできています。アガリエ様には心から感謝しております」

 その言葉に陰りはない。

 アガリエはあの夜、仕事を与えたと言っていたが、それは当人にとっても真実そうであるらしい。

 彼女のためにゼンはあんなにも怒っていたというのに、取り越し苦労だったわけか。

「それにジンブン様だってお優しい方です」

 今度はもっと驚いた。

「あんなに年が離れた怖そうな人と結婚するなんて、絶対に嫌だと姫様が仰るので、私も最初は不安でしかたがなかったのです。ですが実際にお会いして驚きました。とてもお優しくて、いつも私のことを気遣ってくださいます。姫様にもそのように何度もお伝えしたのですが、どうしても聞き入れてはもらえなくて。私も姫様に泣かれると、それ以上は強く申し上げることができませんし……」

 あのアガリエがそれしきのことで泣くわけがない。

 じつに興味深い。

 利害関係が一致しているのはわかったが、どう甘く考えてもこの娘はアガリエに利用されている。

 けれど不思議と、それが彼女にとって不幸なこととは思えなかった。

 まだ膨らみもしていない腹部を撫でる横顔は、本当に嬉しそうだ。

「本当は一番に姫様に抱いてほしかったのですが、致し方ありませんね。でもジンブン様がお帰りになられてまだ数日、身籠っているのかどうか確たる証拠もない状態で、もう城を出るようにと言われるとはさすがに思ってもいなくて、びっくりして食事も咽喉を通らなくなってしまって……。駄目ですね。そんな風だから倒れてしまったのでしょう」

「それもあるかもしれませんが、きみ達が閨で使っている香も悪影響を及ぼしているのだと思います。あれは母体にはよろしくない」

「……ああ、なるほど。でももう使うことはないでしょうから」

 さみしい。目に浮かぶ涙をぬぐうと、娘は懸命に笑顔を見せる。

「きみはいつ城を離れるのですか?」

「今夜です。皆には、姫様が受けたお告げにより、しばらく宮を離れることになったとだけ伝えています」

 ふと違和感を覚える。

 アガリエの影武者を務め身籠った娘が城を立つ日と、王の危篤の知らせが届いた日が同じなのは、単なる偶然なのだろうか。まるで自分がいなくなることを事前に察知していたかのような状況だ。

 ゼンは無事じゃないかもしれないな……。

 彼は納得していないが、女運がないのは明白なのだ。

 そして姉弟子いわく、ゼンはすこぶる女の趣味が悪い、らしい。

 タキは娘の帯に、その下に宿る新たな命にそっと手を添える。

「言祝ぎをしても?」

 娘は声もなく、ただ頷いた。その目から透明な滴が零れ落ちる。

「私は本当に果報者です」

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