52 / 56
番外編
2、翻弄されている
しおりを挟む
京香が用意してくれた浴衣は、絞り染めの高価そうなものだった。浴衣全体に絞りが入り、その中に流水と大輪の花の模様があしらってある。
灰色と水色を基調とした、静かで品の良い浴衣だ。
明らかに京香が選びそうな布地ではない。
「秋杜兄さんが見立ててくれたのね」
「あいつにはもう螢は見えないが。今でも詫びたいという気持ちがあるのだろうな」
空蝉の言葉に、螢はうなずいた。
絞りの布地は柔らかく、すぐに肌になじむだろう。
もう互いに声を交わすことはない秋杜のことを考えた時、同時に春見のことも思い出した。
肉のひとかけらも残さずに消滅してしまった彼の魂は、どうなってしまったのだろう。
「さて、花火に行くのであれば、そろそろ準備をせねばならぬな」
空蝉の声に、螢は我に返った。
「自分で着付けをするから。空蝉は見ないでね」
「は? いきなり着替えとか、そなた愚かなことを申すものではない」
突然、螢を「愚か」と言い放った空蝉は、浴衣とタオルを取り上げると、螢を抱え上げた。
坑道跡の家からそのまま外に出て、近くの小川へと連れていく。
水浴びをするための歩き慣れたいつもの道だ。午後の陽射しは強く、川面は水晶の粒をばらまいたかのように、きらきらと煌めいている。
「水浴びなら自分でできるから」
「まぁまぁ、そう頑なになるな」
「そう言って、すぐに人のお風呂を眺めてるじゃない」
横抱きにされた状態で足をバタバタさせても、空蝉にはさほどダメージを与えられない。
「夫婦になったというのに、いつまで照れておるのだ。それまでの時間も含めれば、とうに十年を過ぎておるぞ。そなたはいつまでも初心なのだな」
はっはっは、とわざとらしく笑いながら、空蝉は螢を地面に降ろした。
まぁ新しい浴衣を着るのならば、ちゃんと水浴びをすべきだろうと納得した螢は「絶対に見ないでね。立たないでよ」と念押ししながら、衝立を広げた。
京香のように螢の姿が見える者もいるので、湯浴みの時は用心して衝立を立てることにしている。
「まったく恥ずかしがり屋なのだな、螢は。そんなことではいかんぞ」
衝立の向こうから小言が聞こえるが、耳を貸してはダメだ。
セーラー服の上を脱いで、衝立にかけていく。
「ああ、背中が洗えなかったら困るよな。せっかくの美しい浴衣なのにな」
そ、そうかな。
いや、ダメダメ。螢はスカートを脱ぎながら首を振る。
「螢。石鹸はあるか?」
「あるから、平気」
「そうだ。以前、京香が『しゃんぷう』と『とりぃとめんと』というものをくれたぞ。あれで髪を洗うといいらしいな。せっかくだから使えばどうだ?」
確かに京香が「これ、美容院のヤツだから。いいわよー」と言って、プレゼントしてくれたけど。
「今日はいいわ。もう脱いじゃってるから、取りに戻るわけにもいかないし」
「ならば、私が行ってこよう」
空蝉が足を動かしたのか、衝立越しに衣擦れの音が聞こえる。
「そうそう。今日は猪狩りで、猟師がこの山に入っているそうだ。ま、見える者がいなければいいな」
「えっ、ちょっと待って。一人にしないで」
螢は慌てて踵を返し、空蝉の着物の袖を掴んだ。
「『いやん』だぞ。螢」
「え? きゃあああー!」
頭が沸騰しそうになった。螢の顔は真っ赤で、首まで朱に染まっている。
素っ裸の螢が、立ち去ろうとする空蝉を必死に引き留めていた。
恥ずかしさで死ねる。もう死なない身体だけど。
両手で顔を覆って、草の上にしゃがみこむ螢の頭を、大きな手が優しく撫でる。
「な? 最初から私に頼めばいいのだ。無理をするものではない」
悪魔は優しい言葉と声音で近づいてくると聞いたことがある。
空蝉は、きっと今も螢を翻弄する悪しき神なのだ。
灰色と水色を基調とした、静かで品の良い浴衣だ。
明らかに京香が選びそうな布地ではない。
「秋杜兄さんが見立ててくれたのね」
「あいつにはもう螢は見えないが。今でも詫びたいという気持ちがあるのだろうな」
空蝉の言葉に、螢はうなずいた。
絞りの布地は柔らかく、すぐに肌になじむだろう。
もう互いに声を交わすことはない秋杜のことを考えた時、同時に春見のことも思い出した。
肉のひとかけらも残さずに消滅してしまった彼の魂は、どうなってしまったのだろう。
「さて、花火に行くのであれば、そろそろ準備をせねばならぬな」
空蝉の声に、螢は我に返った。
「自分で着付けをするから。空蝉は見ないでね」
「は? いきなり着替えとか、そなた愚かなことを申すものではない」
突然、螢を「愚か」と言い放った空蝉は、浴衣とタオルを取り上げると、螢を抱え上げた。
坑道跡の家からそのまま外に出て、近くの小川へと連れていく。
水浴びをするための歩き慣れたいつもの道だ。午後の陽射しは強く、川面は水晶の粒をばらまいたかのように、きらきらと煌めいている。
「水浴びなら自分でできるから」
「まぁまぁ、そう頑なになるな」
「そう言って、すぐに人のお風呂を眺めてるじゃない」
横抱きにされた状態で足をバタバタさせても、空蝉にはさほどダメージを与えられない。
「夫婦になったというのに、いつまで照れておるのだ。それまでの時間も含めれば、とうに十年を過ぎておるぞ。そなたはいつまでも初心なのだな」
はっはっは、とわざとらしく笑いながら、空蝉は螢を地面に降ろした。
まぁ新しい浴衣を着るのならば、ちゃんと水浴びをすべきだろうと納得した螢は「絶対に見ないでね。立たないでよ」と念押ししながら、衝立を広げた。
京香のように螢の姿が見える者もいるので、湯浴みの時は用心して衝立を立てることにしている。
「まったく恥ずかしがり屋なのだな、螢は。そんなことではいかんぞ」
衝立の向こうから小言が聞こえるが、耳を貸してはダメだ。
セーラー服の上を脱いで、衝立にかけていく。
「ああ、背中が洗えなかったら困るよな。せっかくの美しい浴衣なのにな」
そ、そうかな。
いや、ダメダメ。螢はスカートを脱ぎながら首を振る。
「螢。石鹸はあるか?」
「あるから、平気」
「そうだ。以前、京香が『しゃんぷう』と『とりぃとめんと』というものをくれたぞ。あれで髪を洗うといいらしいな。せっかくだから使えばどうだ?」
確かに京香が「これ、美容院のヤツだから。いいわよー」と言って、プレゼントしてくれたけど。
「今日はいいわ。もう脱いじゃってるから、取りに戻るわけにもいかないし」
「ならば、私が行ってこよう」
空蝉が足を動かしたのか、衝立越しに衣擦れの音が聞こえる。
「そうそう。今日は猪狩りで、猟師がこの山に入っているそうだ。ま、見える者がいなければいいな」
「えっ、ちょっと待って。一人にしないで」
螢は慌てて踵を返し、空蝉の着物の袖を掴んだ。
「『いやん』だぞ。螢」
「え? きゃあああー!」
頭が沸騰しそうになった。螢の顔は真っ赤で、首まで朱に染まっている。
素っ裸の螢が、立ち去ろうとする空蝉を必死に引き留めていた。
恥ずかしさで死ねる。もう死なない身体だけど。
両手で顔を覆って、草の上にしゃがみこむ螢の頭を、大きな手が優しく撫でる。
「な? 最初から私に頼めばいいのだ。無理をするものではない」
悪魔は優しい言葉と声音で近づいてくると聞いたことがある。
空蝉は、きっと今も螢を翻弄する悪しき神なのだ。
0
お気に入りに追加
300
あなたにおすすめの小説

人生の全てを捨てた王太子妃
八つ刻
恋愛
突然王太子妃になれと告げられてから三年あまりが過ぎた。
傍目からは“幸せな王太子妃”に見える私。
だけど本当は・・・
受け入れているけど、受け入れられない王太子妃と彼女を取り巻く人々の話。
※※※幸せな話とは言い難いです※※※
タグをよく見て読んでください。ハッピーエンドが好みの方(一方通行の愛が駄目な方も)はブラウザバックをお勧めします。
※本編六話+番外編六話の全十二話。
※番外編の王太子視点はヤンデレ注意報が発令されています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ヤンデレ旦那さまに溺愛されてるけど思い出せない
斧名田マニマニ
恋愛
待って待って、どういうこと。
襲い掛かってきた超絶美形が、これから僕たち新婚初夜だよとかいうけれど、全く覚えてない……!
この人本当に旦那さま?
って疑ってたら、なんか病みはじめちゃった……!


心を病んだ魔術師さまに執着されてしまった
あーもんど
恋愛
“稀代の天才”と持て囃される魔術師さまの窮地を救ったことで、気に入られてしまった主人公グレイス。
本人は大して気にしていないものの、魔術師さまの言動は常軌を逸していて……?
例えば、子供のようにベッタリ後を付いてきたり……
異性との距離感やボディタッチについて、制限してきたり……
名前で呼んでほしい、と懇願してきたり……
とにかく、グレイスを独り占めしたくて堪らない様子。
さすがのグレイスも、仕事や生活に支障をきたすような要求は断ろうとするが……
「僕のこと、嫌い……?」
「そいつらの方がいいの……?」
「僕は君が居ないと、もう生きていけないのに……」
と、泣き縋られて結局承諾してしまう。
まだ魔術師さまを窮地に追いやったあの事件から日も浅く、かなり情緒不安定だったため。
「────私が魔術師さまをお支えしなければ」
と、グレイスはかなり気負っていた。
────これはメンタルよわよわなエリート魔術師さまを、主人公がひたすらヨシヨシするお話である。
*小説家になろう様にて、先行公開中*

婚約者から婚約破棄をされて喜んだのに、どうも様子がおかしい
棗
恋愛
婚約者には初恋の人がいる。
王太子リエトの婚約者ベルティーナ=アンナローロ公爵令嬢は、呼び出された先で婚約破棄を告げられた。婚約者の隣には、家族や婚約者が常に可愛いと口にする従妹がいて。次の婚約者は従妹になると。
待ちに待った婚約破棄を喜んでいると思われる訳にもいかず、冷静に、でも笑顔は忘れずに二人の幸せを願ってあっさりと従者と部屋を出た。
婚約破棄をされた件で父に勘当されるか、何処かの貴族の後妻にされるか待っていても一向に婚約破棄の話をされない。また、婚約破棄をしたのに何故か王太子から呼び出しの声が掛かる。
従者を連れてさっさと家を出たいべルティーナと従者のせいで拗らせまくったリエトの話。
※なろうさんにも公開しています。
※短編→長編に変更しました(2023.7.19)

【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜
雪井しい
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。
【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】
☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆
※ベリーズカフェでも掲載中
※推敲、校正前のものです。ご注意下さい
溺愛彼氏は消防士!?
すずなり。
恋愛
彼氏から突然言われた言葉。
「別れよう。」
その言葉はちゃんと受け取ったけど、飲み込むことができない私は友達を呼び出してやけ酒を飲んだ。
飲み過ぎた帰り、イケメン消防士さんに助けられて・・・新しい恋が始まっていく。
「男ならキスの先をは期待させないとな。」
「俺とこの先・・・してみない?」
「もっと・・・甘い声を聞かせて・・?」
私の身は持つの!?
※お話は全て想像の世界になります。現実世界と何ら関係はありません。
※コメントや乾燥を受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる