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三章
4、分からない
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れんげ草が咲けば、螢は春見に会いたくなる。この十年、ずっとそうだった。
けれど、春見を慕う気持ちは空蝉を傷つける。
この想いは恋ではないと言い続けても、空蝉は信じない。
螢の甘い蜜を吸うたびに、彼の胸には苦さが広がるのだろう。
べったりと残る苦みを消すために、螢を煽り、また空蝉自身が傷ついていく。
あまりにも不毛だ。
食事をしたいわけでもないだろうに、空蝉は螢の首に唇を這わせた。
まとわりつく感触。寒気がするわけではない。
ただ、丹念に唇が押し当てられるから、ぞくぞくするのを抑えられない。
「どうした?」
「なんでもない」
どうして食べる行為が、くちづけと同じなのだろう。
螢は、空蝉の羽織に指を立てた。
「どうしてほしい?」
「……なにも」
「そうか」
そのまま空蝉は螢の肩に顔を埋めた。
「そなたはいい。私が触れても枯れぬからな」
「わたしは、植物じゃないのよ」
「動物でも人でも同じだ。誰も私を受け入れぬ。無理強いされ脅されて、形としては憑依を認めても、心が私を拒絶する。螢、なぜそなたは私を容認した?」
「守りたかったのよ」
「……それは、あいつのことを、か」
ああ、何も伝わらない。
空蝉の髪を撫でながら、螢は彼の耳に口を寄せた。
「ええ、そうよ。春見を守りたかったの」
ねぇ、こう言えば満足なんでしょう?
本当は空蝉を守りたいのに。あなたはそれすらも認めてくれない。
もっと、もっと傷つきたがっている。
ふっと小さく空蝉が笑った。
「二言めには春見だな。そなたの中では、奴はまだ清らかな少年のままなのだろうな」
「そうね。春見の優しさは変わらないわ」
「この世に不変は、ありえない」
顔を埋めたままの空蝉の声は、くぐもって聞こえる。
「清らかさは潔癖さ、優しさは弱さにつながる。螢、なぜそなたは十年もの間、この山から出ていこうとしなかった?」
「……それは」
今度こそ、あなたのことが心配だったと口にしそうになった。
もし、そう言ったら。
本当の花嫁として愛してくれるのだろうか。
「期待していたのだろう? 春見が捜しに来てくれることを。迎えに来てくれるその日を。だが一度でも奴の姿を見かけたことがあるか」
頭の奥が、かっとなった。螢は力任せに空蝉を押しのけた。
意地悪を言って螢が悲しむのを楽しんでいるのだ。そう思ったのに、空蝉の表情は寂しげだった。
「なによ……」
「いや、別に。私の夢を覗き見るから、仕返ししただけだ」
空蝉のことが分からない。
春見のことを好きでいろと命じつつ、春見には期待するなと言い放つ。
螢を傷つけたいのか、自分が傷つきたいのか。いったいどちらなのだろう。
でもこれだけは分かる。こんな空虚な関係に未来はないということが。
いつか春見と再会できたなら。彼が、螢を今も捜し続けてくれているのなら、その時は空蝉と別れる時かもしれない。
ふと螢の胸の内に、木枯らしが吹いたような気がした。
春なのに。
空蝉には、期待しても無駄なのに。
(これは、きっと長く一緒に居すぎただけ。愛情じゃないわ)
餌でしかない自分が、孤独な神を愛し、愛されるなどあり得ないことだ。
けれど、春見を慕う気持ちは空蝉を傷つける。
この想いは恋ではないと言い続けても、空蝉は信じない。
螢の甘い蜜を吸うたびに、彼の胸には苦さが広がるのだろう。
べったりと残る苦みを消すために、螢を煽り、また空蝉自身が傷ついていく。
あまりにも不毛だ。
食事をしたいわけでもないだろうに、空蝉は螢の首に唇を這わせた。
まとわりつく感触。寒気がするわけではない。
ただ、丹念に唇が押し当てられるから、ぞくぞくするのを抑えられない。
「どうした?」
「なんでもない」
どうして食べる行為が、くちづけと同じなのだろう。
螢は、空蝉の羽織に指を立てた。
「どうしてほしい?」
「……なにも」
「そうか」
そのまま空蝉は螢の肩に顔を埋めた。
「そなたはいい。私が触れても枯れぬからな」
「わたしは、植物じゃないのよ」
「動物でも人でも同じだ。誰も私を受け入れぬ。無理強いされ脅されて、形としては憑依を認めても、心が私を拒絶する。螢、なぜそなたは私を容認した?」
「守りたかったのよ」
「……それは、あいつのことを、か」
ああ、何も伝わらない。
空蝉の髪を撫でながら、螢は彼の耳に口を寄せた。
「ええ、そうよ。春見を守りたかったの」
ねぇ、こう言えば満足なんでしょう?
本当は空蝉を守りたいのに。あなたはそれすらも認めてくれない。
もっと、もっと傷つきたがっている。
ふっと小さく空蝉が笑った。
「二言めには春見だな。そなたの中では、奴はまだ清らかな少年のままなのだろうな」
「そうね。春見の優しさは変わらないわ」
「この世に不変は、ありえない」
顔を埋めたままの空蝉の声は、くぐもって聞こえる。
「清らかさは潔癖さ、優しさは弱さにつながる。螢、なぜそなたは十年もの間、この山から出ていこうとしなかった?」
「……それは」
今度こそ、あなたのことが心配だったと口にしそうになった。
もし、そう言ったら。
本当の花嫁として愛してくれるのだろうか。
「期待していたのだろう? 春見が捜しに来てくれることを。迎えに来てくれるその日を。だが一度でも奴の姿を見かけたことがあるか」
頭の奥が、かっとなった。螢は力任せに空蝉を押しのけた。
意地悪を言って螢が悲しむのを楽しんでいるのだ。そう思ったのに、空蝉の表情は寂しげだった。
「なによ……」
「いや、別に。私の夢を覗き見るから、仕返ししただけだ」
空蝉のことが分からない。
春見のことを好きでいろと命じつつ、春見には期待するなと言い放つ。
螢を傷つけたいのか、自分が傷つきたいのか。いったいどちらなのだろう。
でもこれだけは分かる。こんな空虚な関係に未来はないということが。
いつか春見と再会できたなら。彼が、螢を今も捜し続けてくれているのなら、その時は空蝉と別れる時かもしれない。
ふと螢の胸の内に、木枯らしが吹いたような気がした。
春なのに。
空蝉には、期待しても無駄なのに。
(これは、きっと長く一緒に居すぎただけ。愛情じゃないわ)
餌でしかない自分が、孤独な神を愛し、愛されるなどあり得ないことだ。
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