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十章
2、大潮の蓮
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目を開けているのもつらいほどの風圧。だが、しっかりと見据えていると、地面から細い繊維が幾本も立ちのぼった。
石の糸だ。糸は網を張り、シャールーズを受け止めた。
次の瞬間、石の網はもろく崩れ落ちた。
シャールーズは長剣を手に、立ち上がった。体にまとわりついた石の糸が、はらりと落ちていく。
「シャルちゃん! あなた、何してるの」
「うるせぇ」
走り寄ってくるエラを突き飛ばし、アフタルの方へ向かう。
エラはよろけて尻もちをついた。
だが駆け寄って彼女を支えようとする者はいない。
池の水位はやたらと高く、今にも溢れんばかりだ。
午前の早い時間に咲いていた蓮も、すべて水面下に沈んでいる。
金の髪が広がらぬよう一つにまとめられたアフタルも、その中の一輪であるかのようだ。
「ササン! いるんだろ。ラウルを守ってくれ」
シャールーズは周囲に視線を走らせた。ティルダードの護衛だけれど、ササンならラウルを見捨てはしないはずだ。
「ミーリャ! 聞こえるか。契約を」
塔を見上げ、シャールーズは叫んだ。
この声が届くかどうか、分かりはしないが。
◇◇◇
大潮の蓮。
それは古い時代の拷問だ。
大潮の日、池や湖に杭を打って人を縛りつけ、池の水位が上がるのをただ待つ。
波と波の間でだけ、ちょうど呼吸ができる高さ。かろうじて窒息は免れても、水中に留め置かれることで体温の低下は避けられない。
咎人の罪の重さにより、どの程度で水から引き揚げられるかが決まる。
過去には、人目につかぬ郊外の池で行われたことが多く、これまで王宮の庭で行われたことは一度もない。
あくまでも、そう公表されているというだけだが。
どこか遠いところから声が聞こえた気がして、アフタルは意識を取り戻した。
「アフタル」と、何度も耳になじんだ低い声。幻かもしれないけれど。
波と波の合間に、アフタルはかろうじて息をつなぐ。普段の池と違い、月の引力に引っ張られた水面は高く。吹く風に波も高い。
体が冷えて、すでに指先の感覚がない。
(もう、だめです……)
何事も為すことができぬままに。ここで朽ち果ててしまうのか。
また波が押し寄せ、アフタルの顔にかかる。
息を吸おうとしていたアフタルは、水を飲みこんでしまった。
苦しい。苦しくてしょうがない。
咳きこむ力も弱くなってきた。
霞む視界に、倒れるラウルの姿が映った。
「ラ……」
その名を呼ぼうとしたけれど、また水が口に入りこむ。
夢見た未来は、確かにあったのに。手を伸ばせば、届くと思ったのに。
たとえ議会で反対されようと、何年かかろうと、実現させるつもりだったのに。
この国を守ろうとすること自体、自分には荷が重かったのだろうか。
「アフタル! アフタル!」
近くで愛しい人の声が聞こえた。
(幻聴が、こうも明瞭に聞こえるなんて)
褐色の肌と、金の髪が見えた気がした。
(神さまが、最後に見たいものを見せてくれているのですね)
マグナ・マテル。ラウルたちの母たる天の女主人。サラーマの古き神が、憐れんでくれているのだろうか。
その時、アフタルを縛める縄が断ち切られた。
ふわりと体が浮上する。
アフタルは力強い腕に抱きしめられた。
石の糸だ。糸は網を張り、シャールーズを受け止めた。
次の瞬間、石の網はもろく崩れ落ちた。
シャールーズは長剣を手に、立ち上がった。体にまとわりついた石の糸が、はらりと落ちていく。
「シャルちゃん! あなた、何してるの」
「うるせぇ」
走り寄ってくるエラを突き飛ばし、アフタルの方へ向かう。
エラはよろけて尻もちをついた。
だが駆け寄って彼女を支えようとする者はいない。
池の水位はやたらと高く、今にも溢れんばかりだ。
午前の早い時間に咲いていた蓮も、すべて水面下に沈んでいる。
金の髪が広がらぬよう一つにまとめられたアフタルも、その中の一輪であるかのようだ。
「ササン! いるんだろ。ラウルを守ってくれ」
シャールーズは周囲に視線を走らせた。ティルダードの護衛だけれど、ササンならラウルを見捨てはしないはずだ。
「ミーリャ! 聞こえるか。契約を」
塔を見上げ、シャールーズは叫んだ。
この声が届くかどうか、分かりはしないが。
◇◇◇
大潮の蓮。
それは古い時代の拷問だ。
大潮の日、池や湖に杭を打って人を縛りつけ、池の水位が上がるのをただ待つ。
波と波の間でだけ、ちょうど呼吸ができる高さ。かろうじて窒息は免れても、水中に留め置かれることで体温の低下は避けられない。
咎人の罪の重さにより、どの程度で水から引き揚げられるかが決まる。
過去には、人目につかぬ郊外の池で行われたことが多く、これまで王宮の庭で行われたことは一度もない。
あくまでも、そう公表されているというだけだが。
どこか遠いところから声が聞こえた気がして、アフタルは意識を取り戻した。
「アフタル」と、何度も耳になじんだ低い声。幻かもしれないけれど。
波と波の合間に、アフタルはかろうじて息をつなぐ。普段の池と違い、月の引力に引っ張られた水面は高く。吹く風に波も高い。
体が冷えて、すでに指先の感覚がない。
(もう、だめです……)
何事も為すことができぬままに。ここで朽ち果ててしまうのか。
また波が押し寄せ、アフタルの顔にかかる。
息を吸おうとしていたアフタルは、水を飲みこんでしまった。
苦しい。苦しくてしょうがない。
咳きこむ力も弱くなってきた。
霞む視界に、倒れるラウルの姿が映った。
「ラ……」
その名を呼ぼうとしたけれど、また水が口に入りこむ。
夢見た未来は、確かにあったのに。手を伸ばせば、届くと思ったのに。
たとえ議会で反対されようと、何年かかろうと、実現させるつもりだったのに。
この国を守ろうとすること自体、自分には荷が重かったのだろうか。
「アフタル! アフタル!」
近くで愛しい人の声が聞こえた。
(幻聴が、こうも明瞭に聞こえるなんて)
褐色の肌と、金の髪が見えた気がした。
(神さまが、最後に見たいものを見せてくれているのですね)
マグナ・マテル。ラウルたちの母たる天の女主人。サラーマの古き神が、憐れんでくれているのだろうか。
その時、アフタルを縛める縄が断ち切られた。
ふわりと体が浮上する。
アフタルは力強い腕に抱きしめられた。
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