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五章
6、颱風の夜
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寝る前に、ぼくと欧之丞は歯磨きをした。
歯刷子に、紙の箱に入った獅子印の歯磨き粉をつけて、ごしごしする。
廊下の洗面所は細長くて、二人並んでも広いくらいや。
タイルが貼ってある洗面台の上には、窓がある。鍵もちゃんと閉めとうのに、すりガラスががたがたと音を立てて、木の窓枠が軋んだ音を立てる。
雨水がしみこんでるんやろか。心なしか窓枠の木のところどころが黒っぽいこげ茶に変色して、湿った匂いがする。
どこかで雨漏りがしたのを受けてるのか、カン……カン……と、ブリキの桶に水が落ちる音が暗闇から聞こえた。
怖い。どないしよ、風でガラスが割れてしもたら。
びゅうといっそう激しい風が吹きつけて、奔流を浴びたように白いガラスに水が広がっては流れ落ちていく。
そのたびに、ガラスが激しい音を立てるんや。
「すごいな。今の、もう一回見たいな」
「え? ええー、そうか?」
「こたにい。やっぱり颱風が怖いのか?」
「べ、べつに?」
欧之丞が泡のついた歯刷子を持ったまま、顔を覗きこんでくるから。ぼくは、そーっと視線を外した。
洗面台にはカンテラを持ってきてるから、橙色のぼうっとした光がぼくらの顔と、風雨を受けて震えるガラスや濡れたタイルをしっとりと照らしている。
でも、それ以外の廊下の奥や天井は真っ暗や。
闇に何かがひそんでるみたいで、ぼくは慌てて欧之丞の顔を見た。
「大丈夫だぞ。俺の家、颱風で瓦が落ちたことがあるけど。なんともなかった」
「そうなん?」
「庭の木もめりめりって、音がして。根っこの部分がえぐれて、倒れたけど。なんともなかった」
いや、それはなんともあるやろ。大惨事やんか。たまたま屋根や窓に直撃せぇへんかっただけとちゃうん?
けど、欧之丞は「土塀がこわれただけだったよ」と、からっとした明るい笑顔を浮かべた。
……それ、瓦以上やん。
「あの時は、おきよがいてくれたから何ともなかったよ。今はね、こたにいもおじさんもおばさんもいるから、もっと平気だよ」
頼られてるなぁ。うちの家族は。
ぼくらがおるから、欧之丞はなんにも怖ないんやなぁ。
母さんもぼくも、颱風をこんなにも怖がっとんのに。それでも頼りになるんやなぁ。
ここにいるだけでいい、それだけでうれしいと言ってもらえたみたいで、自然と頬がゆるんでしまった。
困ったことに、口から泡がこぼれて、ぼくは慌てて洗面台にぽたりと泡を落としたんや。
「あー、こたにい。おぎょうぎ、悪いぞ」
「しゃあないやん。上にあるもんは下に落ちるやろ?」
「そうなのか?」
「うん、そうやで。しゃあないんや」
「そっかぁ」と納得してうなずく欧之丞を見て、ぼくは口の端をひきつらせた。欧之丞があまりにも素直やから、ちょっとだけ心がちくりと痛んだんや。ほんまにちょっとやけど。
ふたりで一緒にうがいをして、ぼくらは手をつないで部屋に戻った。
薄荷のさわやかな香りと、足下を照らすカンテラ。まぁるく木の床を照らすその灯りを、もう心細いとは思わんかった。
部屋にはぼくらだけのやのうて、父さんと母さんのお布団も敷いてあった。
「琥太郎、欧之丞。父さんと一緒に寝るか?」
「あら、二人ともわたしと一緒に寝るのよね」
並んで敷いてあるお布団から、それぞれがぼくらを手招きする。
ぼくと欧之丞は歯刷子と手拭いを持ったまま、顔を見合わせる。
「えー、俺、一人でも寝られるけど」
「え? そうなん? ぼくは欧之丞と一緒に寝よと思ってたのに」
ひそひそと話す声は、ありがたいことに激しく屋根や雨戸を叩く雨の音で、父さんや母さんには届かんかったみたいや。
「俺、こたにいと寝るから。蒼一郎おじさんと絲おばさんが、一緒に寝たらいいよ」
ちょうど風がとぎれた時やったんか、欧之丞の言葉は、やけにはっきりと聞こえた。
「おやすみなさい。おじさん、おばさん」
「え? ええ、おやすみなさい」
「お、おやすみ」
ぺこりと頭を下げる欧之丞を、父さんも母さんも呆然と見ている。
分かってるねん。父さんは一人でも寝られるけど、母さんはほんまに颱風が怖くて。せやから、きっと左右にぼくと欧之丞で挟まれて寝たら怖ないと思ってることを。
でも、それは父さんが許さへん。
だって、ぼくら二人と一緒に寝たら、きゅうくつすぎて母さんが眠れずに体調を崩すもん。せやから、一人ずつしかそれぞれのお布団に入られへん。
そして、母さんはぼくを抱っこして二人してお布団の中で、震えて寝られへんことを欧之丞は知ってるんや。
歯刷子に、紙の箱に入った獅子印の歯磨き粉をつけて、ごしごしする。
廊下の洗面所は細長くて、二人並んでも広いくらいや。
タイルが貼ってある洗面台の上には、窓がある。鍵もちゃんと閉めとうのに、すりガラスががたがたと音を立てて、木の窓枠が軋んだ音を立てる。
雨水がしみこんでるんやろか。心なしか窓枠の木のところどころが黒っぽいこげ茶に変色して、湿った匂いがする。
どこかで雨漏りがしたのを受けてるのか、カン……カン……と、ブリキの桶に水が落ちる音が暗闇から聞こえた。
怖い。どないしよ、風でガラスが割れてしもたら。
びゅうといっそう激しい風が吹きつけて、奔流を浴びたように白いガラスに水が広がっては流れ落ちていく。
そのたびに、ガラスが激しい音を立てるんや。
「すごいな。今の、もう一回見たいな」
「え? ええー、そうか?」
「こたにい。やっぱり颱風が怖いのか?」
「べ、べつに?」
欧之丞が泡のついた歯刷子を持ったまま、顔を覗きこんでくるから。ぼくは、そーっと視線を外した。
洗面台にはカンテラを持ってきてるから、橙色のぼうっとした光がぼくらの顔と、風雨を受けて震えるガラスや濡れたタイルをしっとりと照らしている。
でも、それ以外の廊下の奥や天井は真っ暗や。
闇に何かがひそんでるみたいで、ぼくは慌てて欧之丞の顔を見た。
「大丈夫だぞ。俺の家、颱風で瓦が落ちたことがあるけど。なんともなかった」
「そうなん?」
「庭の木もめりめりって、音がして。根っこの部分がえぐれて、倒れたけど。なんともなかった」
いや、それはなんともあるやろ。大惨事やんか。たまたま屋根や窓に直撃せぇへんかっただけとちゃうん?
けど、欧之丞は「土塀がこわれただけだったよ」と、からっとした明るい笑顔を浮かべた。
……それ、瓦以上やん。
「あの時は、おきよがいてくれたから何ともなかったよ。今はね、こたにいもおじさんもおばさんもいるから、もっと平気だよ」
頼られてるなぁ。うちの家族は。
ぼくらがおるから、欧之丞はなんにも怖ないんやなぁ。
母さんもぼくも、颱風をこんなにも怖がっとんのに。それでも頼りになるんやなぁ。
ここにいるだけでいい、それだけでうれしいと言ってもらえたみたいで、自然と頬がゆるんでしまった。
困ったことに、口から泡がこぼれて、ぼくは慌てて洗面台にぽたりと泡を落としたんや。
「あー、こたにい。おぎょうぎ、悪いぞ」
「しゃあないやん。上にあるもんは下に落ちるやろ?」
「そうなのか?」
「うん、そうやで。しゃあないんや」
「そっかぁ」と納得してうなずく欧之丞を見て、ぼくは口の端をひきつらせた。欧之丞があまりにも素直やから、ちょっとだけ心がちくりと痛んだんや。ほんまにちょっとやけど。
ふたりで一緒にうがいをして、ぼくらは手をつないで部屋に戻った。
薄荷のさわやかな香りと、足下を照らすカンテラ。まぁるく木の床を照らすその灯りを、もう心細いとは思わんかった。
部屋にはぼくらだけのやのうて、父さんと母さんのお布団も敷いてあった。
「琥太郎、欧之丞。父さんと一緒に寝るか?」
「あら、二人ともわたしと一緒に寝るのよね」
並んで敷いてあるお布団から、それぞれがぼくらを手招きする。
ぼくと欧之丞は歯刷子と手拭いを持ったまま、顔を見合わせる。
「えー、俺、一人でも寝られるけど」
「え? そうなん? ぼくは欧之丞と一緒に寝よと思ってたのに」
ひそひそと話す声は、ありがたいことに激しく屋根や雨戸を叩く雨の音で、父さんや母さんには届かんかったみたいや。
「俺、こたにいと寝るから。蒼一郎おじさんと絲おばさんが、一緒に寝たらいいよ」
ちょうど風がとぎれた時やったんか、欧之丞の言葉は、やけにはっきりと聞こえた。
「おやすみなさい。おじさん、おばさん」
「え? ええ、おやすみなさい」
「お、おやすみ」
ぺこりと頭を下げる欧之丞を、父さんも母さんも呆然と見ている。
分かってるねん。父さんは一人でも寝られるけど、母さんはほんまに颱風が怖くて。せやから、きっと左右にぼくと欧之丞で挟まれて寝たら怖ないと思ってることを。
でも、それは父さんが許さへん。
だって、ぼくら二人と一緒に寝たら、きゅうくつすぎて母さんが眠れずに体調を崩すもん。せやから、一人ずつしかそれぞれのお布団に入られへん。
そして、母さんはぼくを抱っこして二人してお布団の中で、震えて寝られへんことを欧之丞は知ってるんや。
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