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八章

9、方向音痴

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 帰り道。わたしたちは、あの坊やのお家へと立ち寄ることにしました。門の外に、そっと琥太郎さんが拾った桜を置くだけでよかったのです。
 もし気づいてくれるのなら、それでいい。気づかれなければ、それでもしょうがない。
 わたしたち大人の考えは一致していましたが、琥太郎さんはそうではないようでした。

「ぜったいに、あの子、よろこぶねん」

 桜並木の下を戻る時。白い頬を上気させて、琥太郎さんは小さい体そのものが春の柔らかな薄紅に染まっていました。
 両手にはいっぱいの桜の花、そして花びら。むろん、小さな手ですから、持てる数は限られています。

「はよ、つかへんかなぁ」
「そうやな。電車に頑張ってもらわなあかんな」
「ぼくが、はしったらええんちゃうかな」

 電車の中で琥太郎さんが走って、果たして意味があるのでしょうか。蒼一郎さんとわたしは、向かい合わせに座席に腰かけて苦笑しました。

 凪いだ瀬戸内海は、海面もなめらかで、夕暮れには早い午後の空を映していました。
 少し上げた窓から入り込む風は、潮の香りを伴っていましたが、肌にも髪にも柔らかでした。

 滅多に赴くことはないのですが、東京に行く時などは、山が近くになく、風が乾いていることも不思議でならず。土埃もこちらよりも多く舞っている気がして、すぐに肌が乾燥するのです。

 汽車ほどにはうるさくなく、黒い煙も撒き散らさない電車は、線路のつなぎ目の規則正しい音を立てています。
 ふと蒼一郎さんが辺りを見まわして、目を細めました。

「走らへんのか? 琥太郎。今やったら、人もほとんどおらへんで」
「そんな、おぎょうぎのわるいこと、せぇへんもん」
「なんや、口だけかぁ。せやったら、お父さんが走ってきたろか? ちょっと電車が速よなるかもしれへんで」
 
 冗談であると分かってはいるのに、わたしはふるふると首を振り。琥太郎さんはというと「やめてぇ、はずかしい」と必死に蒼一郎さんの羽織を摑むのです。
 小さな手にしっかりと羽織を握られた蒼一郎さんはというと、にやにやと「なんやぁ、意気地がないなぁ」とからかうのでした。

「意地が悪いですよ」
「まぁまぁ。絲さん、今日は疲れたんとちゃうか? よう、歩いたからなぁ」

 もう。すぐに話を逸らすんですから。
 わたしは口を尖らせましたが、結局すぐに笑みがこぼれてしまうのです。
 
◇◇◇

 最寄りの驛を降りると、琥太郎さんは一目散に走りだしました。
 木の階段につまずきそうになりながら、それでも転ぶことはなく、方向も道も確認せずに駆けるのです。

「待て。待つんや、琥太郎。そっちやない」

 蒼一郎さんとわたしは、切符を驛員さんに渡すのももどかしく、小さな背中を追いかけしたす。

 向かう先に希望があるのか、或いは光があるのか。両手で手巾ハンカチに包んだ桜の花をしっかりと握り、琥太郎さんは滲んだ春の青空の下を進みます。

 あんなに歩いたとも思えぬ、軽やかな足音。空にはさざ波に似た細かな白い雲が散り、年の割にませたところのあるのに怖がりな琥太郎さんが、今ばかりは勇ましく見えるのです。
 まぁ、逆方向に向かっているのですけれど。

 運動が苦手なはずの琥太郎さんの足は、今日に限っては速く、蒼一郎さんもなかなか追いつけません。

「あいつ、方向音痴なんか? なんで正反対の方に行くねん」

 結局、背後からひょいと蒼一郎さんに抱き上げられて、琥太郎さんはばたばたと空中で足を動かしました。
 
「もうっ。はなしてよ。はずかしいやんか」

 まるで猫を持ちあげる時のように両脇に手を入れられて、琥太郎さんは結局足をだらりとさせました。
 その前を走りすぎる人力車と、大八車。
 土埃を立てて走り去るそれらを一瞥し、蒼一郎さんはため息を洩らします。

「あんなぁ。自動車やのうて、人が牽いてる俥でも、ぶつかったら怪我するねん。琥太郎みたいな小さい子ぉやったら、ほんまに危ないねんで」
「けど……ぼく、おはなあげたいから」
「あの子も、自分の為に琥太郎が怪我をしたって知ったら悲しむやろ」

 そのことに思い至らなかった琥太郎さんは、目を見開いた後に、小さく「うん」と頷いたのでした。
 相変わらず、蒼一郎さんに両脇を抱えられたまま。
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