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八章
13、あの子
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琥太郎さんの手を引いて、海風を感じながら坂を下りてゆきます。午後ほどには潮の匂いは強くなく、空き地に咲く白詰草は、まるで緑の布地の上に真珠を撒いたかのように見えます。
もし子どもが女の子だったら、白詰草で花冠や首飾りを作ってあげることもあったでしょうが。琥太郎さんにはそういう機会もなく、さすがに大人になって花畑に入るのも気が引けます。
眠くなりそうな蜂の羽音と「おかーさん。はやくはやく」と急かす琥太郎さんの声。もう借りたい本を決めているようです。
貸本屋さんに着いたわたしは「お邪魔します」と声をかけて中に入りました。
少しがたついた引き戸を、両手で力を込めて開きます。戸に嵌められた硝子が、かたかたと音を立てました。
本やインクのこもった匂いが、一気に押し寄せてきます。薄暗い店内は、春の盛りだというのに肌寒いほど。
細長い店内の左右の壁に据えられた書棚には、びっしりと本が並んでいます。
「あんな、ぼく、これよみたいねん」
琥太郎さんは迷うことなく、目的の棚へと向かいました。選んだ本の表紙には『幼年畫報』と記されています。
中をぱらぱらとめくると、馬を駆る色鮮やかな武者の絵と、カタカナの短い文章。どうやら絵雑誌のようです。
これなら琥太郎さんが一人でも読めるかしら。
「坊。今日はお母さんと一緒か、ええな」
「うん、ええやろ」
選んだ『幼年畫報』を勘定台のおじさんのところに持って行った琥太郎さんは、笑顔で答えました。
わたしがついてこれない時は、手の空いている組の若い人に付き添いを頼んでいるのでいるのですが。強面なので、お店のおじさんが怖がるのだと、琥太郎さんがそっと教えてくれたことがあります。
帰り道、坂を上っていると突然琥太郎さんがわたしの手を振り切って走りだしました。
「どうしたの?」
「すぐに戻るから」
本を両手で抱えた琥太郎さんは、道を逸れて草むらの中を進みました。正確には、白詰草が咲き誇る野原ですが。
突然の闖入者に慌てて飛び立つ黄色い蝶に蜂。琥太郎さんはいちめんの緑と、白い花の中にしゃがみこんで一生懸命に白詰草を摘んでいました。
「お花が欲しかったの?」
「おかあさんに、おみやげなん。あ、ちゃう。おみやげとちごて、ごしんもつ」
ご進物? 贈り物のことでしょうか。蒼一郎さんのところに、灘五郷のお酒などのご進物が来ることも多いので、自然と言葉を覚えたのかもしれません。
膝に乗せていた『幼年畫報』が草の中に落ちるのも構わずに、琥太郎さんは摘んだばかりの白い花束をわたしにくれたのです。「はい、どうぞ」と朗らかに微笑みながら。
「あ、ありがとう」
我が子からの思わぬ贈り物に、胸の奥が締めつけられたような気がしました。嬉しいのに、どこか切なくて。青い春の匂いが、この一瞬こそが愛おしいのだと囁いているように思えたのです。
家の近くの神社の辺りまで来ると、杜が鬱蒼と茂っているために、ひんやりと肌寒く感じられました。
苔むした湿ったにおいは風情があるような、土臭く埃っぽいような難しい香りです。
日の当たらない石段に、何かがうずくまっているのが見えました。白っぽいそれを、最初はぐったりとした犬かと思ったのですが。
よく見ると人でした。それも子ども。
「こ、琥太郎さん。人が倒れているわ」
わたしが駆けだすと、琥太郎さんも後を追ってきました。さっき借りたばかりのお気に入りの『幼年畫報』を地面に落として。
「あの子や」
琥太郎さんの言葉に、わたしは息を呑みました。「あの子」と聞くだけで、それが誰なのか、どういう状況なのかが分かったのです。
もし子どもが女の子だったら、白詰草で花冠や首飾りを作ってあげることもあったでしょうが。琥太郎さんにはそういう機会もなく、さすがに大人になって花畑に入るのも気が引けます。
眠くなりそうな蜂の羽音と「おかーさん。はやくはやく」と急かす琥太郎さんの声。もう借りたい本を決めているようです。
貸本屋さんに着いたわたしは「お邪魔します」と声をかけて中に入りました。
少しがたついた引き戸を、両手で力を込めて開きます。戸に嵌められた硝子が、かたかたと音を立てました。
本やインクのこもった匂いが、一気に押し寄せてきます。薄暗い店内は、春の盛りだというのに肌寒いほど。
細長い店内の左右の壁に据えられた書棚には、びっしりと本が並んでいます。
「あんな、ぼく、これよみたいねん」
琥太郎さんは迷うことなく、目的の棚へと向かいました。選んだ本の表紙には『幼年畫報』と記されています。
中をぱらぱらとめくると、馬を駆る色鮮やかな武者の絵と、カタカナの短い文章。どうやら絵雑誌のようです。
これなら琥太郎さんが一人でも読めるかしら。
「坊。今日はお母さんと一緒か、ええな」
「うん、ええやろ」
選んだ『幼年畫報』を勘定台のおじさんのところに持って行った琥太郎さんは、笑顔で答えました。
わたしがついてこれない時は、手の空いている組の若い人に付き添いを頼んでいるのでいるのですが。強面なので、お店のおじさんが怖がるのだと、琥太郎さんがそっと教えてくれたことがあります。
帰り道、坂を上っていると突然琥太郎さんがわたしの手を振り切って走りだしました。
「どうしたの?」
「すぐに戻るから」
本を両手で抱えた琥太郎さんは、道を逸れて草むらの中を進みました。正確には、白詰草が咲き誇る野原ですが。
突然の闖入者に慌てて飛び立つ黄色い蝶に蜂。琥太郎さんはいちめんの緑と、白い花の中にしゃがみこんで一生懸命に白詰草を摘んでいました。
「お花が欲しかったの?」
「おかあさんに、おみやげなん。あ、ちゃう。おみやげとちごて、ごしんもつ」
ご進物? 贈り物のことでしょうか。蒼一郎さんのところに、灘五郷のお酒などのご進物が来ることも多いので、自然と言葉を覚えたのかもしれません。
膝に乗せていた『幼年畫報』が草の中に落ちるのも構わずに、琥太郎さんは摘んだばかりの白い花束をわたしにくれたのです。「はい、どうぞ」と朗らかに微笑みながら。
「あ、ありがとう」
我が子からの思わぬ贈り物に、胸の奥が締めつけられたような気がしました。嬉しいのに、どこか切なくて。青い春の匂いが、この一瞬こそが愛おしいのだと囁いているように思えたのです。
家の近くの神社の辺りまで来ると、杜が鬱蒼と茂っているために、ひんやりと肌寒く感じられました。
苔むした湿ったにおいは風情があるような、土臭く埃っぽいような難しい香りです。
日の当たらない石段に、何かがうずくまっているのが見えました。白っぽいそれを、最初はぐったりとした犬かと思ったのですが。
よく見ると人でした。それも子ども。
「こ、琥太郎さん。人が倒れているわ」
わたしが駆けだすと、琥太郎さんも後を追ってきました。さっき借りたばかりのお気に入りの『幼年畫報』を地面に落として。
「あの子や」
琥太郎さんの言葉に、わたしは息を呑みました。「あの子」と聞くだけで、それが誰なのか、どういう状況なのかが分かったのです。
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