生贄の花嫁は、孤独な悪しき神に愛される

真風月花

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番外編

3、着付け

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 もう人ではなくなったのに、いつまでも人としての感覚が抜けない螢を見ていると、空蝉はつい意地悪をしてしまう。

 永い世で、唯一自分を救い認めてくれた螢。その彼女に嫌われでもしたら、本当に困ると思うのだが。
 頬を染めて、今も照れる姿が愛らしくて。つい、からかってしまうのだ。

「背中だけよ。背中だけでいいからね」
「無論だ」

 着物の袖をたすき掛けしながら、空蝉はうなずいた。

「絶対よ」
「私が嘘をついたことがあるか? 螢にまで信じられなくなったら、私は何をよすがに生きていけばいいのだ?」
「うっ」

 華奢な背を見せて座ったまま、螢は言葉を詰まらせた。

 困っているな。だが、いいのだ。
 螢は私の伴侶。他の人間には許されないことも、私であるだけで認められるのだから。

 桶に入った水を、螢の背にかける。夏だから冷たくはないだろう。

 石鹸を泡立てて、丹念に螢の背中を洗う。うなじの辺りから腰にかけてを泡で撫でてやると、螢がびくっと身をすくませた。

「螢は背筋が弱いな」
「よ、弱くなんて……」
「とくに、腰に近い部分だ」

 たっぷりの泡で、指摘した箇所を撫でる。突然、螢が甘い声を上げた。

「え?」

 空蝉は、螢の濡れた髪ごと後頭部に手を当てた。そして彼女の唇を塞ぐ。
 時間をかけてくちづけてから、唇を離す。

「なんで?」
「そんな色気のある声を、他の誰かに聞かれては困る」
「そういえば猪狩りで、人が山に入ってるって」

 毛先からしずくを垂らしながら、螢は左右に目をやる。
 さっさと水浴びを終えて、戻った方がいいだろうと考えているに違いない。

 だから安心させてやろう。

「案ずるな、螢。猪狩りは、今日ではなく明後日だ」
「でも、今日って言ったわ」
「ああ、あれは嘘だ」
 
 螢が顔を真っ赤にして、睨みつけてくる。ああ、色が見えるというのはいいものだ。
 と思ったら、頭から水をかぶせられた。

「突然、何をするのだ」
「嘘はつかないって言ったわ」

 螢の指摘に、髪から滴る水を手で払いながら、空蝉は優雅に微笑んだ。

「考えてもみろ、螢。千年以上も生きてきて、どうやって嘘もつかずにいられるのだ? この世は厳しいのだぞ。自己保身のためにつく嘘は、方便というのだ。覚えておきなさい」
「そうなの?」

(なぜそこで、私の言い分を信じるのだ。螢、そなたはちょろいぞ)

 だが、そんなところが愛らしくもある。夫である自分が彼女を翻弄するのは役得だが、他の奴にそんな権利は絶対に与えてやらない。
 
◇◇◇

 疲れた。
 螢は水浴びを終えて、住居にしている坑道跡で、ぐったりと長椅子に横たわっていた。

 どうして体を洗われるだけで、あんなにも疲労するのだろう。自分で洗うと主張する螢と、洗ってやると言って譲らない空蝉の間で、毎回押し問答になるからだろうか。

 そして、今日も負けてしまった。

 背中だけだと念押ししたのに、空蝉は約束を守ってくれない。

 毅然とした態度を貫きたいと思っているのに、もしかして自分は空蝉に甘いというか、弱いのだろうか。

「さぁ、螢。着付けをしてやろう。服を脱ぎなさい」

 鼻歌交じりで、うきうきと空蝉が命じてくる。
 けれど螢は知っている。
 見た目は怜悧な彼が、とてつもなく不器用であることを。

 絞りの浴衣は布地が薄く柔らかいので、袖に手を通すと、肌にすぐ馴染んだ。
 
「帯は自分で結ぶから」
「任せておきなさい。説明書もある」

 紙袋に入っていた手書きのメモを、空蝉は指で挟んでひらひらとさせた。
 京香の文字とは明らかに違う、達筆で帯の結び方が書いてある。おそらくは武東家の使用人の文字だろう。

 そして三十分後。
 頭を下げながら、たたんだ帯を螢に返却する空蝉の姿があった。

 螢は、手軽に結ぶことのできる文庫結びに決めた。

 長い帯を肩にかけながら、お腹の部分できゅっとリボン状に結んだ羽を、背後に回す。その様子をまるで手品でも見るかのように、空蝉は瞬きもせずに凝視していた。

「螢はすごいな。魔法を使っているようだ」
「慣れれば、簡単よ」

「私には無理だ。百年かけても結べる気がしない」
「貝の口結びにしても、浪人結びにしても、男帯は簡単だものね」
「名前は知らんが、要は解けなければいいだけだからな」

「うん、そうね」と相槌をうっていいものかどうか、螢は悩んだ。

 疫神として恐れられていた彼が、帯がほどけたでは、あまりにも格好がつかないのではないだろうか。

「あ、でもその方が怖がられなくていいのかも。間抜けだけど」
「何のことを言っているのかは分からんが、私の悪口であることは理解できるぞ」

 長い指が、螢の頬をつねった。

「痛いって」
「当り前だ、痛くしているのだ」

 文句を言うと、今度は両頬をつねられた。まったくもって意地の悪い神さまだ。
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