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二章
3、ひざまくら
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山道を上がっても、まだ油断はできない。炭焼き小屋を見かけては、それを避けて進む。
どこにも居場所がない。
歩き続けて疲れ果てた螢は、草の中にしゃがみこんだ。ふいに目の前が暗くなり、どさりと倒れる。
「おい、螢。どうした?」
空蝉に体を揺さぶられるけれど、瞼を開くこともできなかった。
「しっかりしろ。私を置いていくな。ようやくそなたと……」
まるで泣きそうな声が聞こえたけれど。あの傲岸不遜な疫神が、そんな泣き言を洩らすはずがない。
これは、きっと幻聴。
そうに決まっている。
◇◇◇
螢が気付いた時には、辺りは真っ暗だった。
紺田村も夜は暗かったけれど。それでも家の明かりはあった。だが、この山の中は真の闇だ。
しばらくは、自分の伸ばした手の先もろくに見えなかった。
「頭部の傷は、出血が多くなりやすいのだな。血が足りなくなったのだろう。このまま休んでいなさい」
螢を見下ろすのは、不安そうな緋色の瞳だ。
どうやら空蝉が、螢をひざまくらしているらしい。
変わったことをすると、螢は思った。
相手を心配するのも、癒すのも、悪しき神の仕事ではないだろうに。
「そなたは昔から無茶をする」
「昔なんて……わたしのことを知らないでしょう?」
「さぁな」
優しい手つきで髪を撫でられる。それが妙に心地よい。
そんな風に感じたくはないけれど。
「わたしのことなんて、置いていけばよかったのに。あなたはもう自由なんだから、わたしがいたら足手まといでしょ」
「螢と別れるなど、考えたこともなかったな」
「変なの。疫神って、小川の結界に封じられていた禍々しい神よね。解放されたなら、好き放題に災いをまき散らすものだと思っていたわ」
そう言うと、空蝉は螢のひたいを指ではじいた。
「へ?」
痛いんですけど。怪我人なんですけど。
「私のことを、殺人鬼のようにいうものではない。失礼だろう?」
「ご、ごめんなさい」
「あと、私は蝉の抜け殻も松ぼっくりも食わぬ」
疫神は口をへの字に結んで、横を向いた。
目が闇に慣れたのだろうか。見上げると、重なる木々の葉の向こうに星空が見えた。
金の粉を散らしたような、見事な星だった。
「さぁ約束だ。褒美を寄越してもらおう」
「褒美って……」
あっ、と螢は声を出した。
思いだした。名前を呼べと言われていたんだ。
「ねぇ、どうしてわたしにこだわるの?」
「それは……大事な食糧だからだ」
なんだ、結局それだけなのね。花嫁って、餌と同義語なんじゃないの?
落胆するのが、自分でも不思議だった。
でも、どんな答えを求めていたのだろう。
本当に花嫁として愛してほしかったのだろうか。
「名前を呼ぶなんてお断りよ。どうせわたしはあなたの家畜でしかないんでしょ」
「自分を卑下するものではない。私はそなた以外を食いたいとは思わぬ」
「全然褒めてない」
「そう捉えるのか? 最高の賛辞だが。まぁよい、さぁ我が名を呼べ」
「うっ」と螢は口ごもった。
「『うっ』ではない。『空蝉』だ」
螢の顔を覗きこんでくる緋色の瞳は、不思議なくらい優しい。
あなたは悪しき神なんでしょう? なのに、どうしてそんな切なそうに見つめてくるの?
まるで、寂しい人みたいに。
「さぁ、螢。続きを」
「違うの。今のは呼ぼうとしたんじゃなくって」
「私に聞かれるのが恥ずかしいのならば唇を重ねて呼べば、そなたの声も我が口の中に消えるであろう」
それって……つまり。
空蝉の提案する状況を思い描いて、螢はめまいがしそうになった。
しかも冗談ではなく、彼は本気で言っているから、たちが悪い。
「抵抗しても構わぬぞ。私はそなたよりも力が強い」
「や……っ」
「ただ我が名を呼ぶだけだ。簡単なことだろう?」
全然、簡単ではない。
今日は人生で最悪の日だ。こんな日は、さっさと終わってほしい。
なのに、長い一日はまだ終わらなかった。
どこにも居場所がない。
歩き続けて疲れ果てた螢は、草の中にしゃがみこんだ。ふいに目の前が暗くなり、どさりと倒れる。
「おい、螢。どうした?」
空蝉に体を揺さぶられるけれど、瞼を開くこともできなかった。
「しっかりしろ。私を置いていくな。ようやくそなたと……」
まるで泣きそうな声が聞こえたけれど。あの傲岸不遜な疫神が、そんな泣き言を洩らすはずがない。
これは、きっと幻聴。
そうに決まっている。
◇◇◇
螢が気付いた時には、辺りは真っ暗だった。
紺田村も夜は暗かったけれど。それでも家の明かりはあった。だが、この山の中は真の闇だ。
しばらくは、自分の伸ばした手の先もろくに見えなかった。
「頭部の傷は、出血が多くなりやすいのだな。血が足りなくなったのだろう。このまま休んでいなさい」
螢を見下ろすのは、不安そうな緋色の瞳だ。
どうやら空蝉が、螢をひざまくらしているらしい。
変わったことをすると、螢は思った。
相手を心配するのも、癒すのも、悪しき神の仕事ではないだろうに。
「そなたは昔から無茶をする」
「昔なんて……わたしのことを知らないでしょう?」
「さぁな」
優しい手つきで髪を撫でられる。それが妙に心地よい。
そんな風に感じたくはないけれど。
「わたしのことなんて、置いていけばよかったのに。あなたはもう自由なんだから、わたしがいたら足手まといでしょ」
「螢と別れるなど、考えたこともなかったな」
「変なの。疫神って、小川の結界に封じられていた禍々しい神よね。解放されたなら、好き放題に災いをまき散らすものだと思っていたわ」
そう言うと、空蝉は螢のひたいを指ではじいた。
「へ?」
痛いんですけど。怪我人なんですけど。
「私のことを、殺人鬼のようにいうものではない。失礼だろう?」
「ご、ごめんなさい」
「あと、私は蝉の抜け殻も松ぼっくりも食わぬ」
疫神は口をへの字に結んで、横を向いた。
目が闇に慣れたのだろうか。見上げると、重なる木々の葉の向こうに星空が見えた。
金の粉を散らしたような、見事な星だった。
「さぁ約束だ。褒美を寄越してもらおう」
「褒美って……」
あっ、と螢は声を出した。
思いだした。名前を呼べと言われていたんだ。
「ねぇ、どうしてわたしにこだわるの?」
「それは……大事な食糧だからだ」
なんだ、結局それだけなのね。花嫁って、餌と同義語なんじゃないの?
落胆するのが、自分でも不思議だった。
でも、どんな答えを求めていたのだろう。
本当に花嫁として愛してほしかったのだろうか。
「名前を呼ぶなんてお断りよ。どうせわたしはあなたの家畜でしかないんでしょ」
「自分を卑下するものではない。私はそなた以外を食いたいとは思わぬ」
「全然褒めてない」
「そう捉えるのか? 最高の賛辞だが。まぁよい、さぁ我が名を呼べ」
「うっ」と螢は口ごもった。
「『うっ』ではない。『空蝉』だ」
螢の顔を覗きこんでくる緋色の瞳は、不思議なくらい優しい。
あなたは悪しき神なんでしょう? なのに、どうしてそんな切なそうに見つめてくるの?
まるで、寂しい人みたいに。
「さぁ、螢。続きを」
「違うの。今のは呼ぼうとしたんじゃなくって」
「私に聞かれるのが恥ずかしいのならば唇を重ねて呼べば、そなたの声も我が口の中に消えるであろう」
それって……つまり。
空蝉の提案する状況を思い描いて、螢はめまいがしそうになった。
しかも冗談ではなく、彼は本気で言っているから、たちが悪い。
「抵抗しても構わぬぞ。私はそなたよりも力が強い」
「や……っ」
「ただ我が名を呼ぶだけだ。簡単なことだろう?」
全然、簡単ではない。
今日は人生で最悪の日だ。こんな日は、さっさと終わってほしい。
なのに、長い一日はまだ終わらなかった。
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