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一章

22、暖かな場所 

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 三條の家に帰ったら、もう若先生が来とった。

「どうして……こんな」

 若先生は言葉を詰まらせて、正座した膝の上で拳を握りしめとった。
 欧之丞は、今は静かに寝とう。首に巻いた白い包帯が痛々しくて、でも小さい右手は、しっかりと母さんの手を握りしめている。

 時折、欧之丞が苦しそうに咳き込むから。
 ぼくは水を飲ませてやった。匙にちょっとずつ水をすくって、口に含ませてやる。
 包帯が巻かれているせいで、喉の動きは分からへん。

 欧之丞が横になっとう時は、大半が消毒薬のにおいがする。
 それがつらくて、悔しくて。
 ぼくは唇をかみしめた。

「母さん。欧之丞、元気になるよな」

 母さんはうなずいた。

「もちろんですよ。また琥太郎さんと虫を捕りに行けるようになるわ」

 前、うちにおった時はふっくらしとったほっぺたが、今はげっそりとしている。
 
 玄関の方が賑やかになったと思ったら、廊下を歩く音が聞こえた。
 父さんが帰って来たんや。

「ただいま。どうや、欧之丞は」
「眠っています。少し落ち着いたみたいですよ」
「そうか……」

 父さんは欧之丞の布団の隣に座り、静かな寝顔をじーっと見つめた。若先生から、欧之丞の状態を説明されて。それで眉根を寄せて厳しい顔をしとった。

「高瀬さんに……欧之丞の父親にうてきたで」
「どうでしたか?」

 大人の話やから、ぼくは口を挟まんかった。こういう時は子どもやってことをわきまえるからやろか。
 子どもは聞かんでええ、という風に部屋を追い出されたことがない。

「あの家にはもう戻る気はない。家は欧之丞が継いだらいい。妾との間には子どももおる。財産は全部欧之丞にやるから、もう新しい家族三人で静かに暮らしたいだけや……らしいわ」
「そんな勝手な……」

 そう言いかけて、母さんは口をつぐんだ。
 多分、気づいたんやろ。
 欧之丞のことを微塵もかわいいと思てない親と一緒に暮らしたところで、欧之丞は幸せになられへんことを。

「わたしたちは家族としての愛を与えることはできます。でも、多分それでは足りないんです」

 欧之丞が握って離さない手を、母さんはじっと見つめた。
 そして空いた左手で、欧之丞の手を撫でてやる。
 ぴくりと動いた欧之丞の指が、きゅっと母さんの手を握りしめた。

「ほんまは養子にしたいけど。世間は、色々と噂するやろ。高瀬の家をヤクザが乗っ取った、と。せやから俺が欧之丞の後見人になるのが一番とちゃうかな」

 ぼくと母さん、それに若先生の声は小さいけど。
 父さんは声を潜めていてもでかいから。そのせいで、欧之丞が目を覚ました。

「蒼一郎おじさん……こたにい」

 かすれた声で呟いて、にっこりと微笑む。

「おう、気が付いたか。無理にしゃべらんでええで」
「体、痛むやろ? 起きんでええからな」

 ぼくらの言葉に、欧之丞は瞼を動かしてうなずく代わりにした。
 そうやんな。痛いよな、苦しいよな。

 そして、自分の手がしっかりとぼくの母さんの手を握ってることに気づいたんや。

「あれ? なんで?」
「握っていた方が楽だからだと思うわ」

 普段はおっとりしとうのに。こういう時の母さんはすごく聡い。
 欧之丞が、ほんとの母親やない、優しい母親を求めてるのに気が付いていて、あえてそれを言わへん。

「ごめんなさい……絲おばさん、動けなかった?」
「いいんですよ。欧之丞さんの寝顔が見られたから」
「俺の顔見ても、つまらないよ」
「そんなことないわ。でも、可愛いなんて言ったら怒られるかしら。琥太郎さんには、よく怒られるんですよ」

「んーん、おこらない」と、欧之丞はへにゃっと微笑んだ。
 唇はまだ切れとうし、青い痣も口の端に残っとう。

「なんで俺はこたにいのほんとの弟じゃないんだろ。なんで絲おばさんと蒼一郎おじさんのほんとの子どもじゃないんだろ」

 次第に涙が滲んだと思うと、欧之丞の大きな目からぼろぼろと涙が溢れた。
 
「ここは安全で、やさしくてあたたかくて。でも、俺の家は痛くて怖くて、暗くて」

「やだっ。あんな家、もういやだっ」と声を上げて欧之丞は泣いた。
 息苦しいだろうに。喉もつらいだろうに。
 聞いているこちらの心が引き裂かれそうな、そんな悲痛な泣き方だった。

「俺、こたにいのほんとの弟がよかった」

 ぼくや父さんたちは欧之丞の近くにいる。どんなに抱きしめても、多分目には見えない薄い硝子みたいなもんが、欧之丞にはあるんやと思う。
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