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七章

4、他にはいない

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 空蝉は螢の体を抱き上げた。どこにそんな力があるのか、足首から伸びる縄を引きちぎる。

 螢は重い腕を上げようとするけれど、上手くいかない。
 彼女の意思をくみ取ったのか、空蝉は柔らかく微笑んだ。

「抱きしめてほしいのか?」

 恥ずかしさに、螢はただうなずいた。

「しばらく離れていた間に、たいそう甘えるようになったものだ」

 以前の螢なら、反論をしていただろう。けれど、今は誰が一番大事で、愛おしいのかを自覚したから。もう抗うことはない。
 
 螢の手を取って、空蝉が自分の首にまわさせた。
 油断すると、すぐにだらりと手が下がってしまうので、空蝉は何度も螢を抱えなおす。

「どうして、ここに? どうやって」

 少しずつしゃべるのが、やっとだ。空蝉は、そんな螢の言葉を辛抱強く待っている。

「その女が、どこかで疫神と封花祭に関する書でも手に入れたらしい。古い文献を手に私の封印を解き、秋杜へ憑依させた。私は螢が、女は秋杜が欲しい。利害の一致だ」
「でも、もういいって……」

 空蝉は、封印されたままでいることを望んでいた。
 だから、再び会えるなんて、助けに来てくれるなんて考えもしなかった。

「まさか螢がこんな目に遭っているとは、想像もしなかったからな。知ったうえで、放っておけるわけがなかろう」
「空蝉が憑いたら……枯れるんでしょう?」
「……そうだな。枯れた箇所はある」

 空蝉は、秋杜の足に目を向けた。
 さっき足を引きずっていたのは、薬のせいだけではないのだろう。

「ただ黒羽の血筋は、他の者より私に対して免疫があるようだ。だからこそ、封花祭を取り仕切っているのだろうな」
「わたしも黒羽のはしくれだから、枯れないの?」

「それもあるが。螢が私を選び、私が螢を選んだ。だからだろう。螢以外に私を選んだ者などおらぬから、正確なところは分からぬが」

 空蝉の腕の中から見下ろせば、力なく伏せる秋杜に京香がすがりついている。

 さっきまでの人を嘲ったような顔ではなく、その表情は真剣だ。
 秋杜を守りたい、取り戻したいと、必死で願っているのが分かる。
 
 京香は恋人と夜遊びしていたのではない。きっと父の研究室で文献を漁って調べ、紺田村の結界の小川で封印を解いていたのだろう。
 傷だらけになりながらも、秋杜を救いたくて。
 それはまるで、かつての春見のようだった。

 床に落ちた京香のバッグから、和綴わとじの古い本が見えていた。
 黄ばんだ表紙には『えきえきの神』と記されている。

 気を失った秋杜の頭を膝に乗せ、京香は春見を睨んでいる。

「京香さん、あなたは兄さんに捨てられたのに。それでもまだ兄さんがいいと言うのですか」
「秋杜さんは私を嫌ったけれど、顔も見たくないと言ったけれど。少なくとも私に対して、嫌うだけの関心はあったのよ。でもあなたは好きにも嫌いにもならない。私に対して無関心だわ。ずっと」

「まさか、叱ってくれる人がいいなんて、思春期みたいな考えじゃないですよね」

 淡々と述べる春見に対して、京香はかっと頭に血が上ったのか、もう片方のハイヒールを投げつけた。

「嫉妬してほしかったのよ! 悪い?」
「まぁ、悪いというか。迷惑ですよね」

 京香と春見は向かい合っていても、互いに心は別な場所にある。
 夫婦という形をとっていても、この二人は平行線のままなのだろう。

「螢は返してもらう。我が妻となる人だからな」

 螢の頭を撫でながら、空蝉が言った。

「無駄ですよ。半日経っても薬は切れていない。心臓に負担がかかり、いずれ螢さんは衰弱して……そのまま」

 春見は、拳を握りしめた。京香を殴りたいのだろう。冷ややかな瞳で、兄を抱きしめる妻を見下ろしている。

「方法がないわけではないさ」

 ふっと微笑むと、空蝉は離れを出ていった。
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