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四章
4、花の気持ち
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「螢。もしかして、あの日のことを思いだしているのか?」
空蝉の言ってることは、すぐには理解できなかった。
「螢が母親に捨てられた日だ。秋杜といったか、あの愚か者が取り引きをもちかけていたな」
「私を空蝉の依代にするってこと?」
「そうだ。もとより螢は私のものであるのにな。だが、あまりにもそなたが不憫であったから、幼い春見から身を引いてやったのだ。あいつを死なせたくはなかったのだろう?」
緋色の目を細めて、空蝉がのぞき込んでくる。
「どうして、わたしが空蝉のものと決まっていたの?」
その問いに答えてはくれなかった。だから螢は質問を変えた。
「私においしさがなくなったから。捨てられたのかと思った」
「確かにまずいな。だが捨てるほどではない」
「次の依代を見つければいいじゃない。以前はそうしていたんじゃないの?」
「私を乗り移らせるほどに酔狂なのは、螢だけだ。これまでの依代は名ばかりだった。私を拒絶したというのに、首を落とされて……まぁ、憐れな童や娘ばかりだ」
ぞくりとした。
疫神送りに依代として選ばれたなら、その先はもうないのだ。
空蝉に憑かれれば退治を名目に命を奪われ、失敗すれば責任をとらされるのだろう。
「分からぬのだ」
空蝉は瞼を伏せた。
「そなたが春見を思慕したままの方が、極上の蜜を吸える。だがその甘い蜜を飲みこむたびに、胸の奥が痛むのだ。まるで引き裂かれたようにな」
「どうして?」
「それが分かれば苦労などせぬ。今のそなたはとてつもなく、まずい。憔悴しきっている様も、見ていてつらい。なのに不思議と、今度は胸の奥が跳ねるのだ。螢、この気持ちをなんというか知っているか?」
冷えた腕に閉じ込められたまま、螢は空蝉の顔を見上げた。
十年も一緒にいて、困惑した空蝉の顔は初めて見る。
空蝉は羽織の袂に手を突っ込んだ。中から何かを取りだし、螢の前にさしだす。
手には、しおれてしまった花が一輪、握られていた。
「躑躅ね」
「そういう名なのか」
「薄紅の愛らしい花よ」
「薄紅? ああ、この花には色があるのだな」
「何にでもあるわ」
「……なるほど。遠い昔のことだから、色など覚えておらぬ。私は花毬の作り方など知らぬしな」
空蝉は寂しそうに呟いた。
「けれど急に螢に花をやりたくなった。だから摘みに行った……のだがな」
「わたしを慰めるために、花を?」
悪しき神に、傷ついた心を癒そうとする気持ちがあるなんて。
螢は空蝉を見つめた。
「嗤ってもいいぞ。自分が花など摘めぬことを失念していた」
「嗤ったりしないわ」
「そうか……螢は優しいな」
ひんやりとした大きな手が、螢の頬に触れる。
「私が触れても枯れぬのは、螢だけだ。螢には、私が存在してもいいと許されている気がする」
不思議だと思った。
春見のことで、投げやりになって。希望もなくなったと嘆いていたのに。
しおれた躑躅だけで、こんなにも嬉しくなるなんて。
(ううん。空蝉が、わたしのために摘んでくれたから)
「いつか、そなたに野の花を集めた花束をあげたいものだ」
「素敵ね」
「信じておらぬな。決して不可能というわけでもないのだぞ」
空蝉は口をとがらせた。
「疫は、益に転ずる。条件が揃えば、この身がまとう穢れが浄化されることもあるのだからな」
「条件って?」
「それが分かれば、苦労はせぬ」
つまり、なにも手掛かりがないということだ。
桜の花はもう終わり、春が深まろうとしている。
次の季節に移るために。
「食べてもいいよ」
「螢?」
「あのね、躑躅は蜜が甘くておいしいの。その花をもらったから、わたしもきっとおいしくなってる」
螢にも、この気持ちを何というのかは分からない。
けれど一番近くに、一番長くいる空蝉のことを、初めてとても大切だと思うようになった。
空蝉は首をかしげたが「確かに甘いにおいがする」と言った。
螢は背伸びをした。
これまでは投げやりな気持ちで、彼に精気を与えていたけれど。
今夜は、初めて自ら望んだ。彼に食べられることを。
さっき逃げた光魚が、恐る恐る戻ってきたのだろう。崖のむこうで、おぼろな光が浮遊している。
空蝉の両手が、螢の頬に触れる。
螢の顔にかかる髪を手で払い、耳たぶから首筋を指で撫でられる。
「少し髪が伸びたようだな」
空蝉は螢と唇を重ねた。
「また春見のことを考えているのか?」
「ううん。考えてない」
「なのに、なぜ甘いのだ?」
再び唇が寄せられ、螢は自分から口を軽く開いた。長く深いくちづけに、体の芯が痺れる心地がする。
螢は立っていられなくなり、草の中に力なく座りこんだ。
「……そんなに、お腹が……空いてたの?」
「いいや。ただ、こうしていたいだけだ。螢は、どうなのだ?」
「わたしも……」
乱れる息で、言葉が途切れ途切れになる。
螢が呼吸をしたと思うと、また空蝉に唇をふさがれる。
きっと虫に蜜を吸われる花というのは、こんな気持ちなのだろう。
空蝉の言ってることは、すぐには理解できなかった。
「螢が母親に捨てられた日だ。秋杜といったか、あの愚か者が取り引きをもちかけていたな」
「私を空蝉の依代にするってこと?」
「そうだ。もとより螢は私のものであるのにな。だが、あまりにもそなたが不憫であったから、幼い春見から身を引いてやったのだ。あいつを死なせたくはなかったのだろう?」
緋色の目を細めて、空蝉がのぞき込んでくる。
「どうして、わたしが空蝉のものと決まっていたの?」
その問いに答えてはくれなかった。だから螢は質問を変えた。
「私においしさがなくなったから。捨てられたのかと思った」
「確かにまずいな。だが捨てるほどではない」
「次の依代を見つければいいじゃない。以前はそうしていたんじゃないの?」
「私を乗り移らせるほどに酔狂なのは、螢だけだ。これまでの依代は名ばかりだった。私を拒絶したというのに、首を落とされて……まぁ、憐れな童や娘ばかりだ」
ぞくりとした。
疫神送りに依代として選ばれたなら、その先はもうないのだ。
空蝉に憑かれれば退治を名目に命を奪われ、失敗すれば責任をとらされるのだろう。
「分からぬのだ」
空蝉は瞼を伏せた。
「そなたが春見を思慕したままの方が、極上の蜜を吸える。だがその甘い蜜を飲みこむたびに、胸の奥が痛むのだ。まるで引き裂かれたようにな」
「どうして?」
「それが分かれば苦労などせぬ。今のそなたはとてつもなく、まずい。憔悴しきっている様も、見ていてつらい。なのに不思議と、今度は胸の奥が跳ねるのだ。螢、この気持ちをなんというか知っているか?」
冷えた腕に閉じ込められたまま、螢は空蝉の顔を見上げた。
十年も一緒にいて、困惑した空蝉の顔は初めて見る。
空蝉は羽織の袂に手を突っ込んだ。中から何かを取りだし、螢の前にさしだす。
手には、しおれてしまった花が一輪、握られていた。
「躑躅ね」
「そういう名なのか」
「薄紅の愛らしい花よ」
「薄紅? ああ、この花には色があるのだな」
「何にでもあるわ」
「……なるほど。遠い昔のことだから、色など覚えておらぬ。私は花毬の作り方など知らぬしな」
空蝉は寂しそうに呟いた。
「けれど急に螢に花をやりたくなった。だから摘みに行った……のだがな」
「わたしを慰めるために、花を?」
悪しき神に、傷ついた心を癒そうとする気持ちがあるなんて。
螢は空蝉を見つめた。
「嗤ってもいいぞ。自分が花など摘めぬことを失念していた」
「嗤ったりしないわ」
「そうか……螢は優しいな」
ひんやりとした大きな手が、螢の頬に触れる。
「私が触れても枯れぬのは、螢だけだ。螢には、私が存在してもいいと許されている気がする」
不思議だと思った。
春見のことで、投げやりになって。希望もなくなったと嘆いていたのに。
しおれた躑躅だけで、こんなにも嬉しくなるなんて。
(ううん。空蝉が、わたしのために摘んでくれたから)
「いつか、そなたに野の花を集めた花束をあげたいものだ」
「素敵ね」
「信じておらぬな。決して不可能というわけでもないのだぞ」
空蝉は口をとがらせた。
「疫は、益に転ずる。条件が揃えば、この身がまとう穢れが浄化されることもあるのだからな」
「条件って?」
「それが分かれば、苦労はせぬ」
つまり、なにも手掛かりがないということだ。
桜の花はもう終わり、春が深まろうとしている。
次の季節に移るために。
「食べてもいいよ」
「螢?」
「あのね、躑躅は蜜が甘くておいしいの。その花をもらったから、わたしもきっとおいしくなってる」
螢にも、この気持ちを何というのかは分からない。
けれど一番近くに、一番長くいる空蝉のことを、初めてとても大切だと思うようになった。
空蝉は首をかしげたが「確かに甘いにおいがする」と言った。
螢は背伸びをした。
これまでは投げやりな気持ちで、彼に精気を与えていたけれど。
今夜は、初めて自ら望んだ。彼に食べられることを。
さっき逃げた光魚が、恐る恐る戻ってきたのだろう。崖のむこうで、おぼろな光が浮遊している。
空蝉の両手が、螢の頬に触れる。
螢の顔にかかる髪を手で払い、耳たぶから首筋を指で撫でられる。
「少し髪が伸びたようだな」
空蝉は螢と唇を重ねた。
「また春見のことを考えているのか?」
「ううん。考えてない」
「なのに、なぜ甘いのだ?」
再び唇が寄せられ、螢は自分から口を軽く開いた。長く深いくちづけに、体の芯が痺れる心地がする。
螢は立っていられなくなり、草の中に力なく座りこんだ。
「……そんなに、お腹が……空いてたの?」
「いいや。ただ、こうしていたいだけだ。螢は、どうなのだ?」
「わたしも……」
乱れる息で、言葉が途切れ途切れになる。
螢が呼吸をしたと思うと、また空蝉に唇をふさがれる。
きっと虫に蜜を吸われる花というのは、こんな気持ちなのだろう。
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