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番外編
4、花火を見ながら
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夏の夕風が、心地よく吹いている。風情を感じたくて、坑道跡の入り口にとりつけた風鈴が、繊細で涼しげな音を立てている。
見た目はガラスの方が清涼感があるのだが、音が澄んでいるのは鋳鉄の風鈴だ。
りんりん、と心まで透明になるような素敵な音色だ。
瞼を閉じている螢の手を、ふいに空蝉が握りしめてきた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。さぁ、花火大会とやらに出向くぞ」
真新しい下駄を履いた螢は、うなずいた。
履き慣らすだけの時間がなくて、足の指の間の鼻緒が硬い。
(でも、花火を見ている間は、鼻緒に当たらないように足をずらしていればいいわよね)
木々の茂った道を、手を繋いで空蝉と螢は下っていった。
久しぶりの町は、とにかく暑かった。アスファルトに覆われた場所が増えているせいだろうか。緑の多い山よりも、ずいぶんと気温が高く感じる。
「花火大会は、河川敷であるらしいわ」
京香に教えてもらった場所に向かうと、すでにたくさんの人が河川敷に座っていた。
「あんな混んだ場所に入っていくものではないな」
「そうね」
どうやら花火は対岸から上げられるようだ。辺りを見回すと、車道を挟んだ場所に石垣がある。
そこに座れば人混みに入らずに済みそうだ。
長い夕暮れのあと、辺りは宵の藍色に包まれた。
ひゅるると音がして、花火大会の始まりを告げる最初の一発が上がる。
続いて、華やかな花火が夜空を彩った。
わりと近い場所から上げられているせいか、花火の音は少し遅れて、しかもお腹に振動となって響いてくる。
「花火とはうるさいものなのだな。大砲かと思ったぞ」
「そうね」と言えるほど、螢は長く生きていないが。それは幕末の頃の戦なのか、それとも戦国時代なのか、と悩んでしまう。
周囲が闇に包まれ、空から煌めく金色の火の粉が散ってくる。
空蝉はなおも螢の手を離さない。もう、ずっとだ。
「怖いの?」
「ああ、怖いな」
「えーと、大砲じゃないから大丈夫よ」
「そなた、何を馬鹿なことを申すのだ」
心底、呆れた様子の空蝉の顔が、大輪の花火に照らし出される。
赤い花火を映した彼の瞳が、かつての緋色に見えて。螢は、どきっとした。
「馬鹿って何よ」と言い返しそうになった言葉を、そのまま飲み込む。
空蝉は螢の手を握ったままで、上にあげた。そして手の甲にキスをする。
「ずっと手を繋いでいてくれ。螢がこの人ごみに紛れて、どこかへ行ってしまわないか、心配なのだ」
「うん」
螢はうなずいた。
空蝉のキスはやまない。五本の指、それぞれの指先に。そして爪に。指と指の間にも。
優しく唇で撫でられるから、もう花火に集中できない。
指や手に与えられる、とろけるような感触と、腹部に響く花火の音。
どうにかなってしまいそうだ。
「花火は見なくていいのか?」
「……意地悪」
「うむ。そうだな、否定はせぬ」
ぐいっと手を持ち上げられ、今度は手首の内側にくちづけられた。
皮膚が薄くて敏感な場所だから。思わず声をあげそうになって、螢は空いた右手で自分の口を押えた。
もしかしたらこの姿を見える人がいるかもしれない。声が聞こえる人がいるかもしれない。
そう考えただけで、誰かが人だかりから振り返るのではないかと、心配になる。
「そうだな、螢。私も誰かに見られはせぬかと、心配だ」
「それなら、もうキスはやめて。手は繋いでおくから」
「螢はキスしてほしくないのか? 私にくちづけられるのが嫌なのか?」
空蝉は真顔だけれども、その瞳に光が宿っているのがわかる。
花火を映した光ではなく、面白がっているのを隠そうとしている光だ。
「い、嫌じゃないけど」
「なら、問題ないな」
「花火をちゃんと見ていないと、京香さんに感想を聞かれたときに困るって。どんな花火が覚えておかないと」
「あいつ、そんな律儀な奴か?」
不満そうに空蝉が首をかしげる。
うん、有り得ないよね。螢自身も、自分で言ってて嘘っぽいなと思った。
「京香のことが気になるのであれば、螢が花火を見ていればいい」
ようやくキスをやめてくれるのかと安堵したのも束の間、螢の手を下した空蝉は、あろうことか彼女の耳に唇を触れた。
「やっ、なに?」
「こら、こちらを向くな。そなたは花火を観察しなければならぬのだろう」
「なんで夏休みの宿題みたいに……やだ、やめて。痛いっ」
耳たぶを軽く噛まれて、螢は空蝉の胸元にしがみついた。
「ほら、声を上げれば誰かが見るぞ。何事もないかのように、振る舞えぬのか?」
もし二人の姿が見える人がいたとしても、空蝉が螢に内緒話をしているようにしか思えないだろう。
そう、螢が声さえ上げなければ。
(そんなの、無理)
空蝉が与えてくる甘さと痛さ。それを何とか堪えようと、螢は下唇を噛んだ。
見た目はガラスの方が清涼感があるのだが、音が澄んでいるのは鋳鉄の風鈴だ。
りんりん、と心まで透明になるような素敵な音色だ。
瞼を閉じている螢の手を、ふいに空蝉が握りしめてきた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。さぁ、花火大会とやらに出向くぞ」
真新しい下駄を履いた螢は、うなずいた。
履き慣らすだけの時間がなくて、足の指の間の鼻緒が硬い。
(でも、花火を見ている間は、鼻緒に当たらないように足をずらしていればいいわよね)
木々の茂った道を、手を繋いで空蝉と螢は下っていった。
久しぶりの町は、とにかく暑かった。アスファルトに覆われた場所が増えているせいだろうか。緑の多い山よりも、ずいぶんと気温が高く感じる。
「花火大会は、河川敷であるらしいわ」
京香に教えてもらった場所に向かうと、すでにたくさんの人が河川敷に座っていた。
「あんな混んだ場所に入っていくものではないな」
「そうね」
どうやら花火は対岸から上げられるようだ。辺りを見回すと、車道を挟んだ場所に石垣がある。
そこに座れば人混みに入らずに済みそうだ。
長い夕暮れのあと、辺りは宵の藍色に包まれた。
ひゅるると音がして、花火大会の始まりを告げる最初の一発が上がる。
続いて、華やかな花火が夜空を彩った。
わりと近い場所から上げられているせいか、花火の音は少し遅れて、しかもお腹に振動となって響いてくる。
「花火とはうるさいものなのだな。大砲かと思ったぞ」
「そうね」と言えるほど、螢は長く生きていないが。それは幕末の頃の戦なのか、それとも戦国時代なのか、と悩んでしまう。
周囲が闇に包まれ、空から煌めく金色の火の粉が散ってくる。
空蝉はなおも螢の手を離さない。もう、ずっとだ。
「怖いの?」
「ああ、怖いな」
「えーと、大砲じゃないから大丈夫よ」
「そなた、何を馬鹿なことを申すのだ」
心底、呆れた様子の空蝉の顔が、大輪の花火に照らし出される。
赤い花火を映した彼の瞳が、かつての緋色に見えて。螢は、どきっとした。
「馬鹿って何よ」と言い返しそうになった言葉を、そのまま飲み込む。
空蝉は螢の手を握ったままで、上にあげた。そして手の甲にキスをする。
「ずっと手を繋いでいてくれ。螢がこの人ごみに紛れて、どこかへ行ってしまわないか、心配なのだ」
「うん」
螢はうなずいた。
空蝉のキスはやまない。五本の指、それぞれの指先に。そして爪に。指と指の間にも。
優しく唇で撫でられるから、もう花火に集中できない。
指や手に与えられる、とろけるような感触と、腹部に響く花火の音。
どうにかなってしまいそうだ。
「花火は見なくていいのか?」
「……意地悪」
「うむ。そうだな、否定はせぬ」
ぐいっと手を持ち上げられ、今度は手首の内側にくちづけられた。
皮膚が薄くて敏感な場所だから。思わず声をあげそうになって、螢は空いた右手で自分の口を押えた。
もしかしたらこの姿を見える人がいるかもしれない。声が聞こえる人がいるかもしれない。
そう考えただけで、誰かが人だかりから振り返るのではないかと、心配になる。
「そうだな、螢。私も誰かに見られはせぬかと、心配だ」
「それなら、もうキスはやめて。手は繋いでおくから」
「螢はキスしてほしくないのか? 私にくちづけられるのが嫌なのか?」
空蝉は真顔だけれども、その瞳に光が宿っているのがわかる。
花火を映した光ではなく、面白がっているのを隠そうとしている光だ。
「い、嫌じゃないけど」
「なら、問題ないな」
「花火をちゃんと見ていないと、京香さんに感想を聞かれたときに困るって。どんな花火が覚えておかないと」
「あいつ、そんな律儀な奴か?」
不満そうに空蝉が首をかしげる。
うん、有り得ないよね。螢自身も、自分で言ってて嘘っぽいなと思った。
「京香のことが気になるのであれば、螢が花火を見ていればいい」
ようやくキスをやめてくれるのかと安堵したのも束の間、螢の手を下した空蝉は、あろうことか彼女の耳に唇を触れた。
「やっ、なに?」
「こら、こちらを向くな。そなたは花火を観察しなければならぬのだろう」
「なんで夏休みの宿題みたいに……やだ、やめて。痛いっ」
耳たぶを軽く噛まれて、螢は空蝉の胸元にしがみついた。
「ほら、声を上げれば誰かが見るぞ。何事もないかのように、振る舞えぬのか?」
もし二人の姿が見える人がいたとしても、空蝉が螢に内緒話をしているようにしか思えないだろう。
そう、螢が声さえ上げなければ。
(そんなの、無理)
空蝉が与えてくる甘さと痛さ。それを何とか堪えようと、螢は下唇を噛んだ。
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