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五章
1、瓦斯燈まで
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そろそろ秋になりそうなのが、空の色で分かる。
この辺りは海の側やから、湿気が多いんやって。それで滲んだみたいな水色の空になることが多いんやけど。
秋になると、そのくすんだ色から白い色をすぱっと抜いたみたいに、くっきりとした深い青になる。
母さんと欧之丞とぼくで、今日は海の近くを散歩している。
風がちょっと強いんか、普段はあんまり聞こえへん波音が聞こえてくる。
なんか遠い所から聞こえてくる音楽みたいや。
「あの病院で琥太郎さんは生まれたのよ。二階の、あの窓のお部屋ね」
潮の匂いのする風に揺れる着物の袂を押さえながら、母さんが洋館を指さした。鎧壁っていう、ちょっと変わった感じの壁や。
覚えてるわけはないけど。それでも父さんから、ぼくが産まれた時のことや、母さんが今にも死にそうで大変やったことを聞いたことがあるから。
知ってるような知らんような不思議な感覚で、そのモダンな建物を眺めた。
「俺は? 俺はどこで生まれたの?」
「え?」
欧之丞に袖を引っ張られて、母さんは立ち止まった。
「俺もあの病院で生まれたの? こたにいとおんなじ部屋?」
「それは、どうかしら。お家で赤ちゃんを産む人も多いから。ちょっと分からないわ」
「えーっ」
母さんの説明に、欧之丞は口をとがらせた。
「今度、お清さんに訊いておきましょうね」と、母さんが道にしゃがみこんで欧之丞の頭を撫でる。お清さんというのは、欧之丞の家で働いとう人や。
さらりとした黒髪が、母さんの白い指の間から見え隠れする。
「俺もこたにいと、おんなじとこがいい」
「そうね」
母さんは困ったように眉を下げた。松林を吹き抜ける風が、母さんの結い上げた髪のおくれ毛を揺らす。
くせのあるふわっとした母さんの髪、ぼくのとよう似てる。
澄んだ日差しに照らされた母さんとぼくの髪は、まるで茶色いように見えるけど。欧之丞のまっすぐな髪は、黒々としてる。
こんな時や。ぼくはお兄ちゃんやのに、欧之丞のほんまのお兄ちゃんとちゃうから。
欧之丞は、よその子やっていう事実を思い出してしまうんは。
ぼくは欧之丞の手をきゅっと掴んだ。
「なに? どうしたんだ?」と欧之丞はびっくりして目を丸くするけど。
欧之丞は気付かんでええねん。その気持ちが……母さんの子どもやないこと、ほんまのお母さんがもうおらへんこと、それら全部ひっくるめて寂しいんやっていうことは、知らんでええねん。
今みたいに寂しなったら、ぼくが手ぇつないだるから。
いつまでも一緒にいたげるから。
「こたにい、俺と手をつなぎたいのか?」
「え?」
つなぎたいけど、つないであげてるっていうか。
素直に頷くには、ちょっと抵抗がある訊かれ方やった。
「もーぉ、こたにいは甘えん坊だな。しょうがないなぁ」
「ちょ、そういうのとちゃうんやって」
「え? じゃあ俺と手をつなぎたくないのか?」
くりっとした汚れのない黒い瞳で、欧之丞がぼくを見つめてくる。その目には、明らかにおろおろした表情のぼくが映ってる。
欧之丞はというと、ほんまに素直な感じで尋ねてるみたいで。何かを含んだような、企んだような雰囲気はみられへん。
え、どう答えたらええん? ぼく、もしかしたら試されてる?
「えっと、欧之丞と手ぇつなぎたいで」
「どこまで?」
へ? 今日の欧之丞はちょっと扱いづらいで。
「えーと、そうやな。あの瓦斯燈のとこまで」と、ぼくは指で指し示した。
「瓦斯燈まででいいのか? 家までじゃなくて大丈夫?」
身を乗り出して訊いてくる欧之丞は、瞬きもせぇへん。ぼくの手を握りしめて、じーっと見つめたままや。
せやから、ぴんときた。
そっか。欧之丞がずっと手を繋いでいてほしいんやな。
しゃあないな。ここは兄ちゃんが気を利かせたろ。
「瓦斯燈までやのうて、家まで欧之丞と手ぇつなぎたいなー」
「ほんとに?」
「うん、ほんまやで」
欧之丞の声が、突然弾んだ。ぼくは笑いをかみ殺して、何度もうなずく。
小さい子どもなんやから、素直に兄ちゃんに甘えたらええのに。
というか、五歳でここまで気をまわす子どもって普通おらへんやんなぁ。
ぼくって、やっぱり賢くて聡いんやなぁ。
なんか、くすくすという声が聞こえてぼくは顔を上げた。
母さんがぼくに背を向けて、肩を震わせとった。
んもーっ。笑わんといてよ。
この辺りは海の側やから、湿気が多いんやって。それで滲んだみたいな水色の空になることが多いんやけど。
秋になると、そのくすんだ色から白い色をすぱっと抜いたみたいに、くっきりとした深い青になる。
母さんと欧之丞とぼくで、今日は海の近くを散歩している。
風がちょっと強いんか、普段はあんまり聞こえへん波音が聞こえてくる。
なんか遠い所から聞こえてくる音楽みたいや。
「あの病院で琥太郎さんは生まれたのよ。二階の、あの窓のお部屋ね」
潮の匂いのする風に揺れる着物の袂を押さえながら、母さんが洋館を指さした。鎧壁っていう、ちょっと変わった感じの壁や。
覚えてるわけはないけど。それでも父さんから、ぼくが産まれた時のことや、母さんが今にも死にそうで大変やったことを聞いたことがあるから。
知ってるような知らんような不思議な感覚で、そのモダンな建物を眺めた。
「俺は? 俺はどこで生まれたの?」
「え?」
欧之丞に袖を引っ張られて、母さんは立ち止まった。
「俺もあの病院で生まれたの? こたにいとおんなじ部屋?」
「それは、どうかしら。お家で赤ちゃんを産む人も多いから。ちょっと分からないわ」
「えーっ」
母さんの説明に、欧之丞は口をとがらせた。
「今度、お清さんに訊いておきましょうね」と、母さんが道にしゃがみこんで欧之丞の頭を撫でる。お清さんというのは、欧之丞の家で働いとう人や。
さらりとした黒髪が、母さんの白い指の間から見え隠れする。
「俺もこたにいと、おんなじとこがいい」
「そうね」
母さんは困ったように眉を下げた。松林を吹き抜ける風が、母さんの結い上げた髪のおくれ毛を揺らす。
くせのあるふわっとした母さんの髪、ぼくのとよう似てる。
澄んだ日差しに照らされた母さんとぼくの髪は、まるで茶色いように見えるけど。欧之丞のまっすぐな髪は、黒々としてる。
こんな時や。ぼくはお兄ちゃんやのに、欧之丞のほんまのお兄ちゃんとちゃうから。
欧之丞は、よその子やっていう事実を思い出してしまうんは。
ぼくは欧之丞の手をきゅっと掴んだ。
「なに? どうしたんだ?」と欧之丞はびっくりして目を丸くするけど。
欧之丞は気付かんでええねん。その気持ちが……母さんの子どもやないこと、ほんまのお母さんがもうおらへんこと、それら全部ひっくるめて寂しいんやっていうことは、知らんでええねん。
今みたいに寂しなったら、ぼくが手ぇつないだるから。
いつまでも一緒にいたげるから。
「こたにい、俺と手をつなぎたいのか?」
「え?」
つなぎたいけど、つないであげてるっていうか。
素直に頷くには、ちょっと抵抗がある訊かれ方やった。
「もーぉ、こたにいは甘えん坊だな。しょうがないなぁ」
「ちょ、そういうのとちゃうんやって」
「え? じゃあ俺と手をつなぎたくないのか?」
くりっとした汚れのない黒い瞳で、欧之丞がぼくを見つめてくる。その目には、明らかにおろおろした表情のぼくが映ってる。
欧之丞はというと、ほんまに素直な感じで尋ねてるみたいで。何かを含んだような、企んだような雰囲気はみられへん。
え、どう答えたらええん? ぼく、もしかしたら試されてる?
「えっと、欧之丞と手ぇつなぎたいで」
「どこまで?」
へ? 今日の欧之丞はちょっと扱いづらいで。
「えーと、そうやな。あの瓦斯燈のとこまで」と、ぼくは指で指し示した。
「瓦斯燈まででいいのか? 家までじゃなくて大丈夫?」
身を乗り出して訊いてくる欧之丞は、瞬きもせぇへん。ぼくの手を握りしめて、じーっと見つめたままや。
せやから、ぴんときた。
そっか。欧之丞がずっと手を繋いでいてほしいんやな。
しゃあないな。ここは兄ちゃんが気を利かせたろ。
「瓦斯燈までやのうて、家まで欧之丞と手ぇつなぎたいなー」
「ほんとに?」
「うん、ほんまやで」
欧之丞の声が、突然弾んだ。ぼくは笑いをかみ殺して、何度もうなずく。
小さい子どもなんやから、素直に兄ちゃんに甘えたらええのに。
というか、五歳でここまで気をまわす子どもって普通おらへんやんなぁ。
ぼくって、やっぱり賢くて聡いんやなぁ。
なんか、くすくすという声が聞こえてぼくは顔を上げた。
母さんがぼくに背を向けて、肩を震わせとった。
んもーっ。笑わんといてよ。
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