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八章

5、桜を見に

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 琥太郎さんは特に偏食もなく、健康に育ちました。
 それでも幼児特有の病気にはかかるものです。
 おたふく風邪で、ほっぺたが真っ赤に腫れたり、麻疹の時もそれはそれは大変で。蒼一郎さんや波多野さんと交代で夜通し看病したものです。

 このまま琥太郎さんが死んでしまったらどうしようかと、わたしは目に涙を浮かべながら、水に浸した手拭いで小さなおでこを何度も拭きました。
 汗ばんで苦しそうで、息が荒くて。冷たかったはずの手拭いも、すぐに熱を持ってしまうんです。

 その頃には言葉を少し話せるようになった琥太郎さんが「おかあ、さん」と、お布団から弱々しく手を伸ばしてきた時は、本当に泣いてしまいました。
 わたしの涙が敷布団に吸い込まれて。ああ、いけないと身を引けば、琥太郎さんに弱々しく引っ張られたのです。

 まるで火がついたように熱い熱い小さな手。両手で包むと、もっと熱くてつらいでしょうに。わたしに手を握ってもらいたがるんです。

 あまりにも哀しくて。声も立てずに、ただ涙がはらはらと散るように落ちていきます。
 琥太郎さんの熱のある赤い顔が、ぼうっとにじんで。夕焼けがお部屋の壁や畳を赤く照らして、永遠に琥太郎さんが病気のままなのではないかと、そんなことばかりを考えてしまいました。
 
 暮れなずむお部屋で声もなく泣いているわたしの背中を、音もなく入って来た蒼一郎さんが、そっと撫でてくれるのです。
 そうやって何度も病を乗り越えて、琥太郎さんは大きくなっていきました。

 そして三歳を過ぎたのです。
 今ではしっかりと歩けますし、言葉も幼児とは思えないほどに達者です。

 季節は春の盛りで、陽射しはきらきらと金の粒を散り敷いたように木々の若芽や、しなやかな浅い緑の草を彩っています。
 柔らかにうねるような、まどろむようなそよ風の中、わたしは久しぶりに洋服を身にまといました。

 鏡台の前でくるりとまわると、藤色のスカートが風をはらんで広がります。琥太郎さんは声を上げて喜ぶのですけれど。足がすうすうするの。
 
「お、よう似合におてるやん。絲さんは何を着ても可愛いなぁ」
「なんだか恥ずかしいです。着物じゃだめですか?」
「あかんなぁ、足下が悪いからな」

 そうおっしゃる蒼一郎さんは、いつも通りの和装なんですけど。
 蒼一郎さんは琥太郎さんを抱き上げると、いつものように頬ずりをしました。

 小さい両手で蒼一郎さんの顔をつっぱりながら、琥太郎さんは「やーっ」と抵抗しています。

「なんや、琥太郎。寂しいこと言わんといて。今日はお父さんが抱っこしたるから、一緒にお出かけしよな」
「おかーさんの、だっこがいいの」
「ああ、無理無理。絲さんは座ってやないと、琥太郎を抱っこできへんねん」

 説得された琥太郎さんは、むーっと頬を膨らませます。
 あの、怒ってるんですよ? 拗ねてるんですよ? なのに蒼一郎さんったら「もー、琥太郎はどんな顔しても可愛いなぁ」って、でれでれなんです。
 基本的に褒める時の語彙は「可愛い」ですよね?

 わたしも覚えがあるんですけど。蒼一郎さんって、そういう人なの。諦めた方がいいですよ。

 波多野さんをはじめ、組の皆さんに見送られてわたし達は門を出ました。

 琥太郎さんを真ん中に、蒼一郎さんとわたしが左右を歩きます。左手で蒼一郎さんを、右手でわたしと手をつなぐ琥太郎さんは、嬉しそうに跳び跳ねながら歩いています。

「おはな、みにいくの?」
「ええ、そうよ。桜を見に行きましょうね」
「さくらもちの、さくら?」
「あるかなぁ、桜餅。むしろ花見団子が売っとんとちゃうかな」

 蒼一郎さんは、柔らかな羽毛のような白い雲がかかった、滲んだ蒼い空を眺めながら答えました。

 うちのお庭にも桜の木はありますが。少し翳った場所にある枝垂れ桜なので、花の時季が遅いのです。
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